交流と直流の違い、または技術者の心について

これも去年の春の話。久しぶりに昔の仲間で集まって飲んだ。メンバーの肩書きは、霞ヶ関の高級官僚たち、大手銀行の役員、公立大学や私大の教授、巨大外資系企業の役員兼弁護士と、錚々たる顔ぶれだ。いつまでもうだつの上がらぬエンジニア稼業をやっているのは、わたし一人である。ついでにいうと理科系も、わたしだけだった(本当はもう一人、原子力ムラの公的中核企業の技術者も来る予定だったのだが、多忙すぎて来られなかったのだ)。

話は当然ながら、まだ余塵おさまらぬ原発事故と計画停電が中心になった。いったい原発の内部状況は本当はどうなっているのか、近いうちにまた大きな地震が来たらどうすべきか、浜岡原発の停止は是か非か、といった話題がつづく。
「それにしても、原発の仕組みって、あんな風になっていたんだね。」と大学教授の一人が言う。
--そうなんだ、あれは単なる巨大な湯沸かしで、その蒸気でタービンを回して電気にしているんだよ、とわたしも答える。
「半分以上の熱は、海に捨ててるんだって?」と高級官僚がきく。
--そうだけど、それは火力発電所だって同じだよ。
わたしはそう答えながら、“しかし、今回の原発事故は不幸だけど、国民に与えた教育的効果は大きいな”と内心思った。

さらに、首都圏の電力不足に対し、西日本の電力は60Hzで周波数が違うから、融通にはキャパの限界がある、という話になった。なんで同じ国なのにサイクル数が違うんだ、という当然の疑問を皆が抱く。と、弁護士がこうたずてきねた。
「佐藤さん、ちょっと初歩的なこと聞いていいですか?」 
--いいよ。何? 
「あの、直流と交流って、何が違うんですか。」
すると、周りにいた他のメンバーも同じように、そうそう、実はそこが知りたかった、という。

さすがに苦笑して、答えた:
--直流ってのはね、電線を電気が一方向に流れていくわけ。ところが交流は、電気が波みたいに行ったり来たりするんだな。それでも、電気のエネルギーはちゃんと伝わるんだ。
すると、次の質問が来た。「えーと、それって、どっちも貯めることできるんですか?」
--蓄電池のことだったら、直流は貯められます。でも交流は、揚水発電をのぞけば、貯められないと思った方がいい。つまり、貯められるのは直流だけだ。あとで交流に変換できるけど、効率が落ちるね。
「そうか! 交流って貯められないのか。だから電力問題は難しいんだ。」皆はなんとなく積年の蒙が啓けたような顔になった。そして次の質問を無邪気に繰り出してきた。
「佐藤さん。じゃ、どうして交流なんて使うんです?」

さて、これは説明が難しい。元々、交流は誘導モーターとワンセットだった。エジソンの部下だった天才テスラが、「整流器のないモータを考案しろ」と命じられ、一生懸命考えた結果が、三相交流による送電と誘導モーターの同時発明だったのだ。わたしは、中学校の教科書に載っていた誘導モーターの説明図を、今もよく覚えている。アルミは磁石にはくっつかないのに、回転する磁界が、アルミの回転子を回ししていく。まるで手品である。どこにも物理的な摩擦や接触がなく、非常に効率の良いエネルギー伝達の仕組み。テスラのこの画期的発明は今も、世界中の工場で、動力源として数え切れないほど使われている。しかし、誘導モーターの仕組みを、宴席にいる仲間の面々に言葉だけで上手に説明する自身は、わたしにはなかった。

それにしても--と、帰り道に思ったものだ。--直流と交流の区別さえ知らない人たちが、日本の産官学の枢要な位置を占め、政策や戦略の意思決定をしているのだ。その中には、科学や技術に関わる予算や融資などの意思決定もあるにちがいない。だが、わたし自身は、別にそれが不当なことだとは思わない。たしかに、中学校の科学の教科書のレベルを、たまたま、わたしは知っていて、彼らは知らなかった。しかし、わたしが中学の英文法や日本史や国語の故事成語を、すべて理解しているかといえば、無理だ。中学レベルの知識さえ、誰しもオールラウンドにはなれないのだ。

自分がよく知らないことについて、どう判断を下すべきか? ここで話は、前回『技術者たちの沈黙』に書いた問題とつながってくる。前回、科学と技術は違うものだ、と書いた。その差は、管理あるいはマネジメントの視点から見ると、最もよく表れる。

科学、とくに基礎的科学研究は、あまり管理すべきでない、というのがわたしの信条である。わたし達の社会は、科学研究を年度刻みの予算と目標と効果で、あまりにもガチガチに縛りすぎる。いかにも“適切な目標設定と、社会的有用性の認識と、予算によるコントロールが科学研究の効率を上げる”、と言わんばかりである。しかし、こんなのは全く間違っている。科学というのは本来、真理に対する知的好奇心だけが原動力となって進むべきものなのだ。それがどこに向かって、どんな社会的成果を上げるかは、研究者にたずねるべきではない。

電線に電流を通じると、近くにあった磁石が反応して向きを変える、電磁誘導現象を発見した英国の学者ファラデーは、その発見が世の中に何の役に立つのかという質問に対し、「生まれたばかりの赤ん坊は、世の中で何の役に立つのか?」と切り返したという。彼の発見は、その後、モーターの発明として産業を根底から変えてしまったが、それは結果にすぎない。科学は中立なものであって、その効用をもとに管理すべきではないのである。

ところが、技術は違う。技術はマネジメントが必要である。なぜなら、技術は直接、役に立つ効用を生みだすものだからだ。それ自体は良いことのように思われるが、人間や社会の側は、そう単純ではない。効用は遠からず、社会の中で金銭や武力にむすびつく。そして、必ずや一人歩きし自己膨張していく傾向にある。いずれは資源を貪り食うようになる(例はリアル世界でもネットの中にもいくらでも見つかる)。だから、これを社会の中で適正なバランスの中に落とし込むことが必要なのである。むろん、技術を怖がって、角を矯めて牛を殺す愚は避けなければならない。そうではなく、力ある雄牛のように導いていくことが大事なのだ。

ところが、この技術のマネジメントというのが難しい。わたしは自分の勤務先で、いくつかのプロジェクトの中の技術を見ているにすぎないが、この程度だって簡単ではないのに、社会の中での技術政策となったらはるかに大変な仕事だ。それを、中学レベルの科学知識も危うい人たちがやるのである。

そこでよく登場する誤りが、「技術は技術者にマネジメントさせろ」という主張だろう。つまり、技術をよく知っている人間でなければ、うまく決断できないはずだ、との信念である。まあ、いかにも技術屋らしい勘違いだと思う。これはいつかも書いたことだが、ある大手IT企業との協業で、プロジェクト・チームに元部下を派遣したところ、相手先のリーダークラスの人間が出てきて、「お前はJavaのコードを1行だって書いたことがあるのか? それなのに、なぜ俺たちのプロジェクトをマネージできると思うのだ?」と突っ込んできたという。

こういう発想は、かなりモノ・カルチャーな技術分野で育ったエンジニア特有のものだ。もし彼のプロダクトが、ハードもソフトもDBもミドルウェアも通信も制御も包括する、広範なものだったら、どうするのか。すべての分野で最善の知識を持った技術者でなければマネージできないとしたら、誰も適任者はいなくなる。オーケストラの指揮者は、すべての楽器を演奏できるべきだろうか? 映画監督は、演技もカメラも照明も録音技術も、すべて通暁している人間が最良だろうか。

そうではないのだ。知ることのできる範囲は限界がある。もちろん、全く知らない、あるいは無関心では、マネジメントの仕事はできない。しかしマネジメントにおいて知るべきこととは、その技能やコツではなく、必要なアウトプットとインプットと資源、そして制約条件なのである。

それでも、問題が起きたときはどうすべきか? 問題解決はマネジメントの重要なファンクションではないか。技術を知らなくて、問題を解決できるのか?

そこで最終的に戻ってくるのは、技術者という人間である。誰に聞けば、まともな答えを返してきそうか。その人間の意図はどこにあるのか。知っている範囲はどこまでか。そして、問題解決への熱意はどれほどあるのか。これを、人を見て判断するのがマネジメントだ。

マネージする者は、技術の中身をよく知らなくてもいい。しかし、「技術者の心」は良く知る必要がある。技術を推進するのは結局、人間だからだ。人間には希望も感情もある。技術の政策を考えるときは、技術者の心をよく理解してほしい。同じ人間同士だから、できるはずだろう。交流と直流の違いをたずねた昔の仲間たち、あるいは彼らに代表される社会の中枢の人たちに、わたしが期待したいのはそこなのだ。


(テスラと彼の交流の発明については、下記の本が非常に見事にその状況を解説している:
物理学者が発見した米国ユダヤ人キリスト教の真実―技術・科学と人間と経済の裏面
by Tomoichi_Sato | 2012-09-01 15:32 | ビジネス | Comments(0)
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