クリスマス・メッセージ:見えるコストと見えない価値

Merry Christmas!!


大学生にプロジェクト・マネジメントを教えるのは、むずかしい仕事だ。

わたしは現在、勤務先でのフルタイムの仕事のかたわら、大学で少しばかり授業を持っている。夏学期は東大の大学院、冬学期は法政の学部3年生に、それぞれ毎週プロジェクト・マネジメントを教えてきた。今年はそれに加えて、静岡大学の社会人大学院(MOT)も集中講義を冬に持つことになった。さらに単発的に大学や企業、JAXAのような研究機構などに講師として呼ばれている。科目はプロジェクト・マネジメントが中心だが、生産マネジメントやBOM/部品表などもある。そして、自分が主宰する研究部会でも、「PMの自己育成のシステム」の構想を共同で作り始めたりと、なぜかわたし自身にとって「教育の当たり年」みたいな年だった。

しかし、それらの中でも、大学の学部生にプロジェクト・マネジメントを教えるのは飛び抜けて難しい仕事だ、というのが実感である。理由は受講生たちの学力とか理解力の問題では、たぶん、ない。そもそも人と働いた経験のない学生に、「プロジェクト・マネジメント」というのは、ピンとこないのだ。だから、学びたいという切実なニーズが、受講生の側に生まれない。これが社会人相手だと全然違う。社会人は多かれ少なかれ、他者と協業して新しいことに挑戦する仕事が、いかに大変か身にしみて分かっているからだ。

ここにマネジメントに関する「学び」とか「教育」の根本的な難点が横たわっている。プロジェクト・マネジメントのような目に見えない仕組みや技術は、それが「無くてこまった」という経験をしない限り、その価値がピンとこないのである。

普通の商品・サービスというものは、目に見える。スマホであれ飛行機チケットであれ、それを買ったらどういう便益が自分にあるかが、分かりやすい。ところがプロジェクト・マネジメントとか生産マネジメントという種類の事柄は、それとは異なる。複数の職能を持つ人々が協力して何かを生み出す仕事を、上手に導くというのが、この種の仕事だが、それが本当に上手なのか実は下手なのか、傍からも当事者からも、よく見えない。見えるのは結果としての製品や成果物だけだ。

いや、「マネジメントという意識」にもとづく行為さえ、あるのかないのか、外部からはよく見えない。わたし達の社会はある意味、とても成熟していて、個々の成員は勤勉かつ有能、おまけに与えられた枠組みの中で互いに調整しながら仕事をするのにたけている。だからマネジメントという意識的な行為が無くても、組織はそれなりになんとか動いていく。学生達はサークル活動や学園祭などのイベントを通じて、そう学んでいく。もちろん、リーダー格の人間や、責任者としての管理職者は存在するだろう。だが、この人達は「精神論のかけ声を叫ぶだけ」、「お神輿に乗っているだけ」で、マネジメント的仕事と無縁というのも、ありがちな話だ。ではなぜ組織が動いていくかというと、期日や売上などのモノサシで測られるからだ。

マネジメント能力は必須ではない。あればベターだが、なくても何とかなってしまう。ただ、その結果として「見えない非効率」が生じるだけ。これが、マネジメントへの学びをむずかしくしている。少なくとも、人びとのレベルが高く成熟した、わたし達の社会では。

組織の失敗や成功の結果を、マネジメント能力ではなく、目に見える道具や、人材の質で説明するというのも、よく行われることだ。あの仕事がうまくいった理由? それは彼らが○○○という道具を使っているからさ。あの事業がダメになった理由? だってリーダーが無能だったものね(→これは現場レベルの人の説明で、幹部レベルの説明になると「あそこの地域の奴らはダメさ! ろくに働けもしないんだ」にすり替わる)。

こういう説明は俗耳に入りやすく、分かりやすい。そこで、「××問題を解決するには、○○○を導入すればいい」というセールス文句が、がぜん威力を発揮することになる(伏せ字にはERPから人工知能まで、好きな文句を入れてください)。わかりやすさの勝利である。分かりやすい説明は、脳に余計な負担をかけないので、多くの人が好む。

これに比べて、人材の方は雇ったり取り替えたりするのはそう簡単ではない。いかにグローバル化が進展したとはいえ、まだ人の首を切ってすげかえるのは、時間がかかるからだ。ただ、昨年米国に出張した際、ある会社の幹部(たまたま英国人だった)が、こう言っていた。

「ここテキサス州では、社員の首を切るのに時間がかからない。“お前はクビだ”と通告して、オフィスからシャットアウトし、自宅待機を命じる。そして1週間分の給料を払えば、それでおしまい。あっという間に終わる。英国では、そうはいかなかった。1ヶ月以上前に事前説明する義務がある。」

そして、こう付け加えた。「テキサスでは、従業員は上司の命令にとても忠実に従う。いつ首を切られるか分からないからだ。英国では、クビにするのは簡単でない。だから、部下も上司に問題があると思うと、口に出して意見する。」

米国企業ではトップダウンで物事が進む、トップのリーダーシップが強い。それにひきかえ日本企業では・・、という説明を外資系コンサル達からよく聞くが、その背後には、じつはこうした雇用事情があったのだ。従業員を機械の部品か何かのように、取り替え可能なモノとして扱う。これが米国流の経営思想らしく、今や大きな潮流として世界を覆いつつある。

そういうことを学生達も感じているから、いかにして企業に雇ってもらうかが大学生活での第一関心事になるのである。大学3年生は年明けになると、就活で気もそぞろになる。授業にネクタイやスーツ姿で参加する学生が目立つようになる。そして百の単位のエントリーシートを手書きして送り、数十の単位の会社で面接を受け、というような今風の光景に身を投じていくのである。大学で何を学ぶかなど問題ではない。だって企業は大学名(と採用向け共通テストの点数)しかほとんど見ないからだ。こういう状況の中で、「学ぶ」だとか「教える」だとかに腐心するのは、ほとんどナンセンスであろう。

そして、こういう修行のような(あるいは拷問のような?)就活プロセスを経て社会人になった人たちが、「学び」に関して独特な考えを持つようになったとしても、不思議はない。教育とは、選別(セレクション)のための仕組みである。学ぶとは、学校や会社が期待する正解を覚えるためのプロセスである、と。一歩間違うと、すぐに首を切られて放り出されちゃうんじゃないか。・・人材育成に悩む企業は多いが、問題の背後には、じつは企業の「人材」観の変化があるように感じられる。

従業員は部品のように取り替えのきくものである。人を見たら人件費と思え。人は数字である。人はコストである。できる限り削減する方が企業経営には良い・・。

こういう考え方を一掃できる方法がある。それは、会計の方法を変える事だ。

具体的には、人件費を一種の繰延資産として資産計上するよう、ルールを変更する事である。

企業は、従業員を部署に配属するにあたり、業務プロセスを教えて仕事を覚えさせ、訓練する必要がある。つまり業務というのは、その中に一定量の「学び」を含んでおり、研修をも兼ねているともいえる。実際、OJTという言葉で、ほぼ一切の教育研修をバイパスしている企業も見かけるほどだ。

である以上、人件費の一部は労働の対価ではなく、職務能力のビルドアップ投資と考えてもよい訳である。そこで、企業の人件費の20%程度を、経費ではなく設備費として計上するよう会計ルールを変更することを提案したい。人が増え、また勤続年数が重なっていくほど、貸借対照表の上の試算額も増えていく。つまり、株主から見た企業価値が増大していく訳だ。

たとえば人件費が年間500万円だったとしよう(従業員がもらう手取りではなく、企業の側が負担する人件費の話である)。すると、1年に100万円分の資産が形成される。100人なら年に1億円である。平均10年勤続だったら10億円の資産価値になる。

この資産額は従業員一人ひとりの名前に紐づいている。だから、もしこの100人の首を切ったら、会社は10億円の除却損を計上しなければならない、という事を意味する。これは小さな金額ではない。1万人を削減したら1000億円である。しかし、仕事に慣れて能力のある従業員を切って、もっと廉価な別の従業員をどこからか雇い入れたとしても、彼らが仕事のレベルを上げるまでにはかなりの時間がいるのだから、会計上こう考えるのもおかしな話ではない。

そして、このように金額をつけて「見える化」することで、はじめて人材が財産だと実感する経営者だっているにちがいない。こういう数字の裏付けがあれば、「人財」という最近はやりの当て字も、生きてくるだろう。(ただし余談だが、「材」という漢字は、つくりの部分に「才」を含んでいることで分かるように、もともと貴重な木を意味していた。白川静によれば「才」は聖化されたものを言う。「人材」ではまるで人を材料のように扱っているから、「人財」という字にかえよう、と言い出した人たちは、最初に漢字辞典を調べるべきだった)

もちろん、わたしのこんな提案に、現実の会計士たちが乗ってくるとは思えない。「継続性の原則」を持ち出して説教されたり、国際会計基準にもそんな考え方はないと言われて一蹴されるのは、目に見えている。だが、思考実験としては意味があるだろう。働く人という存在を、単なる経費とみるか、見えないが価値ある資産とみるか、それはマネジメントのあり方を、いや最終的にはわたし達の企業文化までを左右する、大きな分かれ道なのだ。

いつもなら、ひととき平和になるはずの、この年末の季節でさえ、地球のあちこちで血なまぐさい出来事が続き、洋の西でも東でも、ヘイトの連鎖が多くの人々を駆り立てている。そうした事情の背景には、人をコストと見、取り替えのきく部品のように見る考え方が、影響を与えているように思える。だが機械部品は成長しないが、人は成長する存在だ。成長とは学びによって、新しい能力を得ることである。わたし達が部品のように扱われてお仕舞いにならないように、ぜひ学びのアンテナを研ぎ澄まし続けよう。

そして読者の皆さんの上に、平和なクリスマスがありますように。



by Tomoichi_Sato | 2016-12-23 15:36 | ビジネス | Comments(1)
Commented by K.Y. at 2016-12-25 15:05 x
数年前まで(グループという広義の意味で)後輩だったものです。
いつも記事を楽しみにしており、また多くのことを学ばせて頂いております。
来年も良い年になりますよう、お祈りしております。
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