書評: 「源実朝」 吉本隆明

筑摩書房から出ていた『日本詩人選』の一冊。吉本隆明は批評家として、また反体制的思想家としてカリスマ的人気を一時は誇っていた人だが、わたしは若い頃の詩人としての仕事が一番良いと感じる。もともと詩人的資質をもって生まれた人で、東工大の応用化学を出ているといっても、あまり理科系的な文章を書く人ではない。

その詩人としての彼が、鎌倉幕府の三代将軍として生まれ、若くして暗殺された天才的歌人の詩論を書くのである。面白くないはずがない。古書店でたまたま見つけた本書であるが、集中して一気に読んでしまった。

実朝の兄、二代将軍源頼家はかれが物心つくころに伊豆修善寺で惨殺される。それも、かれを擁立した北条時政の刺客の手によってである。愚管抄や吾妻鏡の文章を引用しながら、吉本はこう書く。「頼家の殺されかたからかんがえて、じぶんだけは別ものだとおもえるような条件はなにひとつなかったはずである。」(p.12)

それにしても、実朝たち兄弟はなぜ、執権である北条氏に一旦は将軍位につけられながら、後に捨てるように殺されなければならなかったか。吉本はまず、鎌倉幕府という奇妙な<制度>の構造分析からはじめる。鎌倉幕府は律令制の日本における国家内国家ともいうべき位相にあった。ところで、その「関東武門の固有制度ではどうしても血縁よりも惣領制のほうが重かった。(中略)この<惣領>は世襲ではなくて、一族一門のうち器量優れたものに<惣領>の指名によって継承される慣例がおこなわれていた。そして<惣領>は武力権と一門の祭祀権をあわせもつものであった」(p.37)は卓見であろう。惣領の支配が血縁の外にあるため、ともすると親子兄弟が互いにせめぎ殺戮し合う不安定性を内包していた。これを抑えるに、上位律令制の権威とのインタフェースとして源家の貴種性が当初は重要だった。しかし北条氏がライバルを次々と滅ぼし、鎌倉体制が安定化して行くにつれて、武家層は独自の倫理をつくりはじめ、やがて貴種は不要に、むしろ邪魔になっていくのである。

北条氏の飾りであることを自覚していた実朝が、我意を押し通したわずかな一つが、京都から貴族の娘を嫁迎えしたことである。当時、まだ「<一族>や<家門>の重さにくらべれば、<家族>はまだ比べものにならぬほど低い位置しかなかった。家父長家族が成立していたともいえず、また、妻女は実家の<族>に属しているといってよかった」(p.92)状態である。実朝という文学青年は、そのような境遇に生まれてしまったのだ。

吉本隆明はさらに、<和歌>とよばれる詩形式に論を進める。万葉の東歌「筑波嶺のをてもこてもに守部すゑ 母い守れども魂ぞあひにける」等は、上句と下句が明確に区切れ、かつ上句は下句を引き出すための隠喩(それ自体に強い意味はない)の形をしている。これは、対になった人々による掛けあいの和唱の場の即興のように生まれるもので、和歌の初原のあたりに近い、と彼は推測する。実朝の

 しら雪のふるの山なる杉村の すぐる程なき年のくれかな

などはこうした万葉調の古形を保持している。しかし

 秋ちかくなるしるしにや玉すだれ 小簾(こす)の間とほし風の涼しさ
 くれなゐの千入(ちしほ)のまふり山の端に 日の入るときの空にぞありける

などは、(単純な叙景だから)(万葉に類似の本歌があるから)というだけで「万葉調」と断ずるにははるかに遠いのである。事実、和歌は古今集の時代に入って明確に変容し、「雪のうちに春はきにけり鶯の 凍れる涙いまやとくらむ」のような<象徴>の地平にうつっていく。

 梅の花さけるさかりをめのまへに すぐせる宿は春ぞすくなき
 我が袖に香をだにのこせ梅の花 あかでちりぬる忘れがたみに

こうして並べてみると、実朝の歌が独特な心をもっていることがよくわかる。和歌はさらに『後拾遺集』で変容する。俗語の大胆な導入とともに、「詩的な<規範>のたががゆるんで、<象徴>性が崩壊しはじめたことを意味している」(p.197)と吉本は断ずる。いわばJ-POPの歌詞のように、平明だが単純な歌になるのである。「個々の詩人の感性に基礎をおくために、(中略)<景物>はほかにどんな習俗や伝承にしたがうものでもない」(p.198)ことになってゆく。和唱の場の共同体は不要となったのである。

こうしてとうとう和歌は新古今の岸辺にたどり着く。「吉野山花のふるさとあと絶えて むなしき枝に春風ぞふく」(藤原良経)「花は散りその色となくながむれば むなしき空に春雨ぞふる」(式子内親王)--こうした秀歌は、すでに目の前の景色とは何の関係もなく、すべて詩人の繊細な心の内にあるものを、技巧的な形で彫塑したものである。

 このねぬる朝けの風にかほるなり 軒ばの梅の春のはつ花
 吹く風は涼しくもあるかおのづから 山の蝉鳴きて秋は来にけり

十三歳で将軍職となって以来、実朝は鎌倉幕府の<象徴>的な頭領にすぎず、ただ祭祀権のみを履行する人形であった。かれが晩年望んだことは、宋に渡ることと、京都の律令王権から位階の昇進を得ることだけであった。そして二十七歳のとき、かれはとうとう右大臣に任ぜられる。その上は太政大臣しかなく、そうなると彼を取り除くことは困難になる。実朝が就任の拝賀のために鶴岡八幡宮に出たとき、だから彼を守る役目のはずの北条義時は「体調」を理由にそこに参列せず、かわりに兄頼家の子・公暁が暗殺者として木陰で待ち構えていたのであった。そうした顛末を、彼は何年も何年も前から、ある意味で心の中では見通していたともいえよう。

 神といひ仏といふも世の中の 人のこころのほかのものかは
 うつつとも夢ともしらぬ世にしあれば 有りとてありと頼むべき身か
 萩の花暮々までもありつるが 月出てみるになきがはかなき

ところで、吉本が指摘しなかったことで、一つ気がついたことがある。それは、歌人実朝は非常に耳の良い人だった、ということである。たとえば百人一首にとられた有名な

 世の中はつねにもがもな渚こぐ あまの小舟の綱手かなしも

は、たしかに吉本の言うように不安定な将軍職にうえにいるじぶんの<心>をあらわしていよう。ただ、それはこの歌の「な」「も」の音の繰り返す不安なリズムの上に、あやうく揺れてきしむ音が示しているのである。あるいはまた、もっとも有名な

 大海の磯もとどろによする波 われてくだけて裂けて散るかも

うっかり武家風だとか勇壮だとか誤解され、また詩人のひどく孤独な心が暗示されているようにも感じられるこの歌は、しかし下句の音をたどっていくと、まさに磯を打つ大波の低音の轟きが次第に周波数の高いしぶきに変わっていくさまを、見事に音自体で表象している。まさに、<和歌>という形式の中にこめられた、見事な<音楽>だった。そのような奏者を若いうちに失う事態こそ、日本における和歌の頂点の終わりを暗示していたのである。
by Tomoichi_Sato | 2012-04-14 21:22 | 書評 | Comments(0)
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