データと情報はこう違う

わたしの先輩にあたる建築家が、ある時、海外出張から帰ってきてこうつぶやいた。「商社さんって、情報はたくさん持ってるけれど、データは持っていないんだね。」

ふつう建築家というのは、顧客からの漠としたニーズをきいたら、すぐ自分の“感性”で建物のデザインに走る人たちだ。でも、この人は少し違っている。デザイン的にも優れた感性の持ち主なのだが、「設計するときには、なぜそういう設計でなければならないのか、説明できる論理が必要」と、日頃から主張されている。つまり、論理に裏付けられた『設計思想』を、まず文章(あるいは絵で)つくる人なのである。

この人が、中国のある都市で計画を立てることになった。産業化を軸とした都市計画だが、広いエリアなので自由度がある。そこで、この地域はどのような産業に発展のポテンシャルがあるかを、まず考えてみたらしい。都市なので第一次産業主体ではないし、第三次産業(サービス系)が主役になるにはまだ都市の発展段階から見て時間がかかる。当然、製造業が中心になるだろう。そこに、米国のIT企業が進出して、一大製造拠点を設立中という情報が出てきた。現地の理工系大学とも提携するらしい。電子分野を中心としたハイテク産業がこれから伸びるのではないか、そんな観測が飛び交った。

ところが、出張先で現地を歩き、日系の商社と話してきたその建築家は、浮かない顔をしていうのである。「どこの企業がどの地区に進出を計画しているとか、市で権力を握っているのは書記の誰だとか、商社はそうした情報はたしかに詳しい。でも、この地域がどういう人口構成になっている、どんな産業がどれぐらいの比率で地域経済に貢献している、そういった話になると感覚論しか出てこない。そういう目でデータを集めていないみたいですね。」

この人が興味を持っているのは、その都市が本当に知識産業を柱に発展できるのか、そうだとしたら、新たに開発する地区にどういう空間構造を作ることが望ましいかか、だった。製鉄所や石油コンビナートと違い、知識産業では働く場所の人口密度が三次元的に高い。そこにどんな動線の軸が必要になるか、また人と人との「出会いの場」をどう空間的に生みだすか(これがアイデアの創発にはたいへん重要となる)がポイントになる。しかし、そもそも、そんな産業を期待していいのか? つまり、「その市の知的ポテンシャルの高さを知りたい」--これが彼の問題意識なのだが、たしかに難問である。

そこで、わたしはその人と連れだって、マーケティング・データバンクを訪問し、所蔵する関連資料を片端から借り出して目を通すことにした。(ちなみにマーケティング・データバンクというのは日本能率協会がやっているサービスで、マーケティングに関連する各種統計・白書・調査報告・新聞雑誌記事等々を所蔵するとともに、会員企業が「今後5年間の燃料電池の市場規模を知りたい」とか調査員に質問を出すと、短期間の内に関連資料を並べて教えてくれるという便利な仕組みである)

先輩はそこで分厚い統計資料の数字に目を通していたが、あるとき急に身を乗り出すと、「佐藤さん、面白いデータがある」と言い出した。それは、地域別に見た特許出願数の表だった。彼はそれと、地域別人口の数字とから、簡単に電卓で人口あたりの特許出願数を割り出してノートに書いていった。

「わかりますか。中国では先進的地域といわれる上海あたりと比べて、ここは二桁くらい低い。研究開発はまだまだ弱いのです。とても、知的創造で経済を引っ張れるレベルじゃない。当面、この地域がよって立つのは、単なる受託製造業ですよ。量は多いでしょうが、言われたモノを作るだけです。じっさい中国じゃあちこちで『知識城』といったネーミングの都市計画が流行っていますが、こうやってデータをおさえないと、本当のことは見えてきません。」

データというのは、定型化された数字や文字の並びで、それ自体は無味乾燥なものだ。統計書だとか、時刻表だとか、新聞の株式欄だとか、図書館の目録などが典型的なデータである。むろん、時刻表で旅行を夢見るロマンティックな人もいるだろうし、株式欄で一攫千金の夢を破られたプラグマティックな人もいるだろう。しかし、そうした感情、あるいはその人にとっての『意味』は、読み手が自ら心の働きの中で生み出したものだ。データ自体は中立で、とくに意味を持たない。

他方、情報とは不定形であって、大事なことはその形式ではなく、持つ意味内容そのものである。どこの市ではどの書記が権力を持っている、あるいはどこの会社ではどの資材部長が発注権限を持っている、といった情報は、それを知らずにいる者とは、明らかなパワーの差を生みだす。そうした観点からいえば、情報はデータよりも上位にあり、より高い価値をもたらすと言っていい。

ならば、かの建築家氏はなぜ、「彼らは情報は持っているけれど、データはないね」と、批判的にいうのか。それは、単発的な情報だけでは、適用範囲がひどく狭いからだ。A社の発注権限はX氏が握っている、という情報は、別のB社でY氏がもつ権限の判断には、使えない。ところが、もし人口データと特許出願数データの関係がわかれば、他の地域の評価にも同様に使えるだろう。あるいは日本や米国の都市データとの比較から、産業構造の発展ルートについての洞察も得られるかもしれない。つまり、データは推定や予測などへの適用範囲が広いのである。

もちろん、“はたして特許出願数がそこの住民の知的レベルを表す適切な指標と言えるのか?”という疑問はあり得よう。とはいえ、そこから生まれる議論は、ならば先進国のいろいろな都市のデータでも同じ傾向が見えるのか、とか、このデータから推定できるのはどの範囲までなのか、といった、検証可能で実際的な論点になるはずだ。他方、もしデータ無しの場合、“この地域の中国人は、上海や東京やサンフランシスコに比べて知的かどうか”といった、堂々巡りで決着のつかない感覚論しか生まれまい。

別に商社を批判するつもりは毛頭無いが、営業系の人たちは、えてして『情報の森』の中に居ながら、『データを読み取る』習慣が薄いように感じる。これは、理系文系という資質の差よりも、営業という仕事自体が、人と人のつながりの情報に大きく依存しているためであろう(製造系の人間は、数量だとか統計的品質だとかに慣れているので、データにもう少し敏感になる)。

それでもたとえば、毎日の名刺交換の結果、次第に手元にたまってくる名刺情報を、ちょっと表に入力してデータ化してみるだけでも、ずいぶんと気がつくことが増えてくるはずだ。あるいは、毎月の商談の進み具合や勝率について、数字でとらえてみれば、いろいろ面白いことが分かるはずなのである。販売管理システムの入力データだって、単に受注伝票や売掛金計上に処理して終わり、とせずに、「宝の山」と考えて分析しようとするセンスが必要なのだ。

いや、こうしたデータから意味を読み取る作業自体を「センス」の問題にしてはいけない。それは、少し訓練すれば身につく「スキル」なのだ。そして、情報とデータの差にもっとも自覚的なIT分野の人こそ、こうした社内スキルを引っ張るべき立場にいるはずなのである。


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by Tomoichi_Sato | 2012-07-24 23:25 | ビジネス | Comments(0)
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