品質工学から見た日本の教育の疑問点

「うちの工場はきちんと品質を確保している。だから出荷しているのはすべて良品ばかりだ。」と製造業の人が胸を張って話す姿を見て、不思議に思う人は少ない。当然のことだからだ。もし、「うちの工場はきちんと品質を管理している。だから、出荷品の品質はまちまちで、グラフを描くと不良も含めて正規分布になる」と答えたら、逆にそんなおかしな工場の製品は買いたくないと、誰しも思うだろう。

良品のみを出荷する。製造するからには、すべて良品となるように目指す。これが製造業のふつうの考え方だ。製造工程にやむをえない変動要因があり、そのために出来上がりにばらつきができるとしても、それをいかに小さくするかを工夫するのが技術である。

テストには費用がかかる。どんな些細な検査であっても、そのために測定器や電力や、人件費が必要になる。「テストはコスト」なのである。だから、全品検査よりも抜き取り検査の方が、(結果の品質を同じように確保できるなら)安価ですむ。さらに、検査項目も、むやみに全項目やるよりも、重要でクリティカルな項目をうまく選んで集中する方がいい。

もちろん、どの項目がクリティカルであるかは、製造に携わる者が一番よく知っているはずである。この部分の厚みがたりなければ、全体の強度が保てない。しかもこの面からの切削が結構微妙で難しい。だから、この角度の厚みを計測し確認しておけば、強度テストは省ける--これが、製造を自分でやる立場の強みである。そういうプロセスを知らない第三者は、あらゆる検査項目を実施しないと安心できないだろう。

テストの結果、不良品がみつかったらどうするか? そんな製品は捨てて、新たな材料から作り直せばいい、と考える工場長はまれであろう。できるなら修正/修理を施して、良品に治したいと皆、思う。すでに買った材料に、手間をかけて製造を加えてきたのだから、不良品といえども、投入されたコストのかたまりなのだ。これをただ捨ててしまうのはもったいなさすぎる。

一体この話のどこが教育に関係するかって? まあ、我慢してもう少しおつきあい願いたい。

さて、最終出荷段階で製品を検査し不良が見つかると、修正するにはバラしたり組立なおしたりして大仕事になる。修正できない可能性だって高い。だから出荷直前に大がかりな検査をするより、各工程ごとに、重要項目だけを検査して、その場で修正する方がずっと効率がいいし、安くすむ。まあ工場の中には、ガラス工業や製鉄所のように、不良品を直接原料にリサイクルできる種類の工場もあるにはあるが、わざわざ加工したものを原料に戻したいとはだれも思うまい。皆、いかに不良率を下げるか、あるいは直行率(=補修せずに後工程に送れる比率)をあげるか、に苦心するのである。

つまり、テストというのは、製造行為と一体であり、ワンセットに統合されるべきものなのだ。テストをする理由は、良品のみを出荷するためであり、不良品をはやく見つけて修正するためである。さらにいえば、製造工程自身を改良するための、最良のフィードバックでもある。そして、良品の基準というものは当然ながら、毎回ブレてはいけない。「これはちょっと問題だけれど、まあ同じロットのほかの製品に比べればましだから」といって出荷したら、おかしいのはおわかりだろう。良品かどうかは、他の製品とは関係なく、その製品自体のできばえだけで決められるべきである。

以上、品質とテストについて、製造業の知恵をまとめよう。
(1) テストは、製造者自らが、行うべきである。それは不良品を良品に修正し、また製造工程自身を改善するためである
(2) 良品のみを出荷する。良品の基準は、絶対値できちんと決めて動かさない
(3) テストは、最後に大規模なものを一回実施するより、工程ごとに小刻みに行う方が効率的である


さて。ここからが教育の話である。現在わたしは、大学で週一回、プロジェクト・マネジメントの講義を教えている。半期が終わったら、学生の成績をつけなければいけない。ところで、大学からは、「S(優秀)からA(優)、B(良)、C(可)、D(不可)まで、一定の割合で成績をつけて欲しい」という要請が来る。非常勤講師は派遣社員かパートみたいなものなので、雇用主の要請には逆らえない。

ついでにいうと、大学3年生の後期に授業を教えるというのは、じつに切ない作業である。授業の出席者は、12月、1月となると目立って減ってくる。出席しても、気もそぞろだ。就活があるからである。スーツにネクタイ姿で授業に出る学生もかなりいる。彼らの気持ちを考えると、レポートの宿題やグループ課題を出すのも、ちょっと気が引ける(とはいっても出すけれど)。テーマがプロジェクト・マネジメントだから、ペーパー・テストで成績をつけるのはそぐわないと思い、出席点と最終課題(グループワーク)で採点します、と最初に宣言している。毎回の授業では、ちょっとしたクイズや演習を取り入れて、なるべく考える時間をとるようにしている。考える力がなければ、マネジメントなんてできないからだ(もっといえば、教科書に書いてあることをそのまま鵜呑みにする秀才型の人は、プロマネにはあまり向かない)。

半年間の授業は、わたし自身にとって、一つのプロジェクトだ。ゴールがあり、共同作業(授業を受けている学生との)であり、かつ失敗のリスクがある。プロジェクトが満たすべき条件を全部満たしている。であるから、はじめるとき、必ず自分の目標を決める。その目標とは? もちろん決まっている。出席した学生全員に、プロジェクト・マネジメントの基礎の基礎を理解してもらうこと。そして、「プロジェクト・マネジメントって面白い」と感じる学生を、できるだけ多くつくることだ。具体的な数値目標まではここでは触れないが、当然自分なりにレベルを設定する。

伝えるべき基礎を、出席者全員に、きちんと全部理解してほしい。つまり、できれば全員に「A」をとってほしい。そういう気持ちで、仕事に取り組む。それは、作るなら全部良品を製造したい、という製造マンの気持ちと同じだ。実際には、学生の出来はバラバラで、とうていAはあげられない人も出てくる。しかし、それは教える側の力量が足りないからだ。学生が集中して聴かないのは、こちらが興味を持てるような話し方ができないからである。やってみてつくづく分かるが、授業とは真剣勝負のようなもので、話し手がちょっとでもダレると、すぐ学生達は注意が散漫になる。寝てしまうのはいい方で、大きな声であちこちおしゃべりをはじめる。これは最近の学生の特徴らしい(「ゆとり教育世代だから集中力がないのだ」と説明する人もいるが、ちゃんとかみ合えば、じつは彼らはかなりの集中を示す)。

学期の途中で、ミニテストを実施することもある。これも、教える自分のためである。これまで教えてきたことが、どれだけ学生の意識の中に定着しているかを測る。結果がわるいと、ガックリくる。自分の教え方に問題があったのかな、と反省することになり、後半は少しペースややり方を変えようか、と考えたりする。

ところが、テストをすると、学生の側の態度がかなり変わる。ナーバスになるのである。自分が何点取れたかを気にする。そんなこと、君たちが心配すべきことじゃない。悩むべきなのは講師のわたしの方なんだ--そう説明しても、納得してくれない。彼らは生まれてから20年かそこら、ともかく他者から測られ続けて来た。それで選別されてきたのだ。その感覚が染みついている。

通常のテストの目的が選別であることは、それが「同学年の中での相対評価」でずっとなされるのを見れば分かる。教育制度からの要請は、「授業の評価は、A~Eの人数比率が正規分布に従うべき」という形で教師に降りてくる。したがって、テストは相対的基準で評価することになる。だが、なぜ相対評価なのか? それに、教育上、どんな意味があるのか? 「全員にAをつける講師は、真面目に仕事をしていない」と信じる根拠はどこにあるのか?

先の品質工学の原則を思い出してほしい。製造業での品質テストは、絶対的基準で評価する。なぜならテストの目的は、「良品以外を出荷しない(すなわち出荷品はすべて優良品である)ことを保証する」ためにあるからだ。現在の教育とは、まったく思想が異なっていることがおわかりだろう。

もちろん、テストも上手に使えば、教育的な効果が多少あることは認めよう。人間は機械部品ではない。機械部品は、いったん旋盤で加工すれば、その形状はいつまでも変わらない。しかし人間の脳は、いったんインプットした記憶も使わなければすぐに取り出せなくなってしまう。その記憶を確認・強化するための道具という意味なら、認めてもいい。しかし、だとしたら、テストの目的は採点や選別ではないはずである。

もう一つ指摘しておこう。現在の日本の教育制度では、高校の教育成果(=学力)は大学が入試で評価することになっている。同様に、中学の成果は高校が、小学校の成果は中学が、入試で評価する。つまり、日本の教育の特徴は、教育者が自分で評価しない(できない)ことにある。「そんなバカな。高校だって、ちゃんと期末試験をして成績をつけている」と反論されるだろうか? では、一流大学に入試に合格した生徒を、授業の出席や態度がわるいからと、落第させる勇気のある高校教師がどこにいるのか? 「この程度の知識もない奴は、高卒を自称する資格はない」と、怒れる父母を前に断言できる教師は何人いるのか。

テストや入試というのは、教育ではない。それは品質検査が、製造作業ではないのと同じだ。むろん、大学や高校には定員があるから、何らかの篩いが必要だというのは分かる。入学させてから、大量の宿題を課して篩いにかける欧米方式の代わりに、入学時点で厳しく査定するのが東アジア方式らしい。この発想はきっと、中国発の『科挙』の伝統までさかのぼるのだろう。科挙に通れば上流階級が保証された。「秀才」とは元々、科挙に通った人のことを指した。そういう片寄った「能力主義」のおかげで、歴代の封建中国がどれだけ素晴らしい社会だったか、たまには歴史に学ぶのも一興ではないか。

もう一度繰り返そう。テストというのは、教師のためにあるのである。教える側が、自分の方法を向上させるために行う。結果は、全員が合格となるのが理想である。卒業した者には、自信を持ってその品質(資質)を保証する。上位の学校が、勝手に途中で入試と称して引ったくってはいけない。学校教師たちは、教育を自分の手に取り戻すべきである。そして今、寒い中を毎日入学試験に明け暮れている受験生達には、勉強の目標はテストに合格するためではなく、少しでも賢い自分に近づくためであることを、心に留めておいてほしいのである。
by Tomoichi_Sato | 2013-02-18 21:20 | 考えるヒント | Comments(5)
Commented by bn2islander at 2013-02-18 21:27 x
大変興味深い意見でした。

絶対評価と相対評価に関しては、元文科官僚の方がこの様な事を仰ってましたので、紹介します。

"ちなみに、絶対評価は目標と結果を比較するが、相対評価は結果を並べるだけなのです。指導要録を相対評価から絶対評価にかえて評判が悪かったですが、評価方式が悪いのではなく、目標が具体性を欠いていたからです。相対評価なら「意欲はB君とA君を比べると、B君かな」と並べるだけでいい。目標のあいまいさをごまかせる。

日本には子どもが結果として身につけるべきことの基準が存在しません。指導要領は、子供に教えようとする内容の基準であって、子供の達成目標ではない。"
http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/special/chokugen/20091127_03.htm
Commented by andalusia at 2013-02-19 00:41 x
相対評価にどんな意味があるのか、と言えば、日本の大学の成績は全般に甘いので、海外の大学院や企業から信用されておらず、学生に不利に働いているという事実が厳然とあります。残念なことに、成績の目的は選別であるということが国際標準です。
自分の大学だけ成績を厳しくするということは「囚人のジレンマ」なので難しいため、そのような指導を文科省のほうから行なっているようです。
Commented by ほげほげ at 2013-02-19 10:05 x
正しい環境で、正しくメンテされた機械で、正しい手順で「大量生産」したものはテストする必要がないのです。正しくマニュアル化された大量生産では不良品を作る方が難しいです。もちろんミクロには正規分布のような品質のばらつきはありますが、端から端まで良品となるような誤差の範囲で製造して、6σを満たしていればいいわけですが。
Commented by ワイブルEHL at 2015-06-10 22:20 x
 そういえばトライボロジー関係で、新理論CCSCモデルがもてはやされているようですね。工学とはブラックボックスをある仮説から制御仕様とする立場と同様に科学(サイエンス)によってそのブラックボックスを解明することも重要である。それを改めて教えてくれたような理論で目からうろこ状態です。
Commented by 教えない at 2015-06-27 18:40 x
 本来は精神という言葉は美しく、信念に支えられて一貫し続ける心の動きを表現してきたが、大東亜戦争で負けた圧力により徐々にネガティブ化している。お仕着せがましさの意味も付加されるようになった。
 その一方、言葉の使われ方で精神に相当する意味の言葉が品質とか倫理に置き換わってきている。正式に「精神」という用語が使えなくなっている悲哀を感じる。
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