なぜ事実と意見を区別して話すべきなのか

今回は、論理と共感という、説明のための二つの方法について書く。わたし達が他人に向かって、その人の受け入れにくいようなこと、あるいは、やや信じがたいことなどを説明し、理解してもらわなければならないシチュエーションは、しばしばある。『交渉』はその典型で、相手にとって不都合なことを説明し、理解してもらい、合意してもらう必要がある。マネジメントの仕事では、交渉能力は不可欠である。ただ、これが苦手だという人は、(わたし自身を含めて)とても多い。説明は交渉の基礎である。そこで、上手な説明ためには、どういう方法があるか、それを今回は考えてみたい。

たとえば、次のような会話を考えてみよう。

「中東の社会って、女性の地位が低いのよ。」
「本当かい。たとえば?」
「サウジアラビアじゃ、女性は車の運転さえ禁止されているのよ!」
「でもサウジでは、高級車レクサスの所有者の6割は女性だそうだよ。」

(念のため一応、先回りして釈明しておくが、べつにわたしは特定の社会を批評したくてこの例をあげた訳ではない。よくありがちな議論のサンプルとして書いただけだ。ちなみに最後の発言は、わたしがトヨタ系ディーラーの方から直接聞いた話である。)

さて、上の発言に、整理のため1~4までの番号を振ることにしよう。発言1は、正しいか正しくないか? 事実か、事実でないか?

言うまでもない。発言1「中東の社会って、女性の地位が低いのよ」自体は、印象、ないし『推測』である。とても大づかみな一般論として主張されているが、議論の余地がある。そこで会話の相手は、発言2で例示を求める。「本当かい。たとえば?」--推測に対しては、複数の例証が必要だ。

そこで最初の話者は、発言3「サウジアラビアじゃ、女性は車の運転さえ禁止されているのよ!」という『事実』を説明する。感嘆符(!)が付いてはいるが、これは感情的主張や意見ではなく、事実を論述している点に注意してほしい。

それでは、『事実』とは何か。論理的な説明の方法においては、事実とは「検証可能なものごと」を示す。サウジで女性の運転が許されているかどうかは、(調べるのが簡単かどうかは別として)YesかNoか、第三者にもはっきり検証することができる。そして実際、このことは事実である。

これに対して、相手は発言4「でもサウジでは、高級車レクサスの所有者の6割は女性だそうだ」と反論する。女性の運転が許されていない国で、高級車を所有するとはどういうことか。亭主が運転するか、あるいは運転手がいるかだが、いずれにせよ、この事実は、女性も財産権をもち、かつ、家庭内での意思決定には女性もある程度、発言力があることが伺われる。いずれにせよ、この発言は『数字に基づく事実』である。こちらも検証が可能であり、しかも数字をベースとしているから、論争の余地が少ない。

このように、
 『推測』 < 『事実』 < 『数字に基づく事実』
の順で、主張の説得力は強くなっていく。検証可能性が高まり、解釈のゆらぎが少なくなるからだ。

そこで、何らかの説明や主張をする際には、

(1) まず、誰もが同意できるゆるぎない事実を述べ、
(2) その上に三段論法的な論理を積み重ねて、
(3) 自分の意見へと導く

という手順で進めるべきだ、という考え方が生まれる。これが、西洋で主流となっている説得のための考え方である。そこにおいては、(1)は自分の議論の前提・基礎となるため、ここをあいまいにすると相手に反論されるおそれがある。だから推測よりは、検証可能な事実を、さらに数字で検証可能な事実を述べて、自分の信ぴょう性を高めようと工夫する。

検証可能性は、(自分や当事者だけでなく)第三者にも検証可能である、という点に注意してほしい。こういう観点からいうと、自分の感情や意見の論述は不利である。なぜなら「自分はこういう気分だった」「自分はこうすべきと考えた」ということ自体は、(かりにそれが事実だったとしても)他者には検証しがたいし、じっさい人の感情や意見は変わりやすいものだからである。だから、事実と意見をまぜこぜにした説明を聞くと、論理的な説明方法に慣れた人たちは、“こいつの主張は根拠が乏しい”“自分の損得だけで事実を解釈している”と感じる。

では、自分の価値観などは、いつ議論に持ち込むべきなのか。それにはいくつかのテクニックがある。一番オーソドックスなのは、まず(1)の議論の最初に、誰もが同意する大原則として宣言しておく(「この製品開発の目的はあくまで市場首位の奪還にある」とか「差別って、どんな場合にも良くないはずよね」とか)。そして、(3)の論述の段でもう一度、その原則を振り返り、自分の主張の支えとするやり方である。もう少し高等なテクニックとしては、“事実のふりをした推測”を巧みに混ぜて、議論を誘導する方法もある。これだと、事実と論理だけを積み重ねると、いつのまにか自分の主張が生まれる、と見えるわけだ。

いずれの方法をとるにしても、この論理的な説明法に従えば、最後に出てくる『意見』は、だれもが合意すべき見解のはずである(という形になる)。

ところで、これとは全く異なる説得の方法がある。それが『共感』をもちいる方法である。人間同士というのは、互いに感情を共有したいという気持ちを持っている。それが社会的動物であることの証左なのだろう。喜びであれ、怒りであれ、悲しみであれ、いや、単なる好き嫌いであれ、一緒にいるものの間で感情を共有できると、どこかに満足を感じるよう、人間はできている。

そこで、これを説得に利用する。「じつはこういうことがありまして・・」「このとき自分はこんな気持だったんですよ」「なのに、こういう目にあったんです」「おわかりいただけますよね」--ここで大事なのは、事実を正確に記述することではない。自分の感情を、リアリティを持って相手に伝えて、共感を得ることである。その結果として、「・・だから、こう思うんです」という結論に、理解を求めていく。

交渉戦術で言う“泣き落とし”などはその典型である。こちらが立場として下の場合、あいての同情を誘って、なんとかこちらの困窮に共感を得るようにしむける。“激励(という名前の命令)”だとか、この同類はいろいろある。

事実による説明と、共感による説得と、どちらが上で、どちらが下ということは別にない。ビジネスでは満足すべき結果が得られれば、それでいいのだ。事実、交渉の上手な人は、場面に応じてうまくこの二つを使い分けたり、巧みに混ぜたりして、相手を誘導していく。だから、どちらも身につけるに越したことはない。もし自分が、前者は不得手だと思ったら、まずは話し方の中で『事実』と『意見』を意識して区分けする練習をすべきなのである。

ついでながら、「事実による説明」には利点がひとつある。それは、文字に書いて残したとき、あとで読む人間にもそれなりの説得力を発揮する点である。「共感による説得」はその場にいてリアルタイムに体験した人でないと、伝わりにくい。このために、学問とか技術とかでは基本的に、事実と意見を区別した記述が求められるのである。(ちなみに哲学的にいうと、事実と意見を厳格に区別することはできない。というのは、どの事実を取り上げ、どの事実には触れずにおくかを選ぶ時点で、すでに話者の価値観が入っているからである。だが、少なくとも事実と意見は違うスタイルで表明するというのが、学問上のマナーだ)

そしてもう一つ。この二つの方法は、文化によっても好みが分かれる。西洋、ならびにインド・イスラム社会など「中洋」などの文化圏では、事実による説明がより重んじられる傾向がある。他方、東洋、とくにわたし達の社会などでは、共感による説明がかなり頻繁に用いられるようだ。日本では、事実と意見を区別して論理的に説明するやり方は、(いい面を捉えて見ると)“頭が良いしゃべり方”に見えるが、普通は“理屈っぽいやつだ”と思われる。そう見られてしまうことは、しばしばハンディである。

しかし、同じやり方が、別の文化圏に行くと、“あいつの話すことは筋が通っている”とプラスに評価される。この頃合いが、とても微妙で難しい。だから、人を説得することは、いつでもたやすくない仕事なのである。
by Tomoichi_Sato | 2013-10-20 23:51 | 考えるヒント | Comments(0)
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