「設計管理」の必要性(2)--海外リソースの使い方

“名選手必ずしも名監督ならず”--野球のことわざだ。プレイヤーとしての個人技量がいかに優れていても、それが必ずしもチームの采配の上手さを意味するものではない、とこの言葉はいっている。サッカーでも、たぶん事情は同じなのだろう。似たような言い回しが映画の世界にあるかどうかは知らないが、映画監督で俳優出身者は少なく、名優となるとデ・シーカやチャップリンなど、数えるほどしかいない。

日本の製造業における設計部門は、監督のいない映画のようだ、と前回書いた。設計、ことに基本設計は、かなりの程度まで個人の技量や創造性に左右される。しかし、今日、設計者が一人だけで、ものづくりの全てを決めることなどできない。さまざまな設計関連作業が、チームワークを保って、段取り良く進まなければならない。この、映画監督にあたる役割が、専門職として認知されていないのである。

その弱点は、日本企業がアジアなど海外に設計協力を求める段になってくると、てきめん表われてくる。中国であれマレーシアであれインドであれ、海外の会社に設計を外注するのが、はっきりいって下手だ。相手が独立企業や合弁だから言うことをきかない、との言い訳もときおり聞くが、100%子会社だって御しにくいのだ。だから、せっかく海外に設計拠点を作ってコスト削減をするつもりが、日本から大勢を支援のため派遣して、費用は元の木阿弥、かえって時間はよけいにかかった、という例が少なくない。

その理由は、しばしば相手国の文化のせいにされる。中国人は自分勝手な“砂の民”だ、インド人は理屈っぽく尊大で、マレーシア人は南洋の怠け者、という訳だ。不思議なことにわが国では、文化人類学を学んだ訳でもないのに、文化を語りたがる技術者がやたら多い。文化論に見えてそのじつ、たんなるアジア人への偏見を合理化しているのに過ぎないのだが。

しかし、オフショア設計外注がうまくいかない本当の理由は、異文化ギャップではない。それは、同じ業界の欧米企業と比べてみると明瞭だ。彼らは、すくなくとも我々より上手にアジアのリソースを使いこなしている。文化の差異なら彼らの方がハンデが大きいはずなのに。

その差はすなわち、『設計管理』能力の差なのだ。彼らのやり方は、たとえばこんな風だ:

* 設計という大きな仕事を、基本設計・電気設計・機械設計・・といった小さな職務単位に分解すること(WBS化)、
* それぞれの職務単位で、インプットとアウトプットと計算ツールを明確にすること、
* 進捗のプロセスを定義すること、
* 納期から逆算して各作業期限を設定し、隘路(クリティカル・パス)を把握すること、
* 文書と図面のリストを最初に作成し、図面番号と検索手段を定義すること、
* 要確認事項のトラッキング・リスト(To Do List)を作って追うこと、
* 設計上のリスク・ファクターを明確にすること、
* 設計者間の行き違いやコンフリクトを調整し、意志決定権限と責任範囲を定めること、

そして,

* 以上のプロセスを文書で明文化し、誰でも及第点のレベルでは遂行できるようにすること

である。

ひとつひとつをとれば、やっていることにそれほどの違いはない。だが、ここには設計者個人の力量に依存しないための方法論がある。少なくとも、設計はマネジメントが必要だ、という醒めた認識がそこにはある。エンジニアが年功序列で管理職になれば、そのまま管理ができるはずだ、とは単純に考えない。

現実には、欧米人にだってマネジメントの上手下手は歴然と存在するし、だからDilbertのマンガみたいな笑い話も生まれるのだろう。私の見聞きした経験では、英米の企業はどちらかというと組織でシステマティックに設計を進めるのがうまいし、フランス・イタリアあたりの企業では、ごく少数の天才的なエンジニアが発想して大多数がそれにしたがって実現する、という印象を受ける。そういう意味では、彼らの間だって文化のギャップは存在する。

だが、少なくとも彼らが文化のギャップを理由にして、設計マネジメントの不在を言い訳した例をきいたことがない。マネジメントは、プロセスである。職位や人格や文化ではないのだ。

(追記)筆者の勤務先である日揮には、幸か不幸か「エンジニアリング・マネジメント部」という部署が今のところ存在する。これはエンジニアリング会社の得意なマトリクス型組織の一例である。
by Tomoichi_Sato | 2006-07-01 12:49 | ビジネス | Comments(0)
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