能力評価のレベル0からレベル2まで 〜 組織を作る概念のシステムとは何か

生まれて初めて乗った飛行機は、アエロフロートだった。大学院の修士課程をでる前の3月、わたしは一人で卒業旅行にでかけた。まだ旧ソ連の時代だ。旅行の行き先はドイツとスペイン、そして英国。モスクワ経由でフランクフルトに向かい、ドイツ中部の家々の屋根の色を見下ろしたときの印象は、今でも鮮明だ。ドイツでは父の元・部下で、当時フランクフルト近郊の現地法人で働いていたNさんに、いろいろとお世話になった。スペインでは、マドリードにあった父の会社の取引先の方が一緒に夜、食事をしてくださった。今考えると、いくら取引先のキーマンの息子だとは言っても、取るに足りぬ生意気な若造のお相手をしてくれた訳だ。まことに頭が下がる。

行く先々で聞かれた質問が一つあった。「なぜ、お父さんの会社に行かないのですか?」という質問だ。ドイツでもスペインでも現地の人に聞かれた。わたしにはむしろ、「へえー、ヨーロッパ人って、そういう考え方をするんだ」と新鮮な驚きを感じた。家業ならいざ知らず、父は会社の役員だったが社長でも創業者でもない。親と同じ会社に入るなんて、むしろ古くさい、前近代的な考えだと思っていた。だから合理的近代人である西欧の人達が、そんな風に思うことが意外だったのだ。

前回、「人材配置・昇進のレベル0からレベル2まで」 http://brevis.exblog.jp/26081033/ で、“生まれつきリーダーは決まっている”、という観念でできている組織(たとえば同族会社など)は、レベル0だと書いた。だが、誤解しないでほしい。わたしは同族企業をすべて批判しているのではない。すぐれた業績を上げている同族企業を、わたしはたくさん知っている。とくに英明で優れたリーダーが社長職を継いでいるところは、大胆な決断もスピード感を持って下せるし、従業員からも尊敬されていて、立派な組織が多い。

レベル0という位置づけは、ポテンシャルの基底状態、つまり一番自然に発生し、そこから出てもまたその位置に戻りやすい状態を指している。「リーダーとなるべき人は生まれつき決まっている」という観念は、組織づくりの設計思想としては、レベル0=出発点だ、ということを申し上げているにすぎない。事実、歴史を見ると、古代にはこうした考えでいろいろな制度が設計されていた。そして、それなりに機能していた。

ただし、当たり前だが、レベル0のままでは組織の維持に差し支えるような事態も、起こりうる。オーナー社長の残した一人息子が暗愚で、かわりになる子どもが親族にいないとか、いても嫁に行った娘だった、といった話はいくらでもある。こうなると、お定まりのお家騒動だ。すぐれた同族企業が沢山あるのは事実だが、すべての同族企業が素晴らしい訳ではない。

逆に、レベル2の組織では「基準とルールを作って組織を動かす」と、『マネジメントのレベル0からレベル2まで』 http://brevis.exblog.jp/26064558/ では書いた。しかし、こうした組織が全て素晴らしい訳でもない。基準とルールを定めて人を動かすのは結構だが、ルール本来の目的が忘れられ、単に維持することが自己目的化することもある。そうした組織ではしばしば、官僚主義と大企業病が跋扈するようになる。すると、大きな環境変化への適応不全が起き、「ヒーロー待望論」と共に、レベル0の組織まで一気に縮退することさえある。

だからこそ、ルールというものは、それ自体に定期的見直しと改良がビルトインされなければいけない訳だし、マネジメント・システムを組み上げるポジションには、マネジメント能力の高いものを配置しなければならない。レベル2のマネジメントには、レベル2の人材配置が必須なのである。だが、そもそもマネジメントの能力とはどのような性質のものなのか。いや、ことはマネージャー職にとどまらない。いやしくも適材適所を実現するためには、いろんな種類の能力が、うまくアセスメントし評価できなければならないのだ。

ここで、「能力評価」に対する、3つのレベル分けを定義しよう。

レベル0: 能力は生まれつきでほぼ決まる
レベル1: 能力は素質に加えて、「やる気」が大切である
レベル2: 能力は素質・意欲に加えて、知識・技術・不断の訓練で成長する

能力は生まれつきの素質やセンスで決まる、という見方は、素朴な出発点=レベル0である。「持って生まれたセンスのないやつに、いくら教え込んだって無駄だ」という言い方は、世間でもネットでもよく見かける。こういう風に発言すると、 クールでカッコよく聞こえるのも確かだ。部下の能力を即座に峻別し、ダメな奴からカットする上司。「お前はクビだ」というセリフで有名になったお金持ち。ただしこうした人びとは、部下(=人的資源)とは自分の所有物ではなく、組織や社会からの借りものだ、という事を忘れている。でも、その話は脇に置いておこう。

レベル0の能力観において重要になるのは、持って生まれた素質の選別である。これに対し、レベル1では、本人の意欲・やる気を重視する。多くの人が好むスポーツや競技もののストーリー、とくに昭和時代に隆盛した「スポ根」ものは、こういう能力観をベースにした説話である。最近読み直した’90年代の人気マンガ「ヒカルの碁」(原作・ほったゆみ)の第1巻では、主人公のライバル・塔矢アキラがまだ幼少の時、父である塔矢名人と会話する。

「お父さん、ボク、囲碁の才能あるかなあ」
「ハハハ。それがおまえにあるかどうか、わたしにはわからんが・・
 そんな才能なくっても、おまえはもっとすごい才能をふたつ持っている。
 ひとつは、誰よりも努力を惜しまない才能。
 もうひとつは、限りなく囲碁を愛する才能だ。」(p.150)

競技を愛して努力を惜しまなければ、必ず強くなる。これが少年マンガの中心テーゼだ。このテーゼは、人を努力に誘い、打ちのめされた人を再び奮起させる点で、たしかにレベル0よりも上である(もっとも「ヒカルの碁」の塔矢アキラは、誰が見たって生まれつき卓越した素質の持ち主だが)。レベル0の考え方では、基本的に人には、あまり努力による伸びしろがない訳だから、誰を選抜するかが評価の中心になる。

日本の教育制度(と称しているもの)は、じつは選抜のシステムである。教科書的知識を教え、それを選抜の基準とする。だから記憶力が良くて、出題者の意図を読むのが達者な人間ばかりが、引き上げられる。そして若いときに一度選抜されれば、パスポートは一生有効だ。そういう制度を持つわたし達の社会は、ほぼレベル0の論理で動いていると言っていい。予備校は、「意欲重視」のレベル1を、(集客と宣伝のために)あえて掲げているかもしれないが。

では、レベル2は? それは、成長を加速するための装置として、知識や技術があり、さらに繰り返し練習することによって、能力は深まる、という考え方だ。素質ややる気が不要だ、と言っているのではない。とくに訓練の努力には、熱意が不可欠だ。素質のある者は、訓練のスタート地点がかなり進んでいる。でも、それだけでは不十分だし、効率がわるい。人の能力には、伸ばせる余地が非常に大きい。これがレベル2の能力観である。

さて、3回にわたって「マネジメントのあり方」「人材配置・昇進のやり方」「能力評価の考え方」について、3つのレベルを定義してきた。ところで、これらの3レベルは、互いに関係し合っている。

たとえば、「生まれつき」で配置・昇進を決める、人材のレベル0からはじめようか。その極端が、貴族主義であることは、前にも述べた。そこまでいかずとも、あまたいる候補人材の中から、傑出した者を少数、見いだして、多少の試練で延ばしてやれば、リーダーの後継者になる。こういう論理はよく見かける。ビジネススクールの教授陣でさえ、こんな考え方が多いと思う。

真に傑出した人間は、滅多にいない。まことに稀少である。そのことはわたしも認めよう。ただし、それが生まれつきの資質やセンスによるものかどうかは、異論がある。

でも、ごく少数の生まれつき優秀な人間と、圧倒的多数の魯鈍な愚民−−こういう対立図式で世の中をとららえる人は、案外多い。この種の人達は「帝王学」という言葉も、けっこう好む。すぐれた血筋の子弟を、幼少の頃からリーダーたるべく教育する方法、を指しているらしい。ただしその学的内容は不詳で、どこかに「帝王学会」なるものが存在する訳でもないようだ。学問と言うより、一種のロマンであろう。生まれつき優秀な種なら、水をやって日を当てればほぼ自動的に育って、花が咲くものと信じているのだろう。

ともあれ、優秀なリーダーはごく少数だから、後の者たちに対しては、全てを指示し決めてやらなければならない、と考えるのも道理である。つまり、

・リーダーは生まれつきで決まるものである
 (なぜなら)
・リーダーたる能力は生まれつきの資質である
 (ゆえに)
・リーダーは自分が全てを決める

という風に、概念が円環を描いて互いを支え合う構造になっている。
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似たような構造は、レベル1同士の間でも成立する。人はやる気と意欲で伸びるのだ、というのが能力評価のレベル1だ。やる気を引き出すには、互いに競争させるのが一番だ。だから組織をエリアや職能別に縦割りにして、リーダー候補たちをそこに割り当てて任せ、「結果を出せ」といって競わせる。これがマネジメントのレベル1。そうして、成果・業績でリーダーを昇進させる。人材配置・昇進のレベル1。とてもつじつまが合っている。

・能力ははやる気と意欲で伸びる
 (そこで)
・人に任せて、「結果を出せ」という
 (そして)
・業績で人を昇進させる

たとえば、組織を地域や職能で縦割りにして、たがいに損益やKPIを定めて競わせる、といった仕組みをとる企業は非常に多い。工場間も競わせ、その成績・順位に応じてボーナスまで決めるという噂の某自動車会社など、その典型かもしれない。競争原理こそ人を動かす、との信念なのだろう。
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レベル2ではどうか。能力は、マネジメント能力を含めて、知識・技術と練習によって伸びる。そこで、人材教育と実地訓練の仕組みを組織にビルトインしなければならない。実地訓練の途上では、個人の業績が不安定になることもあるだろう。だから、配置・昇進では、短期の業績ではなく、能力評価を基準にしたルールにしなければならない。

・マネジメント能力で人の配置・昇進を決める
 (しかるに)
・能力は知識・技術・不断の訓練で成長する
 (よって)
・組織は基準とルールを作って動かす
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このように、マネジメント・ポジション・能力の3種類の概念は、それぞれのレベルにおいて、互いを支え合っている。要素が互いに支え合ってできあがる仕組みを「システム」とよぶ。システムは、要素が変わらない限り、ある意味安定である。

人間集団が持つ、体系化され組織化された、思考と行動の習慣を、わたしは『OS』とよんでいる。Operating Systemであるから、システムだ。概念の世界にも、システムが存在することに注意してほしい。そしてこのシステムこそ、見えないけれど、いろいろな制度とふるまいをしばっている。

厄介なのは、レベル0はレベル0なりに、レベル1はレベル1なりに、安定であることだ。レベルを全体として1ランク上げるためには、概念、つまり人びとの考え方を、同時にあげないといけないことだ。無理に異なるレベルの要素を接ぎ木しても、システムは不安定になる。一要素でも劣化すると、全体がおそらく下のレベルに縮退しやすくなる。

たとえば、基準とルールでできあがった組織でも、リーダーの配置・昇進が生まれつきで決まりがちだと、人材教育が機能しなくなり、人びとのモチベーションと能力が下がって、機能不全に陥るだろう。あるいは、いくら能力に応じて人を配しても、そして教育の場をつくっても、リーダーが全て自分で決めるような組織では、部下の能力が活かされず生産性が下がるであろう。基準・ルールがあり、業績で人を昇進させても、技術開発と教育が軽視されたら、みるみる競争力を失うであろう。

わたしが(そして研究部会の仲間を含めたわたし達が)、マネジメントにはテクノロジー(技術)が存在し、それを学び練習する場が必要だ、と主張してきたのは、能力観が全体の中で一番弱い環だと思うからである。ルールも能力主義も、皆、良く知っている。だが、マネジメント能力が独立した能力であり、そこに技術も訓練もあるのだ、ということは、まだ常識化していない。そこを少しでも、強めたいのである。

卒業旅行で初めて訪れたドイツでは、Nさんにつれられてノイ・シュヴァンシュタイン城を見物に行った。「狂王」とよばれたバイエルン国王ルートヴィヒ2世が、19世紀末に建てた美しい城である。孤独なロマンティストで、中世伝説のマニアだった彼は、最終的に臣下に幽閉され40歳で死んだ。近代化を迫られるバイエルン国に、中世風の気まぐれな王様は、もはや足かせだった。「なぜ親と同じ会社に入らないのですか?」とたずねてきたドイツ人たちは、しかし、貴族による世襲だけではうまく行かないことも、良く知っていたのだ。少なくとも、国王を英明に育てる「帝王学」までは、持ち合わせていなかったのである。


<関連エントリ>
 →「それは知識ですか、スキルですか、資質ですか?」 http://brevis.exblog.jp/20592802/ (2013-06-02)
 →「人材配置・昇進のレベル0からレベル2まで」 http://brevis.exblog.jp/26081033/ (2017-09-30)
 →「マネジメントののレベル0からレベル2まで」 http://brevis.exblog.jp/26064558/ (2017-09-22)


by Tomoichi_Sato | 2017-10-07 23:37 | ビジネス | Comments(0)
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