クリスマス・メッセージ:求めよ、さらば与えられん

Merry Christmas!

ミヒャエル・エンデの名作「はてしない物語」(ネバーエンディング・ストーリー)は、前半では、主人公バスティアンが物語を読む、という二重構造になっている。そして後半は、物語の世界に飛び込んだ主人公が、「汝の欲することをなせ」という命のもとに探索の旅路を続ける話になる。そんなのはたやすいことだ、望んだことをすればよいだけなのだから、と考えた主人公に、つき従う獅子グラオーグラマーンは咆哮して、いう。「この道ほど決定的に迷ってしまいやすい道はほかにないのです。望みとは何か、よいとはどういうことか、わかっておられるのですかっ!」

さて、夏前のことだ。大学院生にプロジェクトのリスク・マネジメントを講義しているとき、途中でいつもの質問をみなに投げかけた。「皆さんはところで、世の中に運不運はあると思いますか?」ーーこの質問の含意は以前ここにも書いたので繰り返さないが、リスクというものを世間の用語から照らして見直してもらおうと思ったわけだ。この質問、中高年であれば10人中10人が、YESと答える。しかし若者は、必ずしもそうは限らない。

ところが、この授業の質問では、院生の全員がYESの方に手を挙げてきた。あれ? 質問の仕方を間違えたかな。そう思って、一人にたずねてみた。「あなたは、なぜ運不運があると思ったの?」「えーと、たとえば電車に飛び乗ろうとしたら、目の前でドアが閉まっちゃう事って、あるじゃないですか。」

それはそうだが、ここで聞きたいのはプロジェクトのような大がかりな仕事における運不運である。これは聞き方がまずかったようだ。それにこの人達はまだ、本当の意味でプロジェクト的な経験があまりない。そこで、逆の面から聞くことにしてみた。

「じゃあ、皆さんは、『強い意志と努力があれば、どんな事でも必ず実現できる』と思いますか?」

今度は何人かが手を挙げた。意見が分かれたわけだ。そうなれば授業は回り出す。なぜそう考えるかを、それぞれ言ってもらう。そして、もし意志と努力で何事も成功できるなら、"リスク・マネジメント"なんて不要じゃないか、と切り出すこともできる(リスクとは失敗の可能性なのだから)。相手が考えなければ、授業は進まない。

意志と努力、(それに多少の才覚)があれば夢は必ず実現する、という信憑は、たとえば米国では広く受け入れられており、「アメリカン・ドリーム」の名で呼ばれる。たいていの場合、夢の最終実現形は「お金持ちになること」である。いま、その当否は論じない。ともかく、強く望めば、手に入る。これが信じられている命題だ。では、この信念に問題はあるだろうか。

もしこの命題が真ならば、論理学から言ってその対偶も真であるはずだ。この命題の対偶とは、「実現しないなら、それは強く望んでいないからだ」となる。もっと平たくにいえば、「貧乏なのはそいつの意志の問題だ」となる。これが論理の帰結である。

「貧乏なのは意志の問題」というテーゼにあなたは賛成されるだろうか? このような解釈は、米国では経済学や社会学でも、長らく力を持ってきた。黒人層の貧困問題なども、そういう視点からは冷ややかに見ることになる。彼ら自身がそこから脱出することを本気では望んでいないのだ、と。

長い不況と就職難の中にある日本の学生は、そんな風に言われたらむっとくるに違いない。だが、もしこれに賛成できないのなら、その人は「どんなに強く望んでも、世の中にはかなわぬ事がある」と信じることになる。じゃあ、夢をあきらめろ、と? 「求めよ、さらば与えられん」と、西洋人の宗教も言っていたのではなかったのか?

ちょっと、待ってほしい。「強く望めば、手に入る」と「求めよ、さらば与えられん」では、ニュアンスの違いがある。それをチェックするため、後者の聖句の前後にあたってみると、それはこんな風な文脈の中で続いていく。パンを求める子どもに石を与える親はいないように、天はお前たちの必要とするものを必ず与えてくれる。だから、明日、何を食べ何を着ようかと思い煩うな。一日の悩みは一日で足りる、と。

違いは2点ある。まず、「手に入る」という能動態の表現では、主語は『望んでいる自分』であるのに対し、「与えられん」の方では、『天の采配』という見えない主語が自分と対象の間に介在していること(だから当然、良くない望みは叶えられないことになる)。そして、与えられるのは、わたし達が本当に必要とするものである(わたし達が欲しがったものではなく)。と、わたしには感じられる。

本当に必要とするものを望むのは、難しい。「はてしない物語」で獅子が主人公に忠告したとおりだ。それは、自分が本当は何を必要としているのか、じつは自分でもよく分からないからだ。

だから、あまり欲をかいて煩うな、天に任せてその日を生きろ、というのが先の聖句の意味するところのようだ。謙虚であれ。しかし楽天的であれ。『天の采配』を信ずるかどうかはともかく、こちらの方が精神の健康には良さそうに思える。

それにしても、最初の院生たちとの問答に戻ると、全員が「運不運がある」とこたえ、「意志と努力があれば、何事でも必ず実現できる」と考えた人数が少なかったのには、やや驚いた。念のために書くが、東大の大学院生である。もう少し自信家というか野心家がいても、よさそうなものではないか。

でも、若者たちの心は変わってしまったのだと思う。それは、昨年の3.11以降のことである。あのとき以来、この世には個人の意思だけではどうにもならぬ事があるのだ、と胸に刻みつけられたのだろう。そう思うと、すこし痛々しかった。望みがすべて叶うとは限らないが、何も望まなければ何も叶うまい。そして若い人たちに、また希望を持ってもらうことこそ、あの災害で亡くなられた方々への、一番の手向けではないか。

わたし達はあの出来事をまだ、十分に乗り越えていない。忘れたふりをしてはいけないのだろう。世間がひととき静まるこの季節、被災された方々、今も困難な生活にくるしむ大勢の方のために、ほんの短い間ではあるが、わたし達も祈ることにしよう。
by Tomoichi_Sato | 2012-12-22 23:40 | リスク・マネジメント | Comments(1)
Commented by 河野典子 at 2013-01-13 19:15 x
非常に読み応え有る記事が多く知的好奇心に刺激を受けました。
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