必要な人はいつもたった一人しかいない-その理由と帰結

個別受注生産におけるスケジューリング問題を根本から解決したければ、製品設計において、バリエーション・リダクションの方針を導入する必要がなる、と前回書いた。

ところで、これを書いていながら、ふと思ったことがあった。それは、バリエーション・リダクションのような方針変更はかなりラディカルな変革であり、しばしば設計部門・原価管理部門・営業部門など本社サイドからの、強い反発にあうということだ。

設計技術者にとっては、個別仕様に対してぴったりの最適設計をすることが、自らの誇りである。モジュールの組み合せで仕様を実現する場合、ぴったりの数字にはならず、9.5馬力でよい所に10馬力の駆動部をもってくるようなことになりがちである。仕様上の余裕があれば、その分、コストも上がることになる。そう、原価管理の担当者は考えるであろう。そうなれば価格競争力が落ちて、競合他社に負けかねない、と営業部門は恐れるだろう。

では、個別最適設計方針がつづけばどうなるか。設計の工数はかさむばかりだし、営業の手間も減るまい。が、本社部門の人件費は販売管理費に含まれる。販管費比率が高い責任は、誰も問われない。生産リードタイムが長いと、工場の年間生産能力は伸びない(1台作るのに1ヶ月かかれば年産12台だが、それが2ヶ月になれば6台しか生産できない)。しかし、工場長以外の誰がそんなことに責任を感じるだろうか? みな、自分の持ち場で最善をつくしているだけなのだ。

そうなると、結局困るのは経営者である。販管費が同業他社より高ければ、人員削減を考えることになる。製造に問題があれば、安い海外部品を調達するか、あるいは工場ごと中国に移してしまえ、という結論になる。では、その結論がもたらすものは何か? いいたくはないが、安易な海外展開での製造品質やリードタイムの行方は、火を見るより明らかだろう。だから、ゆっくりとではあるが、その事業部門は顧客の信頼も失って行く。そして、事業部門自体が撤退の対象になりかねない。こうして、長時間労働に耐え、最善をつくした多くの人たちが職を失うのだ。

極端すぎる議論だと思われるかもしれない。だが、これこそ過去5年間、日本の製造業で起こってきたことではないか。

いいかえるなら、ここには根本的な矛盾がある。技術者の仕事とは、「業務の設計・改善」それ自体を、主要な一部として含んでいる。それはつまり、仕事に関して『代替可能性を高める』ということだ。だから海外展開が可能になるのだ。しかし、代替可能性が高まるほど、それは技術者個人から、アイデンティティの根拠を奪っていく。

その結果、どうなるか。技術者はあらゆる機会をとらえて、個別な・特殊な・些末な・例外的な・だが重要な(少なくともそれ無しでは不便な)仕事を、自分のために作りだしてゆく。彼(彼女)個人がいないと、ビジネスが回らないようなものに仕立て上げてゆく。ルールを定めるのが本来の仕事なのに、例外事象ばかりを増やしていくのだ。

こうして、会社の業務は、外部のシステム・アナリストがちょっとやそっとでは分析できないような、複雑な処理系になっていってしまう。ERPパッケージをもってくれば、仕事が効率化・加速化できるなどという幻想は、例外処理の藪の中でいつのまにか崩壊していく。ルールや標準プロセスが混乱すれば、はびこるのは根性論ばかりになる。マネジメントの仕事は、精神主義の鼓舞になっていく。

このように、技術者に代表されるホワイトカラー階層とは、自分のスキル上の価値に固執するあまり、長期的には自分の存在基盤自体を掘り崩すようなことをしがちである。これが、経済合理性を追求するための組織であるはずの会社を、合理性からひきはなす効果をもたらすのだ。

この矛盾をとくにはどうするか。簡単なことだ。ホワイトカラーが、会社での仕事だけにアイデンティティの根拠を求めなければいいのだ。会社もあり、家庭もあり、それ以外のプライベートもあって、はじめて人間は全体性を保つ。家族にとって、コミュニティにとって、ある個人がかけがえのない、たった一人しかない存在であることこそ、大事なのだ。それを、ただ一ヶ所、会社にだけ仮託しようとするから、訳が分からなくなるのである。

ただし、そうなると、知的労働者は、もっと別の難しい問題に直面することになる。それは、「自分の人生の本当の目的とは何か」を考える、という問題である。たしかにこれは難問だ。とくに、自分の人生が有限なものであることを、皆、うすうす知っているから、なお難しい。そんな難しいことを考えたくないから、世の中という代物は、会社を発明したのではないかと思いたくなってしまう。

この問題は、ある意味で「製造は代替可能か」の続きでもある。価値というものは全体性の中にある。その中の一部分だけを切り出して、それだけを他の代替品と単価で比較しようとする考え方は、きわめてミス・リーディングだ。現代の経営論は、そんな部分品分解論の上になりたっている。だが人間は部分品ではない。人間にとっての「シビル・ミニマム」が、現代の経営論では忘れ去られている。しかし、どこの家庭にも父親・母親は一人ずつしかいないし、それは取り替えがきく存在ではないはずだ。そう、文化の次元においては、誰にとっても、本当に必要な人は、いつもたった一人しかいないのである。
by Tomoichi_Sato | 2006-04-01 23:29 | ビジネス | Comments(0)
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