ネストする地名の謎

京浜急行は、東京の品川から横浜を通って横須賀半島まで向かう私鉄である。東京都横浜を結ぶ鉄道路線は何本もあるが、その中で一番海沿いを通っている。だから何となく車内にどこか潮の香りのするような、庶民的な電車だ。軟弱な地盤の線路上を、かなり高速で運転するから、車内は結構揺れるのでも知られている。駅の名前も、「青物横丁」「鮫洲」「新馬場」「梅屋敷」「六郷土手」と、いかにも昔から人々が住んできた地域を表す地名が並んでいて、“○○が丘”とか“××学園”といった、私鉄不動産部の誰かが机の前で考えたような浅はかなネーミングとは、一線を画している。

その京急に、「神奈川」という駅がある。横浜駅から一つだけ東京よりに戻ったところにある、地味で目立たない駅だ。駅前にはわずかな商店街が並ぶのみで、特急はおろか急行さえとまらず、とまるのは各駅停車だけである。人口900万人を擁する、日本で2番目に大きい(人口の点で)県の名を代表するには、あまりにも小さな駅だ。どうしてこんな小さな町の地名が、県名に使われているのか? 誰が見たって、この県を代表する第一の都市は横浜市である。だったら、なぜ「横浜県」にならなかったのか。

横浜より神奈川の方が古いからさ、という答えも考えられる。神奈川は、古くから東海道の宿場町であった。江戸時代の末期まで、横浜は多少の漁民が住む寒村に過ぎなかった。それが、幕末に、江戸幕府が米国の砲艦外交に屈し開港を決めて以降、貿易港としてみるみる発展していった。外国人たちも居住して、ハイカラな土地になっていく。その場所は、今の横浜市中区のあたりである。そういえば中区生まれのある知人は、「中区以外は横浜じゃないじゃん」と豪語(?)していた。でも、横浜が廃藩置県当時小さすぎて県名に使われなかったとしても、鎌倉とか小田原とか、古くて立派な町は他にもあったではないか。なぜ「鎌倉県」や「小田原県」でなく、一介の宿場町が広大な県名に使われたのか?

ちなみに、本来の神奈川宿の地名は、かろうじて、横浜の区政の中に名前を残した。おかげで、わたしの家の住所は「神奈川県 横浜市 神奈川区」である。東京の人に「お住まいはどちらですか?」とたずねられ、「神奈川です」と答えると、「神奈川のどちらですか」と必ず問い返される。「横浜の神奈川です」というと、ますます相手は怪訝な顔をするだけだ。階層構造的に分析すると、最上位の神奈川の下に、レベル2の横浜がきて、その下のレベル3に再び神奈川が来る。自己再帰的なネストとなった、非常に奇妙な地名構造である。住所を記入するたびに、なぜこんな命名になっているのだろう、といつも不思議に思っていた。

その謎は、ある日、とつぜん解決した。子ども向けの「日本の歴史」という絵入りの本に答えが書いてあったのだ。それは、現在の神奈川県(とくに東半分)が幕府の領地だったことに関係している、らしかった。もっといえば、明治維新の時、官軍側だったか幕軍側だったかで、その地名の運命が決まってしまうのだ。

日本の県の中で、県名と県庁所在地名が一致するところをあげるてみよう。たとえば、

鹿児島県(鹿児島市)
山口県(山口市)
高知県(高知市)
佐賀県(佐賀市)

これらは「薩長土肥」の藩閥で、明治政府の中心をなした藩だった。忠勤藩とも呼ばれた。ほかに、福岡県(福岡市)、広島県(広島市)、岡山県(岡山市)、福井県(福井市)などはみな忠勤藩だ。

他方、最後まで朝廷に抵抗した東北・北陸の「奥羽越列藩同盟」の諸藩はどうなったか。
盛岡  →岩手県(岩手郡)
仙台  →宮城県(宮城郡)
米沢  →山形県(山形市)
久保田 →新潟県(新潟市)
会津  →福島県(福島市)

みごとに、県名から古い藩の名前が消されている。高崎藩(→群馬県)、松本藩(→長野県)、川越藩(→埼玉県)、姫路藩(→兵庫県)、松山藩(→愛媛県)などの朝敵藩も同様だ。岩手、宮城、群馬などは、1ランク格下の郡の名前が県を代表することになった。山形、新潟、福島などは県名と市の名が一応一致しているが、これらは廃藩置県のプロセスの中で、隣接する朝敵藩を吸収して県となっていった。だから、小田原も、東の神奈川県に吸収されてしまう。

例外もある。徳川御三家のひとつ、和歌山は今も県名に残っている(あとの水戸と名古屋は県レベルの名前になれなかった)。だがこれは、孝女和宮が和歌山藩主の長男家茂に降嫁して「忠勤藩」扱いになっていたことと関係しているらしい。

このような、命名による土地への懲罰を決めたのは、長州藩出身の井上馨だったらしい。周知の通り、明治維新は誰か一人の傑出したリーダーによって率いられた行為ではなく、大勢の元勲や志士たちによってなされた。その結果、明治政府は、内部でのリーダーたちの争い、そして旧藩主たちの不服従といった問題を抱えていた。だが、西南戦争で西郷が戦死、大久保が暗殺され、木戸が病没した後、権力を握って明治国家のガバナンス体制を設計し完成したのは、大久保の跡を継いだ伊藤博文と仲間や側近たちだった(井上もその一人である)。

廃藩置県は、中央集権型ガバナンスを確立するための第一歩であった。それも、最初は300以上も藩があったため、統治が大変だったらしい。もしあなたが会社の社長で、子会社が300もあったら頭痛がしてくるにちがいない。すぐに合併と吸収で整理し、数を減らそうとしないだろうか。彼らがやったのはそれだった。そして、その仕上げの過程で、命名権を政治的に活用して敵味方の賞罰を与える、というのが井上の発想だった。映画「千と千尋の神隠し」の中で、相手を支配するために相手の名前を奪って忘れさせる、というシーンが出てくるが、まさにこれである。いかにも「今清盛」と呼ばれ権勢をふるった人間らしい発想だろう。

それはともあれ、中央政府から県令を派遣して「子会社」たちから自治権を奪い、中央に従属せざるを得ないようにした体制は、ある程度成功したらしい。今でもかなりの程度、それは続いているからだ。さすがに今では、神奈川県知事は選挙で決まるし、わたしも投票できる。しかし今でも財政の多くの部分は国からの補助に頼っている。「三割自治」と揶揄されてきたゆえんである。国は県をコストセンターとしか見ていない。地域が自立してプロフィットセンター=価値を生みだす源泉となることは想定していないかのようだ。

そしてもう一つの問題がある。前回も指摘したように、中央集権型ガバナンスをとった時には、上位側にはかなりの情報処理能力が要求されることだ。そうでなければ、とくに問題が生じたときに処理がパンクする。それも、右肩上がりの高度成長時代はいい。増えるお金が問題を隠してくれるからだ。今のように社会の乱高下が激しい時に、中央政府は地方の問題に真面目に対処できる余裕はあるのだろうか? だから急行電車が神奈川の駅を通過するたびに、わたしは決まって不安におそわれるのである。
by Tomoichi_Sato | 2013-03-04 22:22 | 考えるヒント | Comments(0)
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