「頭がいい」ということは、本当にそんなに「良い」ことだろうか

ボールを胸の真ん中でグローブに受けたとき、バシン、という重たさを感じた。「この子は肩が良いな」と思った。近所の公園で、息子とその友達と一緒にキャッチボールをして遊んでいた時のことである。息子と少し投げ合った後で、その友達の投げたボールを受けたら、スピードもコントロールもぜんぜん違ったのである。後で聞いたら、その子の母親も昔はソフトボールのピッチャーだったという。“生まれつき肩が良いって、あるんだな”と思った。

もちろん、ボールを速く、正確に投げられるというのは、肩という「身体の部分品」の出来がいいだけでは十分ではない。周囲の筋肉の使い方、タイミング、バランス感覚、などが総合されて、はじめていい球が投げられる。肩が良いというのは、一種の総合力なのである。

他の子をほめたので、一応自分の子供の良い所も挙げてみようか。息子は「鼻が良い」といえるだろう。微妙な匂いも非常に敏感に嗅ぎ分けられる。小さなときから、食べ物がちょっとでも生臭かったりすると手を付けなかったり、わずかに加えた隠し味の香りを精確に言い当てたりする。同じフランスのワインを、日本で飲む時とフランスで飲んだときは後味が少しだけ違う、などとのたまう。嗅覚が発達しているのだろう。

(ところで、この記事のタイトルを見て読み始めた読者の中には、「頭脳のよしあしの話題かと思って読み始めたのに、いつまで関係のない迂遠な話を続けるんだ」とお感じの方もおられるだろう。もうすぐ本題に入る)

人間には、「肩が良い」とか「鼻が良い」とか、ほかに「目が良い」「足が速い」など、いろんな特性というかタイプがある。「頭が良い」というのも、それと同格の、ある種の身体的機能の発達だと、わたしは思っている。

もちろん、「頭が良い」というのは一群の能力の総称である。言語能力、記憶力、論理的な思考能力、瞬間的な判断力、空間認知能力、パターン識別能力、などがないまぜになった特性を、なんとなくそう呼んでいるわけだ。「肩が良い」ことが総合力であるのと同じように、「頭が良い」のも一種の総合力であろう。

さて、この記事のタイトルに反語性を読みとって、「この佐藤という奴は、知的能力の高さに否定的らしい。反知性主義者なのか? どんな結論を提出するつもりなのか?」と思いながら読んでこられた「頭の良い」方は、そろそろ話のテンポが遅いことにイライラしはじめた頃と思う。頭の良い方は、概して忙しいし、気も短い。そこで、ご安心いただくために、先に本稿の結論をいってしまおう。「頭の良い人は、だまされやすい」という欠点を持つ、てのが結論である。

「だまされやすい!? この自分が、かよ? いーかげんにしろ。それほど馬鹿じゃねえ。」と息巻く方もおられるだろう。下心を持った人間がだまそうと近づいても、その些細な矛盾を突いて撃退できる知的能力をお持ちかも知れぬ。だまされるのは、ダマされる方が悪い、という言い方も存する。愚かだから、ダマされる。まったくそのとおりだ。だったら、頭が良ければ騙されにくいはずではないか。

ところで、催眠術師が決まって使うテクニックに、「催眠術は赤ん坊と馬鹿にはかかりません」と言って術を始める、というのがあるそうだ。こういう前ふりをすると、聞いている人たちは、「自分は赤ん坊でも馬鹿でもない」と思う。思うから、催眠術にかかる方向に、無意識にドライブがかかる。相手の、知的優越心をくすぐるのである。むろん催眠術と人をだます行為はぜんぜん別物だが、人の虚栄心をくすぐって利用する、という点では共通している。

わたし達の社会では、「頭が良い」のは最高の褒め言葉の一つである。それは、我々が高度に工業化された産業社会にすんでいるためだ。これが昔の、農業主体の社会だったら、「腕力がある」ほうがずっと人間の評価で重要だったはずだ。さらにさかのぼって、狩猟と採集で暮らしていた石器時代だったら、「足が速い」「鼻が良い」はとても優れた能力だったろう。社会構造によって、人に求める能力は変わってくるのだ。

前回、「今のお気持ち」主義という言い方で、“仕事の成果を左右する最大の要素は、やる人の気持ち(意欲・感情)だ”とする信憑をとりあげた。この考え方は、かなり広く受け入れられている。そして、この「今のお気持ち」主義は、もっと古いが根強い考え方、“最重要なのは、リーダーの生まれついての資質だ”という資質主義や血統主義へのアンチテーゼでもあると述べた。「気持ち」「資質」と並んで、わたし達がよく持ち出すのが、その人の「頭の良さ」なのである。頭が良くなくてはトップ・アスリートにはなれない、とも前回書いた。それだけではなく、どの分野であれ、トップになるには頭がわるくてはとても無理だ、と思う。

そういうわけで、現代社会は「頭の良い」人を発掘し育成し顕彰するために多大な努力を払っている。そのために最大限に利用しているのが、競争原理だ。日本の教育制度(というか入試制度)は、頭の良い人を選別することに主眼をおいたシステムである。選別中心ということは、頭の良さもまた生まれつきの資質であるとの前提に立っているわけで、その証拠に、社会では学歴(正確には「入試歴」)がずっと幅を利かせてきた。選別されたのだから、それで十分ということだ。

むろん、入試産業では、「人は生まれつき」では身もフタもないから、「がんばれば君だって良い大学に入れる」と盛んに宣伝する。つまり、やる人の気持ちが大事だ、ということである。制度自体は資質主義なのに、大半の生徒たちの尻を意欲主義で叩いているのが、いまの教育(?)のあり方だ。

このように「頭の良さ」が競争原理に直結しているため、人から「頭が良い」と思われると誰しも優越感を抱きやすい。大学入試歴のみならず、ちょっとした議論に勝ったり、あるいは人の知らない新しい情報を知っていたり、といった個別の局面で、いちいち優越感が顔を出す。

そもそも、議論というのはお互いの知識や見地を交換しあって、より真理に近い高みに登るために行う行為であるはずだ。それに「勝つ」というゲーム感覚を持ち込むこと自体、おかしなことだ。だが、その「おかしさ」に、頭が良い人ほど鈍感である。むしろ、過度に論争的になりやすい。

とくにこまるのは、われらが社会の試験制度が、記憶力や反射的な判断力に重点を置いた試験問題を好むことだ。「正解」の知識やテクニックを、素早く、たくさん記憶のポケットから取り出せる能力が有利なのである。だから、「頭の良い」人は、逆に「正解のある問い」という枠組み自体を、疑うことをしなくなる。世の中には、いろいろな判断条件があり、価値観がある。ところが「知識重視」「知性主義」「競争原理」などの価値フレームワークは、決して疑わない。そして、それに準拠し、それに適応した形で、自分たちの価値軸を形成し再生産していく。

お分かりだろうか。「頭の良い」人たちを動かすのは簡単なのだ。彼らの競争心を刺激すればいい。

わたしはときおり、いくつかの大学で教えている。たとえばグループ演習の問題を出す。20分の時間制限付きだ。このとき、学生たちの尻をたたくのに、一番きくのは、(ライバルと目される)「××大学では正解率○○%だった」という一言だ。

頭の良い人は、知的競争心に動かされやすい。そして、「人に動かされやすい」というのは、つまり「騙されやすい」ということではないか。それも、誰か他人に騙される前に、頭の良い人はまず、「自分自身にだまされやすい」のである。自分に自信がある。なぜなら、子どもの頃から、“頭が良いね”とほめられ続けてきたからだ。自分の存在価値も、頭の良さにかけている。

あなたのまわりに、いい歳をしてして、知識や論戦に毎度毎度しのぎをけずって生きている人はいないだろうか。子どものうちはいい。20代そこそこの頃もまあ、しかたないかもしれぬ。しかし、30歳を過ぎてまだ「頭の良さ競争」に振り回されるのはおかしいと、いい加減気がつくべきではないか。

「頭の良い」人はしばしば、社会から与えられる価値観を疑わない。知識をいくら積み上げても、そこからは価値観など出てこないからだ(まあここで、ヒュームの哲学論など、あえてもちだすまい)。他人に動かされやすい。動かされているのに、自分では自分で考えて動いているつもりでいる。そういう意味では、知的エリート層は、じつはとても大衆的なのである。

頭の良さは総合的な能力だと書いた。その総合性が偏っているから、こうなるのである。おまけに、頭のよしあしと言ったって、正直それほどの差があるとも思えない。肩のよしあし、眼のよしあしと似たようなもので、人間の能力の差など、せいぜい倍半分なのである。100mを10秒で走れる人は滅多にいないが、20秒でならたいていの人が走れる。眼のよしあしを補正するために、人間は眼鏡などの器具を発明した。器具や練習などで、人間の能力はそれなりに是正され、差が縮まる。

「考える」のにも方法があり、練習もできるのだ。教育制度は、学生を選ぶのに忙しくて、そのことをあまり教えない。これはとても残念なことに思う。今のわたし達に必要なことは、むしろ「正解のない問題を、とことん考えぬく能力」なのである。・・ああ、そういえば、このことは前にも書いたな。頭がわるくて、自分で書いたことを、すぐ忘れてしまう。だからわたしは、こんな「反知性主義」的な文章を、性懲りもなく書いているのかもしれない。


<関連エントリ>
 →「『正解のない問題』を考える能力
by Tomoichi_Sato | 2014-03-24 08:34 | 考えるヒント | Comments(0)
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