まだ何ひとつ終わっていない

7月下旬、福島と宮城を旅行した。一泊二日の小旅行だ。仙台では、3.11の被災地を少しだけ見てきた。この時の体験は、自分でも、まだうまく言葉にすることができない。だが、書いておくべきだという気がするので、まとまりもないが、あえてここに記しておく。以下は、そのとき見聞きしたことである。

そもそもなぜ東北の、それもひどい災害にあった土地に行こうと思ったのか。自分でも説明できない。ただ、行って、亡くなられた方々のために手を合わせなければ、と感じたのだ。親戚がいたわけでもない。友人知人がそれほど多いわけでもない。でも、ずっとそう感じていた。本当はもっと早く行きたかった。だが例によって世事に煩わされ、2年以上もたってから、ようやく出かけることができたのだった。

土曜日の昼前の新幹線で、まず郡山に向かう。途中少し遅れたが、それでも東京から郡山まではあっという間だ。駅前に降り立つ。わたしはたまたま、'90年代の初め頃、仕事でなんどか郡山を訪れたことがあった。街は、その時の印象から大きくは変わっていないように思える。喜多方ラーメンの店を見つけて、軽く腹ごしらえし、ホテルに荷物を置く。

午後はそこで、旧知の昼田源四郎先生と久しぶりに再会した。昼田先生は精神科医で、臨床の世界で長く活躍され、統合失調症の専門書も書かれている。だが、医学史家という、もう一つの顔もお持ちで、「疫病(ハヤリヤマイ)と狐憑き―近世庶民の医療事情」(みすず書房)という本の著者でもある。江戸時代の診療記録を元にした、実証的な研究である。その後、福島大学の教育学部に転じられ、発達障害や「いじめ」の問題などを研究されてきた。

その大学も昨年退官され、今は「ふくしま心のケアセンター」という組織の所長をされている。これは医療機関ではなく、臨床心理士などを中心とした組織で、避難所生活の方々などを訪問し、相談とケアを行っているという。バックアップしているのは福島県内の精神医療法人の連合団体で、必要時は病院とも連携できる。これはどうやら国の補助事業らしく、東北三県が県単位で受け、それぞれ県内のしかるべき団体に委託していると理解した。昼田先生は組織の立ち上げ段階から関わって、いろいろ苦労されてきた様子だ。心理士などの人手はそれなりに確保できるらしい(他にあまり仕事がないということかもしれないが)。しかし、当然ながら、人々が受けた心の傷は大きい。「今年は自殺防止が大事なテーマだ」とも言われた。震災から一年たち、2年たち、頑張ることに疲れて心が折れそうになる人が増えている。

昼田先生からは河北新報(地元東北の新聞社)が制作したビデオ「東日本大震災 宮城・石巻沿岸部の記録 DVD」による震災と津波の映像もみせていただいた。また被災エリアの状況を示した震災地図というものも拝見した。しかし、3.11の被害規模があまりにも大きく、いまだに全貌がどうなっているのかよく理解できない状況だ。メディアは、個別にはいろいろなエピソードの報道や記録を積み上げているが、全体像を多面的・客観的に把握する、という仕事は不得手らしい。でも、必要な規模・数字のベースさえはっきりしないようでは、マクロな対策は立てようがない。どうしても、その場その場の応急措置的対応を続けることになる。わたしの専門の言葉を使えば、個別プロジェクトは多数あるが、プログラム・マネジメントがなされていない状態なのだ。縦割り・地域割りの行政も、その状況を改善するつもりは薄いらしい。

郡山の人たちのメンタルなケアを難しくしているもう一つの問題は、農業である。農産物が出荷できないのだ。それも「風評被害」で売れない、との問題ではない。政府によって出荷が禁止されているのである。これによって生活基盤を完全に失った人たちが大勢いる。あとで調べて驚いたのだが、安部首相名で福島県知事に対して、非常に長くて詳細な農産物リストと広範な地域名が指定され、「当分の間、摂取及び出荷を差し控えるよう、関係自治体の長、関 係事業者及び住民等に要請すること」が指示されている(わたし達の社会では、政府要請は事実上、命令である)。郡山市に限っていえば、米と大豆が(一部地域だが)禁止対象で、全市にわたる禁止物としては、たけのこ、キノコ(路地・野生)、くさそてつ、こしあぶら、ぜんまい、たらのめ、など山菜類が指定されている。それ以外にも、カブ、うめ、ゆず、くり、原乳などが隣接する市町村で禁止されている。農業はスーパーや映画館と違って、昨日までとは別の品種を今日から扱います、という訳にはいかない。農地を急に放棄するわけにもいかない。わたしがその身だったら、どう感じるだろうか。

昼田先生とは久しぶりだったので、その夜は小さな料理屋に入って、会津若松の地酒に舌鼓を打ちつつ、震災以外にもいろいろなことを話した。「精神分裂病」がなぜ「統合失調症」と呼びかえられたのか(英語でもドイツ語でも病名は“精神の分裂”という意味だ)。また、「いじめ」には国や文化による違いはあるか。昼田先生は米国の教育研究者と何年間も継続して共同研究を行い、広範なアンケート調査なども実施された。日本ではあまり報道されないが、米国にも、学校でのイジメは存在する。しかし、結論として、どうも文化に直接起因する大きな違いが見いだせない、という不思議な結果になったという。残念ながら、いじめという行為は人間のもっと深い部分に起因していて、それは一種の攻撃性と関係しているのではないか、と考えざるを得ない様子であった。また、昼田先生は現在、「江戸の精神科医」という次なる著書を準備されている、とのこと。仕事が多忙でなかなか時間を割けないとおっしゃっていたが、非常に楽しみな本である。地酒もとても美味しかったが、自分は酒飲みでないため、肝心の名前を忘れてしまった(^^;)

翌朝は郡山の街を少し散策した後、新幹線で仙台に移動した。昼田先生に教えていただいた「語り部タクシー」に乗って、被災地を訪れるためである(わたしは仙台中央タクシーを利用した)。料金は1時間5300円。ただし仙台駅を起点とする場合、1時間では足りないというので2時間でお願いした。もし二人以上で利用するならば、とてもフェアな料金だと言えよう。

仙台の幹線道路を東に向かい、平野部をしばらく走る。仙台東部道路を横切り、宮城野区の海沿いに向かう。農地もあるが、都市近郊の宅地である。すると、そのうち、どこがとは言いにくいのだが、風景が微妙に、しかし決定的に変わってくる。津波の到達域に入ったのだ。家々は同じように建っている。だが、窓ガラスが破れていたりして、人が住んでいないことが分かる。ごく普通の不動産分譲地のように見えて、だが人はいない。タクシーはある家の前に止まった。道路のアプローチ側から見ると、普通の家だ。だが、前に回ると、恐ろしい破壊の跡が見える。あたりが静かでのどかである分、そのショックは大きい。周囲には同じように、まだ新しいのにうち捨てられた郊外住宅がたくさん建っている。多額のローンを抱えたまま、家を捨てなければならなかった人々の気持ちが胸にこたえた。

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車はそのまま沿岸道路を走り、南に下がって若林区の長浜地区に行く。その名の通り、仙台の海水浴場として知られた浜辺だ。いま、そこには石碑と、観音像が建っている。震災の犠牲者の名前を刻んだ石碑だ。享年を見ると、ほとんどが高齢者で、そのなかに幼児が入っているのが痛ましい。休日なので、何人もの方が訪れている。わたしも浜辺に立ち、海に向かって頭をたれ、手を合わせて、亡くなられた方々の魂の平安を天に祈った。

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周囲を見ると、浜辺の松の木々が全て津波で折れ、ねじ曲げられた姿で残っている。松は陽樹で、海岸沿いにも自生するが、根が浅いため津波には抵抗力が弱い。有名な陸前高田市の「奇跡の一本松」は、名勝・高田松原の何千本もの松が、実はたった一本しか残らなかったことを意味しているのだろう。根元から折れた幹は、津波の中で流され、むしろ危険である。防風にはともかく防潮林には向かないのかもしれない。

近くには、荒浜小学校の建物がある。写真では分かりにくいかもしれないが、1階部分のガラスはほとんどが破れており、今は立ち入り禁止になっている。地図で見ると分かるが、このあたりは広く平坦な土地である。あの規模の津波が押し寄せた場合、逃れる高い場所はほとんどない。その中で4階建ての鉄筋コンクリートの小学校は唯一、避難できる場所だった。津波は2階まで押し寄せたが、その上まで逃れて助かった人が大勢いた。校舎の被害もさることながら、周囲に住む人がほとんどいなくなって、今は別の小学校の校舎に移転している。

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タクシーはさらに南に下り、仙台に隣接する名取市閖上(ゆりあげ)地区に入る。ここは海に面した町が丸々一つ、失われた場所だ。震災前の写真を見ると、わたしはなんだか、東京の月島あたりの地形を連想する。漁港と水産加工を中心として、家々の軒が連ね、7千人の人口をかかえ、朝市など活気のある生活が営まれていた。いまは、全くの平らな荒れ地だ。家は全て、コンクリートの土台しか残っていない。

閖上に一カ所だけ、小さな丘がある。「日和山」とよばれ、昔は船出前の日和をこの上から見たのだろう。頂上部で、標高7m。たくさんの人が、この山の上に逃れた。しかし津波の高さは10mだった。頂上の木の枝にしがみついた、ほんの数人の方しか生き残らなかったと、「語り部タクシー」の運転手の人はいった。自分がもし、閖上の町にその時いたらどうしていたか。土地はずっと平坦である。数キロ先の、仙台東部道路(これは高架になっている)まで行かないと、避難できそうな高い場所はない。しかし道はもう車で一杯だ。渋滞してまったく動けない。自分一人なら走って逃げもしよう。しかし乳幼児を抱えていたら。車いすの年寄りを抱えていたら。

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これ以上もう、何も言うことはない。仙台の町の中心部に戻ってからも、しばらくは、ぼおっと公園のベンチに座っていた。頭の中には今見てきた記憶が渦巻き、まともな言葉にはならない。今でもそうだ。

先にあげた昼田先生は、仙台市臨王寺の住職らが提唱された「森の防波堤」構想を手伝っておられるという。これは、横浜国大名誉教授で植物生態学者の宮脇昭氏の発案による、内陸堤防型の植林プランである。震災で発生したがれきのうち、有害なものは取りのぞいて、土や砂礫とともにマウンドとし、その上に深根性の照葉樹を複合的に植えていく構想で、民家・学校・田畑などはその内陸側におく。2年前に復興会議が提言した「二線堤」方式にも通じる(内陸堤防や二線堤方式の利点については、南堂久史氏のOpen Blogというサイトで知った )。

だが、この場合、森の防波堤よりも外側は非居住区とせざるをえない。新聞記事によると、沿岸地区にもどってもう一度住みたいと希望している住民は、3割程度らしい。あとの人たちは、逡巡している。それほど恐ろしい体験だったということだろう。わたしはもちろん当事者ではないし、「戻るべきだ」とも「戻るべきではない」とも、言えない。

ただ、わたしがこの記事を書いている横浜の家は、海岸から3km以内で、2階にいても標高10mあるかどうか。そのときが来たら、どこにどう逃げるのか。確とした答えはないのだ。そして、いったん災害に襲われたら、1年たっても、2年たっても、復興どころか荒れ地のままかもしれない。なぜなら、わたしが見てきたあの場所では、まだ何一つ終わっていないのだ。


関連エントリ:
→「今はまだ鎮魂の歌をうたえ
by Tomoichi_Sato | 2013-09-16 14:57 | 考えるヒント | Comments(2)
Commented by ton at 2013-09-16 19:02 x
はじめまして、何時も興味深い記事に勉強させて頂いております。
被災地である福島と宮城。
というか、主さんの関係する企業も福島(一)に関わっていたような気がしたのですが?
第三者的な感想がございましたらお聞かせいただければ幸いなのですが…
Commented by Tomoichi_Sato at 2013-09-18 21:39
わたしは原則として、自分の勤務先や顧客が現在関わっている個別の仕事については書かないことにしています。実名で発信している以上、決して「第三者的な感想」になりえないことは、ご理解いただけると思います。
わたしが一般論としてどう考えているかをお知りになりたければ、

「安全第一とはどういう意味か」http://brevis.exblog.jp/14543765/
「安全と危険の境目をはかる」 http://brevis.exblog.jp/14647303/

の二つの記事をお読みください。
(佐藤知一)
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