問題症状を治してはいけない

学生の頃、友人の家に泊まった。深夜まで音楽談義にふけった翌朝、寝不足と二日酔い気味のまま起きだして、その家の洗面台の前に立つ。顔を洗おうとしたら、壁に小さな新聞記事の切り抜きが貼られているのに気がついた。なにかコラム記事のようだ。タイトルは「風邪を引かない方法」。筆者の名前は、医学博士 ○○○○とある。

文章の主旨はこうだった。「風邪を引いた患者の容態を調べると、ほぼ共通して、初期は鼻が通常より乾いた状態であることがわかった。本来、健康人の鼻の穴は適度に濡れている。鼻が乾いてしまうことが、風邪をひく原因だ。だから、風邪を予防したければ、朝夕、顔を洗うときに、指先を水道の水にひたし、それで鼻の穴を濡らすようにすると良い。自分はこの方法で、もう10年以上も、風邪ひとつ引いたことがない。」

たぶん、友人の母上はこの記事が気に入って、自分の健康のために洗面台に貼ることにしたのだろう。母上が実際に風邪ひとつ引かぬ体質になったかどうかは、知らない。しかし、この文章があまりにも奇妙だったため、わたしは今でも忘れられずにいる。

風邪はウィルス性の感染症で、主に空気感染によってうつる--こんな常識は、もちろん医学博士某先生も重々ご承知であったはずである。では、鼻の穴が乾くとなぜ風邪を引くのか? そこの理路はよく分からなかった。鼻腔壁が濡れていれば、外気と一緒に呼吸で吸い込んだウィルスなどもよく吸着でき、体内に入るのを防ぐことができる、ということだったのかもしれない。実際、わたし自身も、鼻が乾きやすいのは風邪の初期症状だと自覚し、気づいた時はなるべく大事をとるようにしている。そう思うようになったのは、この記事を読んで以降のことだったろうか。ただ、朝晩、水道水で鼻の穴を濡らすことはしていない。

というのは、わたしは別の見方をしたからだ。鼻が乾くことが、風邪の原因ではない。風邪を引いて、鼻腔が熱っぽくなるから、鼻が乾きやすくなるのだと考えたのである。なぜ熱っぽくなるのか? ここからは素人の想像だが、文字通り、身体の正常な反応のひとつであり、熱を出して温度を上げることによって、菌の生存率を下げようとしているのだ。発熱というのは基本的に、身体が外部から侵入したバイキンを弱らせる防御反応である(微生物には生存に適した温度範囲があり、感染菌はたいてい人間の通常体温に適応している)。

つまり、鼻が乾くことは、風邪の原因ではなく結果であり、初期症状なのである。それは、身体の正常な反応の一部だ。結果を除去したからといって、原因が治るわけではない。鼻の乾きにかぎらず、痛みや熱といった症状は、体のアラーム信号だ。アラーム信号それ自体を除去して、異変が治るだろうか。もちろん素人のわたしが、医学の専門家の意見を批評するのはおこがましいかもしれぬ。ただ、俗に“風邪を治す薬を発明できたらノーベル賞ものだ”と言われるが、この医学博士の先生が受賞したという話は聞かないし、学会での常識になったという風でもない。

話は、いきなり飛ぶ(いつもながらすみません)。10年ほど前だが、あるERPベンダーを、別の国のコングロマリットが買収した。ERP市場の中では、Second tierというか二番手集団だったが、あいにく赤字に陥って、買収の憂き目にあったわけだ。買い手の企業の方は、次々と買収劇を繰り返して急成長中であった。彼らは買収時のコメントとして、「これからは厳格なコスト管理を行って、経営を再建する」と発表した。Stringent cost controlという語を使っていた。これを読んだわたしは、“あ、これはダメだ”とがっかり感じたのを覚えている。

なぜダメか。ソリューション・ベンダーが赤字に陥る状態は、コスト管理の失敗から来ることは、じつは少ないからだ。豪華すぎる設備を買ったとか、外注先に払う人月単価が高すぎたといった理由で、赤字になるのなら、たしかにコスト屋の領分だろう。だが、多くの場合は、ちがう。新バージョンのリリースが遅れてシェアを競合他社に奪われたとか、追加交渉に失敗して売上が伸びなかったということが原因なのだ。さらに、どうしてそういう事態が生じるかというと、仕様が複雑化して開発工数が増大したとか、出来上がった製品の品質が悪くて顧客交渉に強く臨めない、といった事象が考えられる。そしてもっと原因をたどると、自社要員の人数・能力不足や、開発外注先の選定の失敗が浮かび上がる。それらの根本原因として、コミュニケーション不全や、リスク管理の不在など、マネジメント・スキル自体の問題が横たわっているはずだ。こうした問題を、数字に強いだけの財務屋さん達が解決できるだろうか?

赤字というのは、企業というシステムの表面に現れる症状である。その症状を、コストという「症状の次元」の中で解決できると思うのは、あさはかだ。原因は、もっと深いところにあるのに、買収で成長する企業では、往々にして頭脳優秀な財務マンたちが経営企画の中核にいて、自信満々にすべてを数字で割り切れると信じている。彼らが得意とするのは、厳格なコスト管理であり、不採算部門の売却であり、人のレイオフである。新技術が必要なら、自分でゆっくり開発するより外から買収してくるのが、一番てっとり早いと考える。

だが、ソリューション・ビジネスというのは複雑なシステムである。誤解しないでほしいが、ERPが複雑な情報システムだという話をしているのではない。ソリューションはベンダーと顧客とパートナーとハードメーカーと開発外注先の群からなる複雑なエコシステムの上に成り立つ商売であり、どこかの要素にインパクトを与えた場合、リアクションは思いもよらぬ別の場所に、後になってゆっくり現れたりする。それはちょうど、生物のからだ、あるいはヒトの身体のようなものだ。

あの医学博士が誤解した理由ははっきりしている。人間の身体というシステムで、鼻の乾きと風邪の発熱という二つの現象が、相前後してほぼ同時に現れる。だから前者が後者の原因だと考えてしまった。それは、複雑なシステムというものの見方ができない人の、早合点した論理だった。赤字を、コスト問題の次元でとらえるのも、同じように短絡した論理だ。納期遅れをスケジュールの次元だけで考え、在庫問題を物流だけの次元で対策しようというのも同様だ。結局、その企業は、数年後にERPベンダー部門を売却することになった。その間の本当の事情は、わたしには分からない。ただ、しだいに寡占化が進みつつあったERP市場で、その製品がトップ集団に踊り出ることもなかった。いいところもあったのに、残念なことだ。

症状を、症状の次元で治そうとする行為を「対症療法」と呼ぶ。対症療法では、病は根治できない。根治したければ、深い原因を探さなければならない。

そして、そのためには、システムというものに対する深い洞察が必要なのである。
by Tomoichi_Sato | 2013-12-10 23:59 | 考えるヒント | Comments(0)
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