変わりたいですか?

新年にあたって、たいていの人は、今年はこうしたいとか、ああなってほしいなどと考える。新年の誓いと期待とは、昨年までの自分のあり方から、何らかの『変化』を望む気持ちのあらわれだ。

G・ワインバーグは、機知にあふれた著書「技術コンサルタントの秘密」の中で、“コンサルタントとは人々にたいし、彼らの要請にもとづいて変化を及ぼす仕事をする人”だと書いている。これは報酬の有無にかかわらず成り立つ、うまい定義だ。クライアントは何かを変えたい、もっとうまくやりたい、変化したい、と望んで、その要請をコンサルタントにぶつける。コンサルタントはクライアントの変化の案内役を務める。だから、コンサルティング技法の中心には『変化論』が要るのだ、というのが彼の論法だ。

ところで、変化への望みには、2種類の仕方があると私はつねづね感じている。それは、何々にになりたい、という願望と、何々をしたい、という期待である。うまく変化の道をたどれるかどうかは、このどちらの種類の望み方をするかにかかっているのではないか。前者はどちらかというと夢であり、「お姫様になりたい」という女の子の夢想に近い。そこには結果像だけがあって、お姫様にはどうやったらなれるのかという、具体的プロセスが欠けている。だから「今年は業界で一番になりたい」という目標は、意外に華奢(きゃしゃ)な望みなのだ。

これに対して「今年こそみんなと一緒に鉄棒を楽しみたい」は建設的である。そのためにはどうしたら逆上がりができるようになるか、握力を強くするにはどうしたらいいか、など挑戦すべき課題が次々に出てくる。こういう風に、課題とプロセスが次々に展開してくる願望の方が、ベターなのだ。「~になりたい」は単なる夢だが、「~をしたい」は希望である。「今年は業界で一番になりたい」より、「今年は性能が5割アップの製品を作りたい」へ。つまり、「~になりたい」から「~をしたい」に、まず望みをシェイプアップすることが、変化への近道なのだ。

ちなみに「お姫様」は身分であり、「逆上がり」は活動である。この対比を、私は政治学者・丸山真男の論考「『である』ことと『する』こと」から学んだ(岩波新書「日本の思想」所収)。彼は前近代の身分制社会から、近代の機能的社会への変化を重視する人で、最初高校生の時に読んだ際には、ちょっと図式的過ぎると感じたが、最近この問題は案外奥が深いな、と思うようになった。彼は「女であること」は小説の題になりうるが、「男であること」というタイトルは少し滑稽な感じがする、と書いている。昭和まで続く伝統的思考においては、女は身分だが、男は社会性だ、ということらしい。ここらへんは、平成も20年近くなった今では、すこしずれてきているようだが。

変化論に話をもどすと、「変化」とは現在のあり方・やり方を捨てることである。捨てなければ、変化できない。ここに、変化への抵抗の源がある。現在、それなりになんとか成り立っているやり方や仕組みを捨ててしまって、本当に大丈夫なのだろうか? とりかえしのつかないことに、なりはしないか。こうした不安は、誰しもが感じる。だから結局、これまでの『やり方』を手放さないまま、新しい『あり方』だけを夢想するような、“~になりたい”目標が出てくるわけだ。

現状維持はすなわち、現状を捨てることに対するリスク判断が大きすぎる結果として、生まれる。前例がない、という役人得意の文句はその典型である。こうした組織では、変化は起こりにくい。以前「リスク確率と代替可能な仕事の価値」の中でも書いたように、リスク確率とはじつは主観確率である。現状以外にたいするリスクの主観確率が高い組織では、だから変化は決して起こらない。

その長期的結果として、どうなるのだろうか? 簡単なことだ。外界は変化していく。しかし自分は変化できない。だから、しだいに環境に適応できないようになる。そして、恐竜と同じ運命をたどることになる。変化するための小さな代償を拒んだがゆえに、自分自身の存続という最大の代償を払うのだ。

ワインバーグは上記の本の中で、「何かを失うための最良の方法は、それを離すまいともがくことだ」と書いている。変化を規制すると、失うものも多い。プロ野球の長期低迷から日本コメ農業の危機まで、その実例を私たちはあちこちで見ている。

変化とは賭けであり、賭けとは選んだ選択肢以外を捨てることである。古い皮を脱ぎ捨てなければ、自分も組織も大きくなれない。だから、新年の望みを持つならば、「~したい」という形で希望を語るようにしよう。
by Tomoichi_Sato | 2007-01-02 15:27 | 考えるヒント | Comments(0)
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