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書評:ハーバード白熱日本史教室 北川智子

ハーバード白熱日本史教室 (新潮新書) →Amazon

世の中には優秀な人がいるんだなあ、と、まず感じた。著者は1980年生まれ。高校を出てすぐカナダに単身渡り、ブリティッシュ・コロンビア大学を3年で卒業。それも数学と生物学のDouble major(二重専攻)で両方の卒論を書き、国際関係を副専攻する。3年生の時にハーバードのサマースクールで日本史を受講。その後、日本史専攻に転じて2年でカナダで修士を取り、博士課程はプリンストン大学に入学。しかも、「単位数を無茶苦茶なスピードで積み上げ」(p.26)、入学からわずか1年と1ヶ月でジェネラルズと呼ばれる前期試験に合格する(普通は最短でも2年)。

その後、1年間は日本に戻り、東大の史料編纂所に研究生として通いながら史料を読みあさり、3年目は米国に戻って論文を書き上げ、なんと3年以内で博士号をとってしまう。そして、ハーバード大学のカレッジ・フェローの職に就く。歴史学の世界では、短くて5年、普通で7年は学位取得にかかるのが常識だから、驚くほど早いスピードでプロの研究者になったわけだ。

しかも学生の時にはアイスホッケーのチームにも所属し、かつピアノも趣味で、ハーバードでは1日に2時間は練習するというのだから、この人はいったいいつ寝ているのだろう?と不思議に思えてくる。たぶん、いったん読んだ本は決して忘れず、いったん学んだことはすべて頭に残り、かつ、一度あった人は全員覚えている、というふうな頭の構造をしているのではないか。そう思えてならない。まことに何というか、うらやましい限りである。

その著者が、ハーバード大学のごく弱小学部である東アジア学部で開講した日本史の授業「Lady Samurai」が人気を集め、初年度は16人だったのが、2年目は104人、そして3年目は251人もの学生を集めることになった。教室も当然、毎年、大きなホールに移っていく。ハーバードで日本史を学びたいという人も、彼女が来るまではほとんど途絶えそうだったのに、どんどん増えていく。ハーバード大の「ティーチング・アワード」を受賞し、「思い出に残る教授」にも選出され、「ベスト・ドレッサー賞」まで受賞する。まことに驚嘆すべき活躍ぶりである。写真を見ても分かる通り、ガチガチの才女タイプではなく、にこやかな笑みが特徴の、若く魅力的な女性だ。

では、彼女が論文のテーマにした"Lady Samurai"とはどんな概念なのか。女性のサムライ--それは別に、薙刀を振り回す巴御前のような女性のことではない。たとえば、秀吉の正妻であった北政所ねい(ねね)を例にあげて、彼女は説明する。秀吉自身の手紙や、周囲の記録を丹念に読んでいくと、「ねねの方」が秀吉とペアを組んで、二人三脚、城下町を統治する姿が浮かび上がってくる。秀吉も要所要所でねねに意見を聞き、アドバイスを受け入れる。また、彼女のようなサムライの妻たちも、社会で武士に準ずる身分上の扱いを受ける。

むろん、当時は男尊女卑の社会ではあったが、それでも夫婦が共同で統治し事業を行なっていく姿を、著者は「ペア・ルーラー(夫婦統治者)」として位置づけ、奥方をLady Samuraiと呼ぶのである。(読んでいて、なんとなくほぼ同時代のスペイン王と女王の夫妻Reyes Catolicosを思い出した)

ペア・ルーラーの概念がこの著者の創意かどうかは知らないが、日本史の中でその存在を実証したところが研究のユニークな点である。しかし講義の人気は研究内容ばかりではなく、独創的な教え方によるところが大きい。「アクティブ・ラーニング」と呼ぶ、地図づくり、ラジオ番組作り、そしてグループでの映画(PCビデオ)作りなどの五感をフル活用した教育法が、学生達を虜にしたのである。

著者は自分の目指す学風を「印象派歴史学」と名付けている。印象派の絵のように、細部よりも全体像にこだわる歴史学である。それを通じて、日本とは何か、という「大きな物語」としての歴史記述を構築したいという。その意気やよし、であろう。

確かに、現代日本は「大きな物語」、一般化された歴史叙述を失ってしまっている、との主張(p181)はその通りと思う。日本の国家としての物語・自画像は、第二次大戦の敗戦と共に、バブルのごとく潰えた。それ以降、大きな物語の不在は、我々日本人の知的背骨を弱くしている。

ただ、本書を読んでわたしは少しだけ懸念も感じた。著者は優秀な若手研究者である。すでに日本のメディアから取材や講演の依頼が殺到していることだろう。学会講演だってするかもしれない。そして皆、一応拍手喝采するだろう。

だが、歴史学という仕事は、大ざっぱな印象で物語を作り上げることではない、古文書に紙魚のごとくへばりつき、細かな事跡を一つずつ詰めて行く地味な仕事だ、と信じる人も大勢いるはずだ。彼らは内心、何を考えるだろうか。北米で教育を受けた著者の、第二の天性とも言えるポジティブ思考と、物怖じしない表現についていけるだろうか? 個別性の世界にこだわる人々から見れば、彼女の論理はつっこみどころ満載である。本来は学問的に冷静に検討すべき議論が、他の感情にかき乱されないだろうか?

教育はいい。大学の講義は、学生アンケートによる評価システムで数値化され、競争の優劣も明白になる。しかし研究は、優劣を簡単に決め難い世界だ。その業界に、著者はこれから身をおく。彼女の優れた才能と溢れるばかりの意欲が、邪魔されずに育ってくれるといいのだが。
by Tomoichi_Sato | 2013-06-27 23:02 | 書評 | Comments(0)
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