クリスマス・メッセージ:サンタは存在するか?

Merry Christmas !!

白髪。白い頬髭。男性。年齢は70歳以上かと思われる。白色人種だが、赤ら顔。真っ赤なウールの外套と帽子をかぶっていることが、目立った特徴である。職業、住所は不詳。ただしフィンランド国ロヴァニエミ市宛てに、郵便を出すことは可能らしい。トナカイの引く雪橇という、北国風の珍しい移動手段を使う。それで空を飛ぶという噂もあるが、目撃者は皆無だ。

家の屋根におりて、煙突伝いに暖炉から侵入するらしい。ただし暖炉のない家にも訪れるという。侵入経路は不詳である。そして、眠っている子ども達に、おもちゃなどのプレゼントを贈る。それもなぜだか、靴下に入れておくらしい・・

子ども達が、「サンタさんなんていない」と思い始めるのは5歳から小学校の低中学年の頃である。幼稚園や小学校の年上の子から、「あれって、両親がこっそりプレゼントを寝てる間におくんだよ」という『真相』を教えることが多いらしい。それでも、小さい子は半信半疑だろう。小学生になると、「両親の手前、信じたふりをしておく」くらいの演技もすることがある。

サンタさんを信じなくなる頃は、『幼児』が『子ども』に変わるときだ。荒唐無稽から、理性の時代に入るわけだ。

かくして、みんな大人になる。

それなのに、いまだにサンタさんの話が街に溢れているのはなぜだろうか? だって、大人は、そして多くの青少年だって、サンタは存在しないことを知っているのだ。だとしたら、なぜ、一代限りで『サンタ伝説』はしぼんでしまわなかったのか?

そりゃあ、小さな子ども達の夢を奪わないためさ、というのは寸足らずの説明でしかない。だって、夢を保つなら、もっと信憑性のある別のやり方だって考え得るではないか。空から雪橇でやってきて暖炉から忍び込む、というストーリーは、あまりにも反証がたやすすぎる。それならせめて、「夢の国からやってきて」という方が、まだしも「寝ないで起きて確かめる」を防止できる。

「売らんかな」のコマーシャリズムがサンタ像を利用しているんだ、というのも一理ありそうでいて、必然性のない理由付けだ。だって元々、クリスマスはプレゼントの季節である。クリスマス商戦を盛り上げたいなら、ツリーやらイルミネーションなど、道具立てはいくらでもある。今の、赤い服着たサンタ像は、たしかに20世紀前半にアメリカのコマーシャリズムが補強したものだ。幼児向けのマーケティングだったのかも知れない。だが、なぜそれが世界中に広まり受け入れられているのかが、分からない。

ただ、子どもを育てていて、分かったことが一つだけある。それは、人間が育っていくためには、「物語」が必要だと言うことだ。それも、神話的な物語である方が、「物語力」が高い。

理性の発達しない小さな頃は、それこそ夢と現実の混ざり合った中で育つ。でも、多少は分別のつきはじめる歳になっても、まだ自分を支えるには「物語」を必要としている。自分が成長した先を準(なぞら)えるために、モデルやエピソードとして参照するのだ。そのためには、時代を経た、神話的な色を帯びた物語が良い。豊富なキャラやエピソードの供給源となってくれる。

そして、現代ではTVなどメディア産業が、新しい物語の配給に余念がない。たとえば勇壮な音楽とか、光る武器とかが飛び交う物語などだ。ただ、わたしはそうした消費型商品としての物語が、なぜか奇妙に痩せて平板になっていることが気にかかっている。それは、子ども達にどのような影響を与えているだろうか。

大学でプロジェクト・マネジメントを教えるようになって、もう9年目になる。この間、いささか気になる微妙な変化を感じてきた。教えにくくなってきているのだ。学生たちの学力、とくに書き言葉を含む知的能力自体は、とくに低下していないと思う。低下しているのは、学ぶ力=学びに対する態度である。

わずか一週間前、全員で手を動かして理解したはずの事を、翌週たずねると、もう忘れている学生が、少しずつだが増えている。授業は単位の取得が第一の目的だ。だが、せっかく受けるなら、何かを蓄積し、自分のできる事を増やそうと、望んでいるか。そこが奇妙に希薄になってきた。目の前、その一瞬の課題だけを、頑張ってやり過ごせば良い。一部の学生は、そう考えているらしい。

授業で、「あなたは卒業後5年後に何をしていたいか?」という質問を出すことがある。プロジェクトとは、個人と組織が成長するための最良の手段だと思うからだ。そこまず、自分の近未来の成長の姿をイメージしてもらう。だが近頃は、「会社で命じられる仕事をこなして、あとはプライベートな生活を守りたい」という回答がいくつも出てくる。わたしは複数箇所で教えているが、いずれも有名大学・一流校といわれるところだ。それなのに、日本で最高峰と言われる学校の大学院でさえ、そうした傾向が散見されるのだ。

彼ら学生にとってどうやら、勉学・仕事とは報酬を得るために与えられる苦役である、らしい。世界は次々と、自分たちに課題や苦役を与えてくる。それを、いかにしのいで、自分らしさを守るかが、二十歳そこそこでテーマになっているようだ。だから、就活に向かう学生たちは、ブラック企業かどうかを問題にする。

もちろん、労働搾取的な経営は重大な社会問題だ。そこに議論の余地はない。だが、ジョブズの下でMacintoshを開発していたチーム、Bill Joyと一緒に寝食を忘れてSUNを開発していた創始者達。あれは長時間労働の、ブラック企業だったのか? 彼らは、自分たちが世界を変えられると信じて、働いていたのだ。

ブラックとは、労働時間だけで計れるものではない。「自分たちが世界を変えられる」と信じる度合いと、投入する労働時間の比率で、ブラックかどうかは決まる。自分たち自分たち自身の主人であるかどうかが大事なのだ。希望なき奴隷制度の下で働く人達の下では、たとえ1日6時間労働でもブラックに違いない。

わたしが最近の学生の傾向について心配を述べると、それは「ゆとり教育世代だから」という解説がかえってくることがある。だが、ゆとり教育とは何だったのか。わたし自身の子どもが、まさにゆとり世代だったから、その実相については多少知っている。

ゆとり教育』と呼ばれた制度は、2002年から2011年までの期間、続いた。ゆとり教育が本当に学力低下をもたらしたかどうか、という事実についてはまだ、論争に決着がついていない。だが、学校の授業時間が減らされるときいて、真っ先に浮き足だったのは親達だった。このままでは「良い学校」の受験に通らないと焦った都市圏の父母は、子どもを学習塾に通わせるようになった。

数値的データは示せないが、この10年くらいに目立って増えたのは、小学生の夜の塾通いだ。夜8時、9時に電車に乗っている子ども達の姿を見かけるようになった。あの子達は、いつ、誰と夕食をとっているのだろうか。すでに勤め人の父親は、平日は家で夜、家族と食事をとれなくなっている。それで子どもも夕食を外でとるのだとしたら、家族はバラバラではないか。そして受験教育と、繰り返される模擬試験。そのように育って得られた世界観とは、子ども達にとってどのようなものだったのか?

それはいわば、会社用語に翻訳すると、KPIと査定の繰り返しとしての人生であろう。あるいは、≪自動販売機としての世界≫といってもいいかもしれぬ。そこでは、労力というコインを投入すると、投入額に比例して、お目当ての商品が出てくる。投入しない者には、与えられない。そこから生まれるのは、何も持たぬ者、貧しい者は、「投入しなかったのだ」という結論である。努力を投入しなかった奴がいけない、という自己責任論。それが≪自動販売機的な世界観≫の、脅迫的な帰結である。

もう一つ、付け加えたいことがある。それは『談合』の存在だ。今、メディアでは巨大な公共的工事をめぐって、談合が行なわれていたというニュースが流れている。だが、わたしの知るところでは、問題の某業界のみならず、〇〇業界でも××業界でも、受注調整の相談がこっそり行なわれている。公共事業だけでなく、私的取引の分野でも、だ。わたし達の社会はそのようにして、目に見えない既得権と参入障壁の網の目が、がんじがらめに取り囲んでいる。新参者がイノベーションを持ち込めないようにできている。

公式にはダメなはずの談合が行なわれ続けているのは、受発注の双方に、それなりの社会的なメリットがあるからだ、という議論も非公式には存在する。だが、そういう主張に仮に三分の理を認めたとしても、談合社会には一つ明らかな弊害がある。それは、若い人から参入と成長の希望を奪うということだ。すでに頑丈に出来上がった社会、先行者の既得権に穴をうがち入り込む隙もない社会に、どうやって希望を持てるというのか?

どんなに経済的に立派であろうと、若い人が希望を持てない社会は最悪だと、わたしは思う。自動販売機としての世界とは、投入とその結果が、すべて予見可能な世界である。何か驚くような、思いもかけぬ、しかし良いことなんか起こりようのない人生。それは、サンタクロースが表象する世界観とは正反対だ。サンタが教えているのは、この世には、何か予見できない、しかし驚嘆すべき、うれしいことが起こりうるという感覚である。それは自動販売機ではない世界だ。

学生達に教えていると、それを、多少感じることはある。「将来は結婚して、家庭生活を守ります」などと言っていた学生に、ていねいに教えていると、「プロジェクトで人と何か作り上げていく体験は、面白いと感じました」などと、最後に感想を述べてくれることもある。ほんのちょっとでも、人が変わりうるということ、成長しうると言うのは、ありがたい(有り難い)ことだ。

そうした成長への意欲は、とくに女子に多く感じられるのも、最近の傾向である。今の世の中は、なぜか男の子が育ちにくいのだと思う。男はどうしても社会的動物としての性格が強い。だから社会の目が詰まっていて息苦しいと、希望を持ちにくいのかも知れぬ。彼らはまさに、オトナ達が作り上げてきた「教育という名の管理」の犠牲者である。

ただ、犠牲者と言っても、まだ若い。だから、本当は復元力がまだある。そのきっかけになるのは、『信じること』である。この世には何か良いことがありうると、信じること。それと同時に、逆に教えたり管理したりする側のオトナたちも、彼らを「信じる」ことが必要なのだ。信じないから、取り締まり的な「管理」をしたくなる。だが、人を育てたかったら、「信じて」「待つ」ことが一番大切なのだ。すぐに相手を査定し選別・排除しないで、じっと可能性を待つこと。それはずいぶん忍耐心のいる仕事だ。だが、それをあきらめたら、結果として「人が育たない」「人手不足」という形でツケが回ってくるのは自明だ。

今から2千年前、完成し煮詰まってしまったようなローマ帝国の片隅で、変わらぬ支配下にあえぐ下層民の間に、「この世はもっと良くなりうる」という、不思議なメッセージを携えた人が生まれた。クリスマスとは、その人の生誕、この世への来訪を記念する行事としてはじまった。「あなた方の中で一番小さい者、弱い者に対してすることは、すなわちわたしに対してすることだ」と、その人は最後に言い残した。サンタクロースは、後年、その人にならって、現在のトルコで貧しい子ども達のために活躍した、聖ニコラオという人がモデルになっている。この世を少しでも住みよくしたければ、消費財としての夢物語を売るだけでなく、人の成長という不思議な物語を『信じる』ことから、はじめなければならない。


<関連エントリ>
 →「クリスマス・メッセージ:幸せな人」 http://brevis.exblog.jp/22671239/ (2014-12-23)



by Tomoichi_Sato | 2017-12-25 07:56 | 考えるヒント | Comments(0)
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