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決める力、決めない力

混迷の度を深めるシリア情勢。国軍が自国民を爆撃し、反乱側の自由軍が守旧派の殲滅を叫ぶ中、度重なる和解調停の試みも失敗し、内戦は長期化の様相を見せている。この状況に関して、貴方はどのような意見をお持ちだろうか。政権側を支援すべきか、反乱側に肩入れするか、あるいは和平交渉のために第三の道をとるべきか。また、もし貴方のビジネスがシリアに何らかの関わりがある場合、それを続けるべきか、手を引くべきか。どう考えるだろうか?

そんな難しいこと分からないよ、ビジネスでだって中東とは付き合いがないし、仮定の質問には答えられないーーこれが大方の回答だろう。政治に詳しい人だったら、親米、あるいは親イランという軸でどちらかを選ぶかもしれない。でもビジネスの質問には苦慮するだろう。同じ質問を大学生にマイクを向けて聞いたら? おそらく、ちょっと困ったようにヘラヘラ笑って、「わかんないっす」と(正直に)答えるだろう。

では同じ質問を米国のビジネススクールの学生にたずねたら、どうなるか。想像するに、きっぱりした意見を、短い時間のうちに答えるはずだ。自分は十分な知識を持つ訳ではないが、手に入る情報から考察するに、かくかく判断される。したがって、しかじかの策をとるべきである。こういう筋で語るだろう。大学生、いや高校生に聞いたって、同様に自分の意見は言うだろう。意見の適否はおくとしても、決めろ、と言われたら短時間のうちに決める者が多いだろう。あちらはそういう教育システムなのだと言ってもいい。

ひるがえって、わたしのこのささやかなサイトで、特に多くの読者を集めた記事が「決めない人々」であった。それは、わたし達の社会において、『決める人』の少なさを皆が感じているからかもしれない。

ビジネスでは、タイムリーに決める能力がつねに求められる。「良い上司とは、決めてくれる上司である」という言葉もある。「良い顧客とは、タイムリーに決めてくれる顧客だ」という事実は、受注ビジネスを経験したことのある人なら、たいてい同意してくれるだろう。ではなぜ、人は決められないのか? どうすれば、決める人になれるのか。決められないのは組織の問題だ、と以前書いたが、ここでは個人の資質まで踏み込んで考えてみよう。

「決める」とは、複数の選択肢から、何かを選ぶことである。AかBか、右か左か正面か、やるか止めるか。そして選んだら、その事と結果に責任をもつ。これが決める事の意味だ。

選ぶ基準は、いろいろだ。好き嫌い、は一番プリミティブな基準である。今日の昼飯は何にするか、とか、AKB48の総選挙で誰に投票するか、などは好き嫌いで決めるだろう。もう少し高度な判断基準としては、文化的な美感がある。デザインなどで重要なのはその判断だ。

道徳的な善悪も、勿論あろう。舌切り雀の話で、お爺さんとお婆さんの選ぶ「大きいつづらと小さなつづら」は、強欲か謙虚かの決断基準だ。さらに知的な信憑性も、大事である。論理が通って一貫性のある主張と、そうでない主張を比較したら、普通は前者が勝る。この、美醜、善悪、真偽の三つの基準は「真善美」として、ギリシャ文明以来、西洋の思考法の柱となってきた。これを学ぶのが、教育の基本である。

しかし基準は、これだけに留まらない。政治的な敵味方、がある。好き嫌いや真善美を超えて、味方側を選ぶやり方だ。そして最後に、かつしばしば最も重要な基準として、金銭的な価値が挙げられる。

これら6種の判断基準は、すべて互いにからみあっている。相反することも時には(しばしば)ある。デザインとしてはAの方が美しい、でもBの方が安い。これが、わたし達の直面しがちな決断のジレンマだ。

ビジネスでは、他の条件が全く同等なら、金銭的な価値の大きい選択肢(販売なら高額、調達なら安価)を選ぶ。調達でRFPをきちんと用意する目的は、技術的要件そのほかをすべて均等にして、価格だけで比較できるようにするためだ。ただ、この手法がきくのは、ある程度汎用的な物を決めるときに限られる。例えばERPなどの個性の強い商品を、純粋に価格だけで決めたという例はほとんど聞かない(最後の決め手が価格だったという例ならあるが、それはつまり他の基準もあった事を意味する)。

したがって、わたし達が個人として決断力を高めたいのなら、まずこうした諸判断基準を区別し、優先順位を意識するのが第一歩である。表にして基準ごとにoやxを書いてみるのも、単純だがパワフルな手法である。

ところで、決断を難しくする要因は他にもある。それは、複雑性と不確定性である。リスクといってもいい。冒頭のシリア情勢を思い出してほしい。この問題が難しいのは、情勢が込み入っていて、事実として何が起きているのか判然としない点にある。現在の姿がよく分からないのだ。さらに、ある方策をとったとしても、それがどのような結果を及ぼすか、予測しにくい。(現状)→<決断>→(将来) というモデルの不確定性が高いのだ。

現実の事象には、つねに複雑性と不確実性があるから、決断が難しい。現状の把握と、因果関係の分析、そして今後の予測が、いつも議論が分かれるところになる。社内でたたかわされる論議は、ほぼこれだ。

したがって、決断力を持つためには、どんな複雑な状況でも、短時間のうちに理解・分析し、自らの意見を主張・説得しうる能力という事になる。だから、米国生まれのビジネススクールでは、もっぱらこれを教育する訳だ。有名なケースメソッドなどは、まさにこの能力開発のために作られたと言っていい。

どんな社会問題でも、自らの意見を主張できることが、欧米では知性のあかしである。意見を問われて、ヘラヘラ笑っているだけの大学生は、知性ゼロと判断される。たとえ真剣な表情でも、何も発言しない人間は、何の意見もないのだと見なされる。互いに見解を出し合い、問題に多角的にアプローチし、理非曲直を短期間に論じて、最後にリーダーが(あるいは投票で)決断する。それをきちんとできる人間に、知性を認める。これがあちらの社会で、上に立つべき人の評価基準だ。

というのが、普通に語られる話だ。これだけなら、世によくあるMBA礼賛風の記事になる。でも、それだけで終わりにしないのが、本サイトの複眼的な(へそ曲がりな)ところである。

何かを理知的に、短時間で決めるためには、必要となる資質が、もう一つある。それは、「割り切り」である。物事をドライに割り切れる資質がないとダメなのだ。目の前にあるのは複雑で多面的な事象である。情緒や感覚面でのインプットがどうあろうと、合理性で判断していく。それはちょうど、地面に生えている草花を、シャベルで掘り出すようなものだ。細かな根は引きちぎられるだろう。でも、大体のモノが取り出せればいい。これが割り切りの感覚だ。

「決めない人」は、この割り切りに抵抗する。それはほとんど感覚的な抵抗だ。理は情にまさる、という西洋文化的な価値観にも反感を持つ。だがそれを論理的には主張できない(当たり前だ)。言えないで、ぐずぐずする。感覚で分かってよ、という訳だ。

このような態度・資質にも、一定の意味はあるのではないか。

あるとき、人材関係のコンサルタントから、こんな話を聞いたことがある。「よく、客先に行くと、『貴方は人材のプロだから、人を瞬時に見分ける目があるはずだ。どうか面接に同席して、これから引き合わせる部下の良し悪しを意見してほしい』といわれる事があります。そうした方にはこう答えます。『人の評価をする立場の者に大切な事が一つあります。それは、結果を待つ能力、忍耐力です。短時間に簡単に人を分類評価したいのをぐっとこらえて、長い目で部下を見る。これが大事なのじゃないでしょうか』」

スパッと対象を見切って判断する。これはdetachmentの資質である。自分と、対象とを引き離す。そして離れた、客観的な視点から理知的に決断する。他方、決めずに待つ態度は、commitmentの資質である。愛着といっても良い。自分に関わりの強い、愛着のある問題は簡単には決められない。決めるにも、感覚論が強くなる。

だが、それもまた「決める」事の一面なのである。あなたは、結婚相手を決めるとき、論理とoxだけで決めるだろうか。就職や、大学選びでもいい。自分自身を大きくコミットする決断は、実は言葉だけではうまく表現できない。それは誰だって(西洋人でも)同じだ。ただ彼らは、情緒的な決断を合理的な言葉で正当化するのが上手いだけだ。そうしないとバカだと思われる文化と教育で育ったからである。わたし達の文化には、そうした要求が薄い。「いやあ、何となく」の説明で通ってしまう。

人の評価をすぐに決めない力は、大切である。それは他者にコミットすることの証しだからだ。決める事の重要性は、強調されるべきだと思う。しかし、「割り切り」だけですべての人間を動かせると思ったら、それは愚かなのである。
by Tomoichi_Sato | 2012-11-09 15:32 | ビジネス | Comments(0)
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