書評:「日本的マネジメントの感性」 八巻直一・著

日本的マネジメントの感性 ―幕末夜話より― (静岡学術出版教養新書)    八巻直一・著(Amazon.com)


好著である。短く平易な新書版で、読みやすく、しかも内容は知識の面でも分析考察の面でも、非常に啓発に富み、優れている。テーマは題名の通り「日本的マネジメント」を支える感性と特性は何か、であり、それを近現代史の技術的・社会的エピソードから探っていく。サブタイトルに「幕末夜話より」とあるが、話は万葉集の古代から新幹線の現代まで、縦横自在である。

著者の八巻直一・静岡大学名誉教授の専門は本来、オペレーションズ・リサーチと数値解析である。そして静岡大学のMOT(技術経営論)大学院の立役者でもあった。とはいえ本書はアカデミックなスタイルとは無縁であり、文体も柔らかく、数式も一切出てこない。随筆のような形をとりながら、じつは周到に、メインテーマの問題に多方向からアプローチしていく。

 わたしが八巻先生との面識を最初に得たのは、たしか2006年頃、経営工学会の「経営システム」誌の編集委員会でのことで、当時すでに斯界の大家であった。その後、スケジューリング学会長をされているときに、ご縁があって「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」立ち上げのスポンサーになってくださったのである。この春には、八巻先生ご自身にもご講演をお願いした。その時の話題であった日本の蒸気機関車技術開発に見るマネジメント論も、この本にカバーされている。

日本の蒸気機関車の製造と運行は「世界に冠たる」レベルであった。C51やC62はその完成系である。しかし、「遂に、蒸気機関車時代には、我が国は真の意味での先進国には到達できていなかった」(p.69)と著者は書く。なぜか。それは導入技術の改善だったからである。技術導入は先進国にキャッチアップするための最も効率的な手段だ。しかし「試行錯誤の経験の機会を失うこと、独自の発想が制限されれること」の弱点がある(p.68)。後者の弱点は、留学帰りの技術者が頂点に君臨する階層的組織で、技術的冒険をリスクとして忌避する傾向を生み出していく。

たとえば、欧州留学者が「動輪の回転数の技術的限界とされていた数値」(p.67)を、学んで帰ってくる。以後、それが国産設計の目標値になってしまうのだが、その数値の本当の由来を知らないため、「これを打ち破って、さらに高い回転数に挑戦することはなかった」(p.67)。その一方、「南アフリカなどでは、(日本と同じ)狭軌でありながら、C62を大きく凌駕する先進的機関車を生み出している。」(p.69)事実がある。

では、日本の鉄道技術者達は独創性に欠けた人々だったのか? そんなことはない、と著者はいう。その好例として出してくるのが、旧満州鉄道の傑作「特急あじあ号」であり、また60年代の東海道新幹線開発である。これらはいずれも、独創技術というより既存技術の組み合わせであったが、その『システム思考』と、大勢の技術者たちの協力が素晴らしかった。とくに「新幹線の登場は、衰退気味だった世界の鉄道の再生をもたらし、高速鉄道を今日の世界的隆盛に導いた救世主となった」(p.83)、世界史的な意義を持つ仕事であった。

「我が国の技術者たちは、旧弊な組織に束縛されている中では、閉塞的な考え方からなかなか抜け出せなかった。しかし、束縛から解放されると、一気にエネルギーを爆発させた」(p.71)。そこにあるのは、突出した個人の独創性よりも、全体をまとめる総合力の強みらしい。

それは集団主義的な日本文化の特質なのだろうか? 著者は必ずしもそうは考えないようだ。「いわゆる日本的なもの」には、昔から続いている部分と、明治時代になって強まったところがあると見ている。

ちなみに、この文章を書きながらたまたまTVをつけたら、高野陽太郎・東大教授が「認知のバイアス」の話をしていて、「日本人が集団主義的だ・異質だ」という見解は80年代の日米貿易摩擦の頃から欧米に広まり、輸入される形で国内でも流布したが、心理学的な実験では否定される、と話していた。人間の行動は外的環境条件によっても、内的な要因によっても左右されるが、他人の行動を「内的要因」(つまり文化だとか性格だとか民族性だとか)ばかりで解釈したがるバイアスが、わたし達には強いらしい。

本書からもう一つ、印象にのこるエピソードをあげよう。蒟蒻(コンニャク)にまつわる技術史と社会史である。栽培が難しく物流にも制約があった蒟蒻芋の市場を拡大したのは、茨城の中島藤右衛門という人のすぐれた技術開発だった。芋から有効成分を精製し「荒粉」という中間製品の形で流通可能にしたのである。江戸時代後期のことだった。荒粉を仕入れて大都市に運ぶ仲買人は大きな利益を得るようになり、芋栽培の不安定と相まって相場商品となっていく。

そうなると、農民も黙ってはいない。時期を見て高値で売ろうとする。「隣の農家さえも敵となる相場の世界に、蒟蒻を通して足を踏み入れる醍醐味であり、困窮を極めていた農家が、巨万の富を得る可能性が開けた瞬間であった。」(p.141)

そうした農家のチャンスはしかし、昭和40年代に入ってからの工業技術の発展で大きなインパクトを受ける。日数のかかる天日干しのかわりに、機械乾燥が現れ、生産リードタイムが劇的に短縮する。しかし同時に、加工の仕事は農家から、機械設備を所有する企業に移るのである。さらに品種改良によって、平地での蒟蒻芋の栽培が容易になる。

「農家は荒粉で儲けることができず、ひたすら蒟蒻芋の生産性を上げるしか収入の道がなくなった。それよりも、蒟蒻マーケット自身が格段に拡大した訳でないのに、それを超える生産性を達成した副作用は、安定供給の達成によって相場のうまみが抹消されたことと同時に、市場価値の下落を招いたのである。」(p.142)

そこで著者は問う。生産性の向上は、産業の発展に結びついたのか。「プレーヤが善を求めて活動することが、結果的に全体の幸福には必ずしもならない。このことこそが、マネジメントの大きな課題なのではないだろうか?」(p.143)

「日本的マネジメント」の評価については、日本社会の中でも、'70年代以前の後進論、'80年代の《ジャパン・アズ・ナンバーワン》風な絶賛論、そして2000年以降のグローバリストによる特殊性批判、という具合に極端から極端へ、振り子のごとくふれ続けてきた。だがそろそろ、全否定でも全肯定でもない、もっと客観的な視点が必要になってきたのではないか。欠点を咎めるのではなく、長所を認め、違いを伸ばす形での見直しが大事な時期に来ていると思う。

幕末の英傑たちの自由闊達も、明治政府の位階権威主義も、ともに日本人の生み出したものである。束縛を離れた技術者たちの総合力も、官僚的な縦割り・縄張り主義とリスク忌避も、ともに日本的な姿ではある。では、どのような外的条件が、違いを生み出すのか? それを考えるには、自分たちの過去の歴史に学ぶしかないのだ。だとしたら、それを考えるに絶好のヒントを与えてくれるのが、本書なのである。
by Tomoichi_Sato | 2015-07-15 23:33 | 書評 | Comments(0)
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