遠くに届くためには、力を入れてはいけない

先週の後半は「バッハセミナー in 明日館」という催しで、4日間ずっと音楽(合唱)の練習に通った。歌唄いが、昔から自分のささやかな気晴らしなのだ。ただ、普段あまり声を出す生活をしていないので、三日目が終わる頃には、喉も枯れてガラガラになっていた。とはいえ最終日には、修了演奏会で皆と一緒にステージに立つ。自分ばかりが下手だとまわりにも迷惑をかけるので、家に帰ってからも、楽譜を見て音を再確認しようと思った。

ピアノの鍵盤の前に座ったものの、夜だし大声を出すのはみっともない。ファルセット(裏声)で自分のパートを追おうとした。ところが、喉が枯れていて、ちっともファルセットが出ないことに気がついた。どうするのだ! 歌の中には、実音(地声)ではけっして届かない高音部もある。明日の本番で、急にサイレントになる自分の姿を思い描いて、冷や汗が出た。ともあれ、練習しない訳にはいかない。しかたなく、半ば諦めの境地で、地声で歌いはじめた。

ところで、肝心の高音部にさしかかると、不思議なことにすらっとファルセットが出る。あれ? 今、出たよな? そこで、その箇所だけもう一度トライした。しかし、今度はかすれてサッパリ出ない。まぐれだったんだろうか? しかたなく、バッハの複雑でやけに長い音符の列を追いかけ続けた。ときどき、たしかにすっと高音が出る。だが、出ない時はサッパリでない。

いろいろ試しているうちに、分かったことがあった。高音部だけを、真剣に真っ向からトライすると、声は出ないのだ。ところが奇妙なことに、半ば諦めの境地で歌うと、ちゃんとファルセットが出る。狐につままれたような感じだ。頑張るとできない。頑張らないとできる。一体どうしろというのだ。

そのとき、ふと思い出したのがオイゲン・ヘリゲルの「日本の弓術」 (岩波文庫)という本だった。戦前、東北大学に招聘されてやってきたドイツ人の哲学者ヘリゲルは、日本文化を知りたいと思い、弓道に入門する。ところが、名人と言われた師範が命じたことは、とんでもないことの連続だった。力一杯いれてようやく引き絞れる弓を、“力を入れて引いてはいけない”といい、さらに“意思を持って矢を放ってはいけない”、“的をねらってはいけない”などと言うのである。

「自分が射るのでなければ、誰が射るというのです?」という疑問を、彼は師匠に向かって問う。西欧の合理的知性ならば当然の質問である。しかし師は答える。「それが射る、とでも言おうか。経験しなければ理解できないことに、どんな口真似も役に立たない」。ヘリゲルはそれでも、様々な疑念と苦心を乗り越えて、5年かけて本当に「“それ”が射る境地」に至るのである。そんな名人の心境とは比べようもないが、なんとなく「自分で出そうとすると声が出ない」という今のシチュエーションに、通じる所がないだろうか。

さらに、話は飛躍する。ヘリゲルが体得したのは、“自分”(Ich)が射るのではなく、“それ”(Es)が射るということだった。ところで、ヘリゲルと同時代に生きたフロイトは、自分自身の心の意識する部分、自我のことを"Ich"と呼び、心の奥底の無意識の部分を、"Es"と呼んだ。そして、人間は自分(Ich)で自分をコントロールしているように思っているが、じつはかなりの局面で“それ”(Es)に動かされている、と考えた。このIchとEsという用語は、英訳されるときにラテン語のエゴ(Ego)とイド(Ido)になり、日本にはその形で入ってきた。だが、元は「自分」と「それ」という、ひどく単純な用語だったのだ。

話を元に戻すが、3年前、同じバッハセミナーの「ヨハネ受難曲」で、ごく短いソロを歌うことになった。本番前の昼休み、講堂の裏手に隠れて、一人で同じ短いフレーズをくりかえし練習した。この時も、最高音に届くかどうかが課題だった。そして分かったのは、「のどに力を入れると最高音が出ない」という事実だった。そうか、力んではいけないんだ、と、その時は理解したつもりでいた。

おかしなことに、歌う声というのは、力んでガナリ声になると、遠くの聴衆まで届かなくなる。遠くに届くためには、力を入れれはいけないのだった。だが、頭で分かったつもりでも、まだ本当には身についていなかったに違いない。その証拠に、そもそも三日間で声がガラガラになったのは、周囲の上手な人達に負けたくなくて、がなっていたからではないのか。

遠くに届くためには力を入れてはいけない。高くて通る声を出したければ、力を抜かなければならない。それが教訓なのだった。だが、何と難しい教訓だろう! そもそも、気合を入れ、力を入れる練習は世の中に数多い。運動部の練習というのも、基本はそれだった。でも、どうやったら「力を抜く練習」ができるのだろう? それはほとんど、意識し努力して眠ろうとするようなものではないか。必死になればなるほど、集中すればするほど、眠れなくなるのだ。

どうして体というのは、こんな逆説的な仕組みになっているのか。考えてみると、もともと呼吸とか、声といったものは、意識しない不随意運動で働いている。眠っている時も呼吸はしているし、声だって、赤ん坊の生まれた時の泣き声を見ればわかるように、意識せずに出るようになっている。それでも、その上で、随意的に動かすこともできる。工学系の人なら、オーバーライド機能とかスーパーバイザリー制御などと呼ぶだろう。つまり、仕組みが二重なのである。生存の必要でそう進化したにちがいない。

だがその二重性は、基盤が弱くなった時は、オーバーヘッドの負荷が重くなりすぎるのだ。声帯を囲む筋肉群は、様々な協調性の上で働いている。意識による無理やりの動きは、その協調性をこわしてしまうのではないか。それがわたしの解釈だった。

いろいろな物事は、見た目よりもずっと、つながっている。つながって働いている。わたしはそれを漠然と「システム」と呼んできた。このサイトの読者はご存知のとおりだ。自然に生み出されたシステムというのは、たいてい、自律的に働き、平衡性にもどる仕組みを内蔵している。身体もまた「システム」である。それなのに、自分は力んで、その自己平衡性を崩しているのだろう。

たとえば、昔の新幹線の自動ドアは、その前に体重を検知するステップがついていて、それで開くようになっていた。人が通り過ぎれば、自動的に閉まる。それなのに、ときどき、そのステップに立って、自分が今通った自動ドアを懸命に閉めようとする人がいたものだ。はたから見ると笑えるが、本人は必死だ。その必死さ自体が、ドアを閉める邪魔をしているのに。放置すれば、ドアは自動的に閉まるのに。そういう風に、ドアの仕組みはできているのだ。

そう考えてみると、さらに思い当たることがあった。自分がたまさか関わった失敗プロジェクトでは、チーム・メンバーに任せておけばいい小さな問題に、あれこれ口を出して、かえって部下の負荷を増やしてしまったのではなかったか。小うるさい指示と報告の仕組みをつくって、問題対処のための肝心な時間を減らしてしまったこともあった。典型低な管理過剰である。賢いつもりで、何と愚かなことをしていたのだろう。

力を抜くために必要なことは何だろうか。わたしはまだよく分からない。ただ、うまく言えないのだが、そこには信頼ということが大事なのだと感じる。それも、根拠の無い信頼ということが。

なぜ「根拠の無い信頼」かというと、できるかどうか分からないのに、「できる」という風に信じるからである。それは『自信』ではない。なぜなら、自分ではない、それだか誰かだかを信じようというのだから。自分の体であれなんであれ、“任せておけばきっとうまくいく”と信じること。そうして、へんに気合を入れたり緊張したりしないこと。緊張すれば、必ず余計な力がかかって「システム」のバランス回復が遅くなる。

スポーツの大事な試合に臨むときに、日本人のチームメイトたちは頑張れ!と激励するが、アメリカ人たちは「リラックス!」と声をかける、という話がある。それを聞いたのはオリンピックの時か、それとも何かの映画だったか。ともあれ、わたし達の社会では、何ごとにも「頑張れ」型の習慣がつよいのは確かだろう。頑張ることでうまくいくことも、もちろんある。だが頑張って力むことで、かえって事をややこしくしている場合が、案外多いはずなのだ。

わたし達はもう少し、システムの持つ自己平衡性を信頼した方がいい。もっと、力むことを捨てて、リラックスした方がいい。
そして、もっと、自分や周囲の人々を信じた方がいい。たとえそれがかなり難しく思えても。

そういう風に、身体も、脳もできているのだ。そして、家族や人のつながりとか、もっと高次な文化や言語や社会も、そうできているのだろう。そうした目に見えぬ「システム」を、わたし達は親兄弟から世代を超えて、うけついできたのではないか。・・祖先が帰ってくるというこの季節に、何故かわたしは、そう思った。

え、肝心の演奏会本番はどうなったかって? もちろん完璧でしたよ、わたし自身を除けば(笑)。


<関連エントリ>
→「書評:『日本の弓術』 オイゲン・ヘリゲル」 (2010/05/18 )
by Tomoichi_Sato | 2014-08-13 20:26 | 考えるヒント | Comments(0)
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