書評:「反哲学入門」 木田元・著

反哲学入門 (新潮文庫)」 木田元・著 (Amazon.com)


何年も前のことだが、テレビをつけたら読書番組をやっていた。1冊の本を取り上げて、何人かで語り合う趣向の番組だ。たまたまその日取り上げられていられたのが、この木田元・著「反哲学入門」だった。ところでその日のゲストの1人だった若い男性タレントは、この本を与えられたときに、「うわー。どうしよう」と思ったんだそうな。

なぜ「うわー」と思うのか。わたしは少し、不思議に感じた。でも多分それは、哲学の本なんか読んだことがないし、読めた代物ではない、とこのタレントさんが頭から決めてかかっていたからだろう。読めもしないものを、番組のディレクターが押し付けるわけは無い。だがこの人にとって、哲学は自分に全く無縁のものなのだった。

そう思いこむようになったのは、このタレントが無学だからでも、頭が悪いからでもない。哲学業界の方が悪いのだ。もっと言えば、日本の西洋哲学業界が、だ。哲学を普通の人の手の届かない祭壇の上にまつげあげることによって、自分たち特殊な業界人の飯の種にしてきたのだ。この本はそのことに対する批判から始まる。

ITは西洋哲学の非嫡子だ。別のところでわたしは、そう書いた。だから、ITを専門の仕事とする人は、西洋哲学を少しは勉強しなければならない、と。

こんなことを言うのは、日本広しといえどもまぁ、わたしぐらいだろう。他にいるとしても、ごく少数だ。それは、日本の西洋哲学業界が長年行ってきた、「哲学隔離政策」の結果なのだ。そのことが、日本のITを貧しくしてしまっている。創造性を損なってしまっている。非嫡子とは、子供だが正式な跡継ぎではないと言う意味だ。だが親の特徴を、数多く受け継いでいる。世界は論理的に再構成可能だという信念、抽象化への強い希求、モデリングと分類のためのアプローチ・・そうしたことを多くの人が、知らない。

この本の第1章のタイトルは「哲学は欧米人だけの思考法である」だ。ここに著者・木田元の考え方の最大の特徴がある。哲学という言葉は、しばしば「人生論」や「思想」と混同されるが、別のものである。それは真理にアプローチするための方法論である。

「私は、日本に西欧流のいわゆる「哲学」がなかった事は、とても良いことだと思っています。」(p.22)
日本人は自然の中に包まれて生きて、自分と自然全体を区別してみることはしない。しかし「西洋と言う文化圏だけが超自然的な原理を立てて、それを参照にしながら自然を見ると言う特殊な見方、考え方をしたのであり、その思考法が哲学と呼ばれたのだと思います。」(p. 23–24)

西洋哲学は存在論と認識論を中心に展開してきた。きりきり舞いしてきたと言っても良い。西洋哲学の歴史は、大雑把に言ってプラトンから始まり、中世・近世を通じて発展するが、ニーチェのあたりで根幹が揺らぎだす。本書は、プラトンの師匠であるソクラテスから、ニーチェに影響を受けた20世紀のハイデガーまでを、大づかみな名人の筆致で生き生きと描きだす。

中でも哲学史の重要な転換点を作った、アリストテレスや、デカルト、カントらについては、彼らの生きた時代背景や生涯についても詳しく記述している。また日本では哲学だとか形而上だとか質料、客観など、漢語で訳されている言葉についても、元のギリシャ語やラテン語にさかのぼって、詳しくその本来の意味や変遷について書いてくれている。

ソクラテスとその弟子プラトン、そのまた弟子のアリストテレスの3人は、ギリシャ哲学の基礎を築いた。ソクラテスは「無知の知」を駆使した対話法で、それ以前のギリシャ的な自然思考を根こそぎにした。その空白地帯に、プラトンは「イデア」を中心とした存在論を打ち立てる。イデアは認識の世界の中にのみ存在する、抽象的な構造を持つ類(クラス)である。それは具体的な質料と形相という属性を持つことにより、個物(インスタンス)となる。

アリストテレスは論理学の創始者であり、言葉(記号)とその代入操作による真偽の論証を行った。ここら辺の考え方は、今日のコンピュータ科学に極めて忠実に継承されていることがわかる。

ギリシャ哲学の成果は、古代末期にいったんイスラム世界に受け継がれ発展される。そして中世にヨーロッパに逆輸入され、理性の主役の座に返り咲くのである。その最大の立役者が、私の敬愛するトマス・アクィナスであった。つづくルネサンス期と対抗宗教改革の時代、思潮はアリストテレス的な客観主義から新プラトン主義に揺り戻しがくるのだが、ギリシャ哲学の枠組みは変わらなかった。

だが科学革命の進展とともに、自然を数学的法則の対象としてとらえようとする考え方が広まってくる。17世紀初頭に現れたデカルトの問題意識はそこにあった。デカルト座標系によって幾何学と数学を統一した彼は、量的諸関係で自然を洞察する理性を、論拠として確立する必要があった。このデカルトの『理性』というのが、著者によれば、我々日本人にとって誤解を招きやすいくせ者なのである。

というのは、キリスト教の枠組みの中にいるデカルトにとって、「『精神』つまり『理性』は神の創造した実体であり、わたしたち人間のうちにあっても、いわば神の理性の出張所のようなものだからです」という(p.152)。したがって、「こうした意味で『理性』としての『私』の存在の確認が、果たして近代的自我の自覚ということになるものかどうか、わたしには疑問です」(同)

ともあれ、かくして哲学は「理性主義」(合理主義とも訳される)の時代に入った。イギリス経験主義という批判勢力はあったが、啓蒙的な時代にあって、理性主義はさらにカントとともにもう一つの曲がり角を曲がる。カントはデカルトが住んでいたキリスト教的理性主義の枠内を脱して、先天的認識(幾何学と数論)によって現象界を理解することこそ、われわれ人間の認識能力の本質だ、と主著『純粋理性批判』で論じる。

「カントは、これまで『われわれの認識が対象に依存し』、模写するのだと考えてきたのを180度転換して、『対象がわれわれの認識に依存している』と考え直すことによって問題を解決した」(p.180)。その結果、「神を理論的認識の対象にし、それについていろいろ論じたり主張したりしてみても、ナンセンス(幾何学・数論・理論物理学では手が届かないから:佐藤注)だということになります。」(p.185)

かくして、哲学はカントにおいて、キリスト教の保証と裏書きをはなれて、自由に行動することができるようになったわけだ。ただ、著者は同時に、カント以後、哲学者は大学教授の仕事になってしまった、と指摘するのを忘れない。そのおかげで、哲学書は難解で専門用語の乱舞するものに変わっていく。「哲学書の文体がはっきり変わってくるのです」(p.188)ーそのことが、冒頭に述べた、普通の市井の人と、哲学との間に壁を作っていくわけだ。

とはいえ、西洋哲学はギリシャ哲学のしっぽを無くしたわけではないと、わたしは思う。たとえば、カントの主著といえば、『純粋理性批判』『実践理性批判』それに『判断力批判』だ(ただし、念のためいうと、わたしはカントの本など1行も読んだことはないが)。この3冊は、とりもなおさず、認識論・倫理学・そして美学についての本である。ということは、つまり彼は「真・善・美」というギリシャ人のいう人間の三つの徳を、ずっと探求していたわけではないか?

さて、19世紀後半に入ると、ニーチェや、エルンスト・マッハなどが現れ、近代化と結びついたドイツ観念論哲学の理性主義・科学的世界観に反発を加えるようになる。マッハは有名な物理学者で、超音速を測る速度単位は彼の名前に由来する。またカトリック教徒で、以前書評で紹介した物理学者パウリの、幼児洗礼の名付け親でもあった。

マッハとニーチェは、「二人ともダーウィニズムから決定的な影響を受けた」(p.206)点で似ている。ギリシャ文献学者としてキャリアをスタートしたニーチェは、西洋哲学の長い歴史をすべて「プラトン主義」と断じ、そこからの脱出をはかった「反哲学者」であった。だからこの後、20世紀の西洋哲学の系譜は、現象学・論理実証主義・実存主義・構造主義と錯綜し、もはや誰が正統な嫡子か分からなくなってしまう。

哲学は複雑な問題を言語化し、分析し、伝達・説得するための枠組みだ。説得に「真理である」ことの保証を使う。ただし西洋哲学は、プラトン以降、「超自然的な原理を参照として自然を見る、という得意な思考様式」が伝統になった(p.25)。そのために、自然的世界は客観的な、いいかえれば自己から断絶された、分析と操作の「対象物」「材料」になってしまう。

その結果、西洋哲学は「自然に生きたり、考えたりすることを否定している」と著者は断ずる(p.24)。「ですから、日本に哲学がなかったからといって恥じる必要はないのです。」(われわれ日本人は)「『哲学』を理解することはムリでも、『反哲学』なら分かるということになるのだろうと思います」(p.26)


(ただし、プラトン主義を否定したニーチェの反哲学の考え方は、彼に影響を受けたハイデガーらとともに、ナチズムに吸い込まれていったことを忘れてはいけない。これは、プラトンのイデア論の形成にあたって、ユダヤ教の影響があったと著者が示唆しているのを考えあわせると、実に暗示的なことである。)

本書は、そうした研究を重ねてきた著者が、晩年、胃がん摘出手術の回復期に、編集者を相手に行った対面的講義の本である。だから話し言葉で、非常に読みやすいし、複雑な述語はそのたびに丁寧に解説してくれている。

たしかに西洋哲学は、自然に対する特異な発想法や、言語への過剰な執着が、肌に合いにくい。しかし、そういうわたし達も、西洋人の作った道具でコミュニケーションし、西洋人の作ったルールで経済的に競争し、西洋人の作った枠組みで発想することにならされてきた。である以上、彼らの思考法を学ぶ価値は十分にある。そして、自分が反対するものをこそ、総合的・徹底的に調べ尽くすのが、西洋人のやり方であり、この点は見習うべきではないか。

わずか500円程度のこの薄い文庫本で、その流れと文脈が見通せれば、とても価値ある買い物である。正月のゆっくりした休暇に、読むべき本としておすすめする。

<関連エントリ>
 →「書評:「137 ~ 物理学者パウリの錬金術・数秘術・ユング心理学をめぐる生涯」 アーサー・I・ミラー」 

by Tomoichi_Sato | 2015-12-12 00:52 | 書評 | Comments(0)
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