リーダーシップを浪費する組織

見渡す限りの荒野を、一台の幌馬車が西に進む。手綱を取るのはがっしりとした屈強の男。妻と子供たち、それに従者をしたがえながら、まだ見ぬ新天地を目指し、ある時は川を渡りある時は峠を越え、またある時は野牛や狼の群を警戒し、インディアンの不意打ちを防ぐため銃に弾丸を込めながら、彼らの旅路は続く。いかなる困難に遭おうとも、不屈の意志で乗り越え、一団を率いて数千マイルもの道のりを行く。これがアメリカ人の描くフロンティア・スピリットだ。

勇気を持って仲間を率い(lead)、今までとは違う新しい場所に導く者を、Leaderと呼ぶ。ここにはヒーローのイメージが重なっている。北米の文化において、困難に直面したときは、自分をこうした開拓時代の勇者になぞらえ、自ら鼓舞する事が求められる。もちろん、現代のアメリカ人の過半数は、べつに西武開拓者の子孫ではない。それでも、自らを擬する対象として、開拓のリーダーのイメージがあるのだ。ちょうど、日本のビジネスマンが武士に規範を求めたり、戦国武将の物語を経営者が好んだりするのに似ている。日本人の9割は農民の子孫のはずだが、それでも武士が憧れなのだ。

ところで、英語のleaderは、基本的に同質な仲間を導く人の意味である。会社の経営者をリーダーと呼ぶとき、従業員は同種の仲間である事を表している。では、南部のプランテーションで、大勢の黒人奴隷を指揮していた者は何と呼ぶのか? 黒人たちのリーダー、ではあるまい。それではぜんぜん別の意味になってしまう。こういう農場管理人は、「マネージャー」と呼ぶのだ。黒人労働者、あれは全然別種の生き物だ。連中をどう使うかが、マネジメントだ。こういう感覚は、いまでも米国にうっすら残っている。だから、「マネージャーであることを止めて、リーダーになれ」というような台詞(警句)が意味を持つのである。

アメリカの文化では、リーダーには建国時代の「英雄」の元型的イメージが重なっている。米国の経営書を読むとき、このことを忘れてはいけない。カタカナ商売のコンサルタントが「今日のグローバル経営では」とか「世界の経営学の潮流は」と言うとき、9割は米国でのことを指しているはずだ。米国の経営学が世界をリードしていることに異存はない。それはアメリカ発の多国籍企業が、世界の市場経済を席巻していることと相似形になっている。

それでも、組織のあり方には、出自の文化が影響しており、学問や理論も、その地の文化と無縁ではない。プロジェクト・マネジメントの学会でフランスに行ったとき、欧州のPM研究はかくもアメリカと違うのかと驚いた記憶がある。一口にいうと、アメリカのPM論がプロジェクト自体の内部で、そのマネジメントや合理性を問うのに対して、欧州では社会の中でのプロジェクトのあり方を論じるのだ。同じような違いはリーダーシップ論にも現れるように感じる。そして、わたし達のビジネス思想は、アメリカの輸入概念にかなり依存している。

近代の経営学は、ちょうど100年前、米国のテイラーによる科学的管理法の研究から始まったといわれる。これは工場労働者の生産性の科学だった。しかし、それと並び、リーダーシップに関する研究が、米国のもう一つの大きな流れだ。おそらく元は政治学に連なる系譜なのだろう。少しお勉強してみると、20世紀前半まで、リーダーシップ論は、リーダーの特性・資質の研究が中心だったようだ。リーダーとはどういう人間なのか。どういった能力や性格を持って生まれたのか。その属性を探ろうというアプローチだ。

膨大な研究が積み重ねられたにもかかわらず、50-60年代にはいると、この方法は煮詰まってきたらしい。決め手となる属性が定まらないのだ。もしかすると、リーダーとは生まれつきの資質だけでは決まらないのかもしれない。そこで、次第にリーダーの行動特性を分析する方向に変わった。行動なら学ぶことができ、育てる事も可能なはずだ。

さらに、適切なリーダーの行動は、状況に応じて異なる、という「状況理論」が現れる。それを追うように、今度は「変革型リーダー」などのリーダーシップ類型論が生まれてくる。もちろん、資質論や行動論もまだ忘れられたわけではない。こうして、Harvard Business Review誌などは周期的にリーダーシップ特集を組む。彼らはよほどこのテーマがお好きらしい。つまり、英雄的リーダーが導く企業、というイメージが皆にうけるのだろう。リーダーシップの必読論文10選などを見ると、じつに百家争鳴である。ただ、どちらかというと、現実のリーダーを分析する記述的研究から、モデルなどを使った規範的な研究に向かっているように感じられる。「リーダーシップはこうあるべき」論である。

では、これに対して欧州の経営学ではどうなのか。これがなかなか、国によって違っている。たとえばドイツ。ここではリーダーシップ研究は微妙な位置にあるらしい。なぜか? ためしに、ネットの翻訳サイトを開いて、英語のleaderをドイツ語に翻訳してみてほしい。Führerという単語が出てくるであろう。では、今度はこのFührerを、日本語に翻訳してみよう。すると、20世紀前半のドイツを引っ張った、ある偉大な指導者の称号が出てくるはずだ。アドルフ・・ではじまる、あの人物である。彼は優れたリーダーだと言えるだろうか? 少なくとも、同時代の多くのドイツ人はそう信じたはずだ。オーストリア出身の経営学者ドラッカーは、長年リーダー論には慎重だったそうだが、その背景の一つには、ドイツ語の世界でリーダーがやっかいな位置にあったためらしい。

さて、ドラッカーと相前後して、同じオーストリア帝国の片隅に生まれた一人の女性がいた。彼女は修道女になってアイルランドに留学した後、インドに渡り、後に貧民街で多くの人を助けることになる。マザー・テレサの名前で知られる彼女は、自らの修道会を組織し、傑出した仕事をした人だ。彼女は優れたリーダーだったと言えるだろうか? そう信じる人は多いだろう。とはいえ、コンサルティング会社JMJアソシエイツ のレクチャー資料で、先のアドルフ・某氏とマザー・テレサの顔写真を並べて見せられたときは、ちょっとショックだった。この二人を同時に尊敬できる人は、滅多にいるまい。だとすると、『リーダー』と呼ばれる範疇には、互いに相容れない様々な種類の人間がいるのだ。

リーダーシップとは何か、皆が知っていると信じている。しかし、誰もが納得する共通の定義は存在しない」というのが、上記MJMアソシエイツの主張である。たしかにその通りだ。だが、それは何故なのか?

“誰もがその存在を自然なものと信じているが、その内容や定義は社会や文化によってころころ変わる”--こうした事柄は、実は社会が作り出した一種の幻想で、実在物ではない、という立場をとる学派がある。社会構築主義Social Constructivismと呼ばれる考え方で、社会的な事象を研究する理論的フレームワークの一つである(ちなみにわたしが初めて社会構築主義を知ったのが、フランスでのプロジェクト・マネジメント研究だったことは以前も書いた)。

さて、この社会構築主義の立場に立って、リーダーシップ論を考えたのが、英国の経営学者マインドルであった。彼は様々な調査と比較実験をもとに、企業の好業績を評価する際に、社員の能力・市場環境・制度などをさしおいて、経営者のリーダーシップで説明することを多くの人が好む(現実がどうだったかにかかわらず)ことを見いだした。また、そのリーダーシップは経営者の変わらぬ資質である、と考えたがる。

ここから彼は、『リーダーシップの神話(ロマンス)』という理論を提唱する。わたしたちは、ピンチになると強いリーダー(≒ヒーロー)に頼る傾向があり、組織のパフォーマンス問題をリーダーシップ不在という言葉で説明しようとする傾向があるというのが、彼の発見である。いいかえるとリーダーシップは、フォロワー達にとって「それが不在の時に最も強く、その実在を信じたくなる」、印画紙のような概念だと考えるのである。

あまりにも英国流のひねくれた意見だ、と思われるだろうか? そうかもしれない。ただ、この理論から予測できることが一つある。それは、制度的・環境的・成員的に大きな問題を抱える組織は、しばしばリーダーに問題を押し付け、やがて頻繁にリーダーを取り替えることになる、という現象だ。組織がリーダーシップを浪費する状況がいったん生まれたら、もはや人々は深く考える事をやめてしまう。かくして、組織はダウン・スパイラルに陥っていく。

マインドルや彼の学派はべつに、リーダーシップを否定しているのではない。それは有用な操作概念だ。だが、いつ、どう使うかが大事なのだろう。最初から、あらゆる問題への「銀の弾丸」として期待するのは、危険なのだ。そのとき、わたし達はリーダーシップの神話を求めていないか自己検証すべきらしい。優れたリーダーの問題は、制度や、環境や、フォロワーの人材などの問題を一つ一つ解決し、外堀を埋めてから攻めるべき本丸のようなものらしい。ご不満だろうか? だが、そうしないと、浪費家のわたし達が出会い頭にしがみつく次の相手が、独裁者なのか聖女なのか、それともただの凡人なのか、誰にも予見できないからなのである。
by Tomoichi_Sato | 2012-12-16 16:58 | ビジネス | Comments(1)
Commented by hino at 2012-12-16 20:01 x
変わり種のリーダー論として、進化心理学の観点からリーダーを論じた本もありました

論旨は、我々が思い描く「(背が高く、意思が強そうな)ステレオタイプなリーダー」というのは、現代とはまるで環境の異なる原始時代(!)に培われたリーダー像であり、必ずしも現代の複雑な環境にマッチしたリーダー像とは言えないことが多い(ミスマッチ仮説)というものです。

リーダー論自体はともかくとして、進化心理学の話が面白いので、よろしければ一読オススメします。

 ≫ Amazon.co.jp: なぜ、あの人がリーダーなのか?: 科学的リーダーシップ論: マルク・ファン フフト, アンジャナ アフジャ, Mark Van Vugt, Anjana Ahuja, 小坂 恵理: 本 http://www.amazon.co.jp/dp/4152093285%3FSubscriptionId%3D1A22VQWBAGYA06XAJFR2%26tag%3Dmdmk-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4152093285
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