熱気球の浮上、または原因分析のシステムズ・アプローチについて

熱気球は今やいっぱいに膨らみ、空に飛び立とうとしている。乗員が地面との係留ロープをとき、重りの砂袋を一つまた一つと、放り捨てていく。やがて気球のカゴはゆらりと地を離れ、5つめの砂袋を捨てたところで、ゆっくりと、そして次第に勢いをつけて舞い上がっていく・・

昔、北海道の十勝平野に熱気球レースを見に行った。空にたくさんの、カラフルな球体が浮かぶ、とても幻想的な光景が忘れがたい。何とかと煙は高いところに上りたがる、という諺があるが、少しでもいいからのってみたいと、わたしも思った。それで、家族で体験できるミニ気球に乗せてもらった。もちろん乗員付きだ。それでも気球から見下ろす地上は、なんだかすがすがしくて、小学生だった子どもも大喜びだった。

さて、気球はなぜ、浮かび上がったのか。5つめの砂袋を捨てたことが、気球の飛び立った理由ではない。誰でも知っているように、まわりよりも軽い熱気を溜めた丸い袋が、飛び上がる力の源泉だ。まさに煙は高いところに上りたがるのだ。5つめの砂袋は「きっかけ」の一つである。たまたまそれが、その時にはきっかけになるめぐり合わせだったのだ。

もちろん、それがきっかけになるためには、それ以前に4個の砂袋が、地上に落とされていなければならない。また条件によっては、きっかけは6個目になることも、4個目だったこともあるだろう。一つ落とすごとに、少しずつ気球全体は浮力を増す。ただ、それは係留ロープの張力という、目に見えにくい事象にあらら割れるに過ぎない。そして、ある限界を超えたとき、その瞬間に浮上という劇的な出来事が起きるのである。

何か劇的な出来事を目撃したとき、その原因は何かを詮索しようとするのがわたし達の通性だ。しかし、わたし達が出来事の「真の原因=真因」を探ろうとするとき、わたし達の目はしばしば、わかりやすいきっかけを探すことになる。とくに、ことが企業の業績などになると、その「浮力」(競争力)の構造的変化は、外的にはなかなか見えにくい。一方でメディアも一般の人々も、「分かりやすい物語」を好む。だから、5つめの砂袋がV字回復のカギだった、という物語が流布しはじめる。『5の数字』の書いてある砂袋を探せ、と叫ぶ者まで出てくる。

わたし達の社会では、メディアは「知情意」のうち、「情」に訴えかける物語性を好む。理知に働きかける、多角的・構造的な分析と説明は、敬して遠ざけられがちだ。そのことが、わたし達が劇的事象の真の原因を探る力を、落としていることに多くの人は気づかない。

もう一つ、例を挙げよう。今度はトラブル事象の例だ。

仏教の創始者・釈尊は最晩年、旅で寄ったパーヴァー村で、チュンダという名の鍛冶屋の子が捧げた食べ物を食べて、重い食あたりになる。そしてほど遠からぬクシナガラの地で臨終を迎えることになる。伝説によると、師が重い病気になったと知ったチュンダは、沙羅双樹の下に横たわる尊師の前にいき、自分の捧げた食物が原因で死病を招いたことを深く後悔し、許しを請うた。しかし、釈尊はチュンダにこう答える。

「嘆くな、チュンダよ。わたしはお前の食物を食べたから、死ぬのではない。わたしは、この世に生まれてきたから、死ぬのだ。」

チュンダの食物は、きっかけでしかない。生あるものは、すべて死す。それが道理であると、釈尊は教える。つまり、釈尊の死の根本原因は、「生まれてきたこと」自体にあると、考えることができる。チュンダの捧げた食べ物は一説にはキノコ料理だったというが、詳細は不明である(托鉢僧は基本的に、もらった食べ物は好き嫌いをいわず、食べなければならない)。ただ、キノコ料理を食べるもの全てが死ぬ訳ではない。しかし、生まれてきたもので、死ななかった者はない。

(1) Aという事実があるとき、Xという事象が必ず起きる
(2) Bという事実があるとき、Xという事象が起きることがある

この二つを比べて、Xの真因はBだ、と断じるのはたしかに無理があろう。

とはいえ、変死事件があり、警察が呼ばれたとき、「原因はガイシャが生まれてきたことにあります」では刑事は納得しまい。被害者が高齢であった上に、傷んでいた食べ物を食べた。直接の死因は食中毒にある、と医師は鑑定し、食事を作ったものに疑いの目が向けられる・・

では、やはり食物が真因なのか。しかし釈尊は一人で旅していた訳ではないのだ。アーナンダほかの弟子を伴っていた。彼らはたぶん同じものを食べたが、死ななかったのだろう。ならば仏陀入滅の、真の原因は何か?

おちついて考えてみれば分かる。釈尊はすでに高齢だった(臨終の言葉に、「29歳で出家して以来50年間・・」という部分がある)。そして各地をめぐる遊説の旅。高齢というフラジャイルな内部環境に、疲れと傷んだ食べ物という外因が働きかけて、死に至る食中毒症状が引き起こされた。「高齢・疲れ」+「傷んだ食べ物」、という組み合わせが原因なのである。

わたし達は何かトラブル事象が起きたときに、その原因は「一つ」に特定できると考える。だが、多くのトラブルは、二つ以上の複数が同時に組み合わさることで、発生する。一つだけなら、発生しない。

右手と左手を打ち鳴らしたら、音が出る。右手だけでは、音は鳴らない。左手だけでも、ならない。ふたつの手が必要なのだ。このとき、「原因は右手ですか、左手ですか?」と問うのは愚かだ。

ながながと何の話をしているのかって? わたしはずっと「学び」について考えているのである。本や教師から知識を得るだけが「学び」ではない。自分が遭遇した出来事から、何かを「学ぶ」ことで、わたしたちは成長する。だが、事象を見たときに、その真の原因をきちんと把握しなかったら、正しく学べないだろう。5という数字の砂袋を無意味に探し回るだけになってしまう。

ところで、わたし達は「事象の原因を探る」ための方法論について、遺憾ながら十分な訓練を受けていない。あなたは高校や大学で、原因分析という授業を受け、試験を通りましたか? 少なくとも、わたしは受けていない。それどころか、まことに驚くべき事だが、そもそも21世紀の現代社会にあっても、原因分析にはまだきちんとした哲学的・科学的方法論が、十分確立していないというのが、最近のわたしの仮説である。

こういうと、抗議する人もたくさん出てきそうだ。安全工学にはRCAがあるじゃないか、信頼性工学のFTAはどうなのか、と。だが(賭けたっていいが)RCAやFTAが何の略号か知らない人が、世間の98%を占めるだろう。刑事や検察官なら、99.9%以上かもしれない。事故で専門家が呼ばれもせず、世間で普通に使われもしない技術は、社会的に確立しているとはいえない。血液型やDNA鑑定の技術なら誰でも知っている。だが原因分析の技術は、そうではない。そんなものはいらない、と多くの人は考えている。なぜなら、自分でできるからだ、と。

果たしてそうだろうか。もしそうなら、わたし達の社会は、事故や経験から学ぶ能力がとても高いはずである。では、最近わたし達を襲った大きな社会的災害や困難から、国民的な知見として何を共通に学んだのか。それはどの報告書のどこに明記されているのか? 経験から学ぶことは、万人に必要なスキルである。だが万人が身につけてつかえる方法論は、今のところ欠けていると、わたしはいいたい。そうでなければ、経済状況や経営問題について、世間ではなぜ、「浮上の原因は5つめの砂袋」のごとき表層的な分析や、「分かりやすい」だけの無責任な説明がまかり通っているのか。

熱気球の浮上も、釈尊の病没も、いずれも二つ以上の『原因』がかかわっている。熱気球の場合は、バルーンの空気による構造的な浮力に加えて、複数の重りの砂袋を捨てるという、きっかけの動作。釈尊の場合は、高齢と遊説による体力低下という構造的な不安定と、腐った食べ物の摂取という、いささか危ない(冒険的な)きっかけの行動。熱気の浮力や高齢はいずれも内部状態(内部環境)に関することだが、これは強風や酷暑といった外部環境であっても、同様なことが起きただろう。つまり、一般化すると、こう定式化できる:

「良好な環境」+「チャレンジ行動」→ 成功事象
「危険な環境」+「冒険的行動」  → トラブル事象
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いずれも、二つ以上が同時に起きることが、事象の発現には必要だった。それぞれ一つずつは必要条件だが、十分条件ではなかった。傷んだ食べ物をとる程度のあぶない(冒険的)行動の場合は、ふつう、システムの自己防御作用が発動して、正常に戻る。だが、内的環境の不安定な変化に、外的なインパクトが一つ以上加わることで、そのシステムは『レジリエンシー』を失う。

おシャカさんの話をしていたのに、ここで急に「システム」という言葉が出てきて驚いたかもしれないが、人間の身体は非常に精密なシステムである。長い進化の過程を経て、驚くほど精妙かつ安定な仕組みにできあがっている。動的(自発的に動く)なのに、平衡や免疫その他の多重防御装置がきちんと作動して、安定に存続し続ける。むろんレジリエンシーには限界があるので、たとえば誰かが銃弾を撃ち込むような問題行動をすれば、システムは動作を(単一の原因で)停止するだろう。だからそんなことが簡単に起きないように、人間は、社会という名の、もう一つ上のレイヤーのシステムを作って、さらに防御をはかっている。

おい、熱気球はシステムなのか、って? あれも、砂袋とバルブ(熱気を排出する)という、安定化制御のための仕組みをもった乗り物である。そして複雑な情報処理機能を持つ乗員が操作している。人間はこわがりだから、単純に見えるバルーンにだって、二重にも三重にも防御の手立てをセットしている。だから、もし熱気球に事故が起こったら、それは二つ、あるいは三つ以上の原因が重なったケースがほとんどのはずだ。それがシステム的なものの見方、システムズ・アプローチによる原因分析である。

そして複数ある理由のうち、自分たちがコントロール可能な要因をみつけ、そこに対策を講じる。わたし達がコントロールできる原因を、真因Root Causeとよぶ(これがRCA=Root Cause Analysisでの定義だ)。老齢はコントロールできない。食べ物はできる。だから食べ物について対策を考える。それも個別に毎回どうするかを考えるのではない。たとえば、若い弟子から先に毒味をしていくルールにするなど、システムとしての方策を講じるのである。

わたし達は機械的なものの見方になれているために、単一の原因を探してしまうことが多い。それが現代の原因分析の、一つの限界だ。しかし、世の中の少なからぬ物事は人間を含む系(システム)として動いている。もしも組織の中に『学び』の能力を根付かせたり、あるいは最近はやりの用語でいえば『教訓』(Lessons Learned、あるいはLessons & Learns = L&L)を活かしたかったりしたら、複数の原因の組み合わせを探るという思考の習慣(OS)を身につける必要がある。それが、リスク・マネジメントとかナレッジ・マネジメントといわれる活動の根本なのではないか。

現代の原因分析には、もう一つ弱点がある。それは確率的事象の原因論である。だが、例によって長くなりすぎた。この続きは、回を改めてまた書こう。

<関連エントリ>
 →「トラブル原因分析を、責任追及の場にしてはいけない」 (2014-11-09)
 →「なぜなぜ分析は、危険だ」 (2014-04-26)
by Tomoichi_Sato | 2016-06-15 05:52 | リスク・マネジメント | Comments(0)
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