書評:「亡命 ~遥かなり天安門」 翰光・著

亡命 遥かなり天安門 翰光・著(Amazon)

2008年6月。米国ワシントンDCの国会議事堂前広場に、数百名の中国人が集まった。天安門事件の19周年記念集会を行うためだ。呼びかけ人は「公民力量」(Citizen Power)という在米中国人組織の代表・楊建利と、天安門事件当時学生リーダーだった王丹、作家の鄭義らだった。彼らはさらに中国大使館までいき、無反応に沈黙を守る建物の前で抗議のスピーチと、自作の詩を朗読して意思表示を行った。

スピーチの中で、楊建利はかつて獄中で知り合った20歳の青年のエピソードを語った。青年は微罪にもかかわらず、見せしめ厳罰のキャンペーン取締りにあい、死刑判決を受けた。刑の執行の直前、彼はこう言ったという。「今度生まれるときは、よく目を見開いて、もし中国の国旗が見えたなら、私は出生を拒否します。」(p.9)

本書は天安門事件のために母国を追われ、アメリカをはじめ世界各地に亡命せざるを得なくなった活動家たちのインタビューである。著者の翰光氏は中国・東北部出身、日本に留学した後、ノンフィクション作家・映画監督として日本・中国・米国をまたにかけて活躍している人であり、本書も同じタイトルの映画「亡命」と同時に作られた。わたし自身は、映画は未見であるが、本だけでも十分に面白い。本書は昨年読んだすべての本の中でも三本指に入る傑作である。何より、各人の語る半生と生き様が、ドラマチックで非常に興味深い。

登場するのは、作家の鄭義、詩人の黄翔、政治評論家の胡平、画家の馬徳昇、ノーベル賞作家の高行建、物理学者の方励之、牧師の張伯笠、歴史学者王丹らだ。ほとんどは、はじめて名前を聞く人たちであった。しかし、インタビュー全体の構成は非常に巧みであり、中国の現代史の流れに沿って、各人の出生や来歴、そして思想が語られる。それらを通して読むことで、わかりにくい中国という国の政治状況が、日本の読者にもひしひしと伝わってくるようにできている。

天安門事件は周知の通り、1989年に起きた、中国の民主化運動に対する暴力的弾圧事件である。天安門広場に座り込んだ学生・市民に対して、共産党政権は軍隊を投入し、機関銃掃射と戦車による虐殺・排除を行った。運動の指導者たちは指名手配を受け、全国に散って逃亡した。しかし、この事件の背景を理解するためには、どうしても「文化大革命」という、中国史に残る野蛮かつ悲惨な11年間の社会動乱を知る必要がある。

文革が始まったのは1966年、事実上終わったのが1977年頃である。この後、数年間は中国には緊張緩和と反省と比較的自由な言論の時代が訪れる。ところが80年代中盤になると、再び共産党による言論と思想の引き締めが戻ってくる。これに反発した市民運動の頂点に来たものが、天安門事件であった。

ところが、この文革という出来事が非常に分かりにくい。この時代、中国は事実上の鎖国に近く、国外には部分的な、それも政権に都合の良い情報だけが流されてきた。おまけに、中国においても、まだ十分に文革は反省され総括されていない。あまりにも大きな社会的出来事は、それを民族の記憶として反芻できるようになるまでには数十年単位の時間がかかるのである。

それでも、本書を丁寧に紐解いていくと、文化大革命の実相が次第に見えてくる。それは、毛沢東による権力の(再)奪取のための運動であった。毛沢東は軍事的天才であり、中国共産革命の指導者であったが、50年代の経済政策・「大躍進」運動で失敗し、実権を劉少奇・鄧小平らに奪われていた。ただ、最高幹部内での信頼は失っていたが、彼にはまだ大衆の人気があった。

毛はこれを逆手に取り、大衆を扇動して権力を奪い返すことを思いつく。彼は共産党内に「文化革命小組」なる特命プロジェクトチームを作り、手下となる暴力組織(私兵)を組織する。それが紅衛兵である。最初にできたのは、共産党高級幹部の子弟たちによる、通称「貴族紅衛兵」だった。しかし、その原理主義的運動は庶民の子弟にも広がっていく。すぐに「平民紅衛兵」の数が圧倒的に勝って、優劣が逆転する。

そして、この私兵組織はやがて全国で暴走し始め、手がつけられなくなる。穏健派の周恩来は指導本部を置こうとしたが、機能しない。彼らは各地の党本部を占拠したり、企業を襲撃したりして、「守旧分子」を攻撃・暴行・排除して行く。こうして毛主席の神格化だけが進み、一切の批判的言論の許されぬ、狂乱と文化的破壊の10年間が続くのであった。

すなわち文革とは、窓際の副社長が特命プロジェクトをでっち上げて、社内組織を骨抜きにし、その余勢をかって社長の椅子に舞い戻る、というゲームであった。この権力ゲームのために、最低でも数百万の国民が命を失い、数千万人が理不尽で悲惨な境遇に苦しんだのである。

それにしても、数億の民を路頭に迷わせたこの「革命」運動は、毛沢東と彼の少数の手下だけが責任を負うべきなのか? そうではないのだ、そこには中国の民衆、あるいは中国文化そのものに内在する問題があったというのが、亡命者たち何人かの苦い認識である。

毛沢東が76年に死去し、文革が終わった後、実権派の鄧小平が復権する。鄧小平が片腕としたのは、政治方面は胡耀邦で、経済方面は趙紫陽だった(p.109)。二人とも比較的若手である。しかし、彼らの背後には、既得権益をかかえた共産党≪保守派≫の長老たちがいて、性急な改革・民主化路線を、陰に陽に邪魔していた。ここで例の「貴族紅衛兵」のことを思い出してほしい。高級幹部の子弟だった彼らは、80年代には権益を独占する「太子党」の中心となり、また平民紅衛兵につるし上げられた経験から民衆運動を毛嫌いしていた。

結局、鄧小平が選んだ改革開放路線は、共産党幹部層に特権を確保したまま、経済だけを自由化して成長する路線だった。自由な言論と政治参加を求める声には、次第に門が閉ざされて行く。1980年、胡平は早くも「民主がなくとも近代化は可能で経済発展もできる。近代化が必ずしも政治的民主を促進するとは限らない」との先見を発表していた(p.79)。

87年、鄧小平は民衆に人気のあった胡耀邦を解任する。2年後の4月、その胡耀邦が急死。北京大学で学生デモが勃発するが、人民日報は「動乱」と決めつける(≪保守派≫の李鵬の指示)。5月、3000人の学生がハンストに入り、趙紫陽らが支援のため訪問する。こうして民主化活動と党の≪保守派≫は激突状態になる。そして翌6月、天安門事件が勃発するのである。結果として政権の武力鎮圧が成功し、中国はまた特権階級による独裁政治に逆戻りする。

ところでわたしが≪保守派≫とカッコ付きで書くのには理由がある。共産党は本来、革命政党だから、主流派に保守という言葉を普通に使うのはおかしいはずである。だからと言って、彼らを革命派とか左派と書くともっと訳が分からない。そこでわたしは、次の三つの信念を持つ人間を≪保守派≫と呼ぶことに決めている。

(1) 世の中には、支配する側にふさわしい少数者と、支配されるべき愚鈍な多数者がいる
(2) 自分は、支配すべき側についている
(3) 現在の世の中は、支配にふさわしい者が支配している

このように定義すれば、旧ソ連のノーメンクラツーラも、ムッソリーニのファシスト党も、イランの革命防衛隊も、全部うまく当てはまるので都合がいい。無論、この≪保守派≫は、文化や芸術や経済政策上の保守主義とは関係ない。また、(3)が満たされていない(権力を得ていない)状態では、その人間はまだ≪造反派≫である。

文革の最中、中国では「親が英雄なら息子は好漢。親が反動的なら息子も馬鹿」という血統論が支持された(p.62)。このような単純なラベル貼りが通用する社会では、あっという間に特権階級が生まれ、腐敗していくだろう。その根源には、極端な権力迎合と拝金主義に走る無定見な人々、という社会の病がある。

著者が書くように、「21世紀に入り、飛躍的な経済発展をなしとげ、経済大国に変貌した中国は、皮肉なことに亡命者の数も世界トップ水準である」(p.vii)。胡平も言う。「中国人は数十年間、共産党にありとあらゆる政治的な破壊行為を繰り返され、たくさんの人が命を落とした、その酷さにおいて歴史上類を見ません。これだけの災害に遭遇しながら、基本的な民主や自由すら手に入れられていないのは本当に心が痛みます。しかも、そんな状況にありながら、いまだにたくさんの人が泰平の世だと謳歌しています。(中略)少しでも条件の良いものは専制国家を願うというのは、過去の犠牲者たちの姿を踏みにじるものです。」(p.256)

本書は、祖国に自由を取り戻そうと苦闘しつつ、見えない長城に阻まれる、中国からの亡命者たちの声をていねいに掘り起こした、貴重な労作である。一人ひとりの勇気ある、しかし苦難に満ちた旅路は、ドラマよりもドラマチックだ。文章の日本語も、美しく読みやすい(翻訳ではなく最初から日本語で書かれた)。中国の現代史に、あるいは専政と人々の闘いに興味のある方に、強くお薦めする。

なお、巻末にも簡単な年表がついているが、わたしが本書を読みながら整理した中国文化大革命から天安門事件までの小史を、読者の利便のためにここに記しておこう。

中国革命小史(文革から天安門事件まで)

1966年
* 5月 幹部子弟が円明園に集まり、紅衛兵を組織(貴族紅衛兵)
* 8月 北京の恐怖の1ヶ月。毛沢東が天安門広場で紅衛兵を謁見
* 10月 林彪の国慶節演説で平民紅衛兵を支持。貴族紅衛兵と立場が逆転する
* 12月 逮捕された貴族紅衛兵を毛沢東が恩赦(周恩来の仲介)。彼らは後に「太子党」の中心となり、民衆運動を毛嫌いするようになる

1967年
* 1月 文革は最高潮。上海では労働者が党委員会を脱権。全国に暴力が広がる

1968年
* 10月 劉少奇が失脚(翌年 監禁状態で死亡)

1970年
* 1月 共産党中央は「一打三反」運動を指示。全土で権力者の処刑・権利剥奪。

1971年
* 9月 林彪事件(モンゴルに逃亡し墜落死)

1976年
* 4月 周恩来死去。第一次天安門事件が起こる
* 9月 毛沢東死去。江青ら四人組が逮捕される
* 12月 10年ぶりに大学進学の全国統一試験を実施

1977年
* 8月 鄧小平が副総理に復帰

1978年
* 8月 「傷痕文学」ブームの始まり。文革中の非人間的事件を描く
* 10月 「民主の壁」で詩人黄翔らが毛沢東批判
* 12月 鄧小平が全面的に復権。改革開放政策が採択される

1979年
* 「改革開放」政策始まる
* 2月 鄧小平が毛沢東批判者の締め付けを開始:「四つの基本原則」

1980年
* 8月 趙紫陽が華国峰にかわり総理に就任
* 11月 胡耀邦が共産党主席に選ばれる

1981年
* 民間雑誌、民間組織の取り締まり始まる

1983年
* 春、高行健「バス停」上演、危険視される
* 「精神汚染反対」キャンペーンがピークに

1984年
* 党長老の鎮雲、第三世代育成を明言。「太子党」の始まり

1985年
* 3月 物理学者方励之が民主化運動について大学で講演、反響をよぶ

1986年
* 上海学生運動、北京、成都、西安、蘇州などに広がる

1987年
* 1月 鄧小平一号文書「我々は流血を恐れない」
* 同月、胡耀邦総書記を解任

1988年
* 春頃から物価が高騰、インフレが進行する
* 国営企業の民営化にからみ共産党幹部の腐敗多数

1989年
* 4月 胡耀邦が急死、北京大学で学生デモ勃発。人民日報が「動乱」と決めつける(李鵬の指示)
* 5月 3000人の学生がハンストに入る。趙紫陽らが訪問
* 6月 天安門事件。運動家たちの投獄と逃避行が始まる
* 東欧革命始まる(11月にベルリンの壁崩壊)
by Tomoichi_Sato | 2014-04-12 23:48 | 書評 | Comments(0)
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