設計の価値

最初に、ブルネレスキのことからはじめよう。日本ではほとんど名前を知られていないが、初期のイタリア・ルネッサンスを代表する人物の一人だ。フィレンツェに旅行に行く人が必ず目にする、花の聖マリア大聖堂の半球形ドームは、彼が作った。



「彼が作った」という言葉を、私は意図して使っている。彼は設計しただけでなく、建設工事の責任者でもあったのだ。つまり今風に言えばプロジェクト・マネージャである。彼は石の積み方にも工夫をこらしたし、二重ドームの間に作業者が立って歩けるスペースを確保する設計にした。施工しやすい設計をしたわけだ。職人のストライキにも見事に対処した。

彼が設計者・兼・建設責任者だったことは特筆して良い。日光東照宮の左甚五郎の立場と同じである。設計者が実作も行う。それは近世以前はあたりまえのことであった。たとえばミケランジェロ作の彫刻が、じつは彼のデッサンをもとに弟子が好きに刻んだものだったとしたら、あなたは怒らないだろうか。少なくともフィレンツェ市評議会は許さなかっただろう。

設計者と施工者が分離してくるのは、近代イギリス以降のことである。産業革命以降の建築需要の増大にしたがって、設計と建設の分業が発達する。設計兼建設という大工の親方制度では、まかないきれなくなったのだろう。それは、音楽の世界で作曲家と演奏者が分業してくる時期と、妙に一致している。市民社会の勃興、聴衆の増大が、それを要求したのだ。大量生産はつねに分業を要求する。

しかし、それとともに劣悪な建築や手抜き工事が横行しはじめる。そこで設計と施工を兼任できないよう分離させ、しかも設計者に施工が図面の指示通りかチェックさせる制度が成立する。第三者によるチェックは、簡単には人を信じない「紳士の国」の性悪説文化が産み出したものだ。

建築設計書の構造計算を偽造して、鉄筋・鉄骨量を削減した建物の問題が、このところ世の中をゆさぶっている。恐ろしい話だ。しかし、設計に反した手抜き施工だったのではなく、設計自体に問題があった。設計施工分離では防げなかった所に、根の深さがある。もっとも、この国の建設行政はすべて性善説に立って運用されているようだから、氷山の一角にすぎないのかもしれない。

偽造した建築士が何を考えていたのかは、分からない。しかし、たいていの建築設計者が考えていることは、私には想像がつく。それは、「設計は建設工事の下請けじゃないはずなのに!」という怒りだ。建設業界には『設計協力』なる言葉がある。簡単にいうと、詳細設計などの力仕事の部分を、建設工事を受注する(予定の)ゼネコンが手伝うことだ。設計・施工分離の原則は、こっそり無視される。施工監理など看板だけになる。

ゼネコンによる設計協力の慣行が成立する理由は、建築設計の仕事が、通常の設計費だけでは安すぎて割に合わないからだ。一方、建設工事を請負う業者側は、設計に人を出しても利益を出せる。だから、建前はどうあれ、力関係は、
 ゼネコン>設計事務所
になる。こうして、設計が施工者の都合によってねじ曲げられる下地がつくられていく。

この国では(そして私の知っているたいていの国で)、モノにはお金を払うが、設計という知恵にはお金を払わない。いわば「実物経済」である。こうした実物経済主義は、最終的には設計の品質低下をまねくのだ。耐震強度偽装問題は、その象徴である。

そして、問題はマンション・ホテル建築の世界だけで起きてるわけではない。あらゆる「製品」という名前のモノに、それは起こり得るのだ。数値的性能はすばらしく、見た目もまあそれなりだが、全体に使いにくく、妙にこわれやすい商品を、私はいくらでも知っている。設計に個性のない製品だから、価格だけが勝負になる。その結果、韓国製や中国製にどんどん負けて行く。これこそ、「ものづくり大国」日本が、設計の価値を軽視してきたツケなのだ。

誤解しないでいただきたいのだが、私は設計者と製作(施工)者の役割は対等だと思っている。往々にして、
 建築家>建設業者
のような主張をしたがる人がいるが、私は組みしない。設計も重要だし、建設のプロジェクト・マネジメントも重要だ。ブルネレスキの例を思い出して欲しい。彼は両方を兼ねていて、だから彼の仕事は偉大なのだ。

拙著「BOM/部品表入門」の中で、設計部品表(E-BOM)と製造部品表(M-BOM)の分離背反の問題を描くため、あえて私は、ちょっといやみな設計技術者を登場させた。彼は「製品開発こそ会社のコア・コンピテンシーだ」というような、エリート意識の強い発言をする。そして本社にいて、製造の実際を知ろうとしない(これは戯画なので、この節を読んで気をわるくされた設計技術者の方がいらしたら、陳謝したい)。しかし、設計と製作が分離してしまうと、製作現場での知見や知恵が設計にフィードバックされなくなる。設計が一人よがりになる。これは決して望ましいことではない。

私が理想と考えるのは、設計と製造、設計と施工、設計と実装が、「統合」された世界である。設計の知恵と実作の知恵は性質が違うが、たがいに補い合える関係にある。たとえ組織上は区切られていても、両者がともに協力できる仕組み。その中でこそ、設計の価値も経済で認められると思うのだ。
by Tomoichi_Sato | 2006-01-01 12:10 | ビジネス | Comments(0)
<< 製造は代替可能か システムとは何だろうか? >>