契約社会がリーダーシップを必要とする理由

ずいぶん前だが、わたしの好きな米国のマンガ"Dilbert"で、こんな話があった(Dilbertはハイテク企業の馬鹿馬鹿しさを皮肉った新聞連載マンガである)。主人公Dilbertの会社に、ERP導入コンサルが雇われてやってくる。彼はヘラヘラした頼りない男(というか巨大なネズミ)だが、ロクな経験もないのに腹が立つほど高い報酬を得ている。

そのコンサル氏、導入プランを説明しながら、「・・さて、この段階で古いレガシー・システムをシャットダウンし、新システムの稼働に切り替える」と言う。主人公Dilbertは、「待った。新システムがうまく動かなかったらどうするんです?」と、当然の質問をする。するとコンサルは「えーと」と言いながら書類をチェックして、「大丈夫。システムが動かなくても、ぼくの報酬には影響がないから」と、すまして答える。何のことはない、彼は雇用契約書をチェックしていたのである。それを聞いてDilbertも「俺もだ。」と答えるオチになっている。

米国の企業では、契約がすべてである。企業間が契約で動くだけではない。会社対個人の間も契約関係になっている。『雇用契約』は、日本では単なる法律上の概念だが、米国では実体であり、何か判断が必要な場合はそこに立ち返ることになっている。これは昨日今日できあがったことではない。その証拠に、1930年代の古いマルクス兄弟の映画でも、興行師グルーチョが、チンピラ役のチコを雇うときに「雇用契約書」を取りだして、二人でその契約の退屈な部分を削除しながら、紙を短冊のようにずたずたにしていく、というギャグがあった。

契約書の実質的な中核は、権利と義務の関係である。もう少し分かりやすく言うと、「果たすべき責任範囲」(Scope)と、得られる「報酬」がワンセットになっている。両者は等式で結ばれてバランスしており、片方が増えたらもう片方も増える、と皆が理解している。だから、地位が偉くなればなるほど仕事が忙しくなる。「米国企業では上の人間ほどよく働く」と言われるゆえんだ。契約型の組織においては、地位は権利(報酬)と義務(責任範囲)をむすぶ方程式の媒介項なのである。

このような組織では、誰もが雇用契約書で規定された仕事のScopeを気にする。仕事のScopeを、部門別・地位別に具体的に記述した書類は、Job Description(「職務記述書」)と呼ばれる。Job Descriptionは職種別に細かく多数用意される。わたしは中小企業診断士の資格を取る勉強をしたときに、人事管理の教科書ではじめて「職務記述書」の概念を学んだが、実物がないためにどういうものなのかうまく想像できなかった。わたしの勤務先に限らず、日本企業では一般に職務記述書が存在しない。無くてもなぜかうまく組織が回っているので、誰も必要としない。しかし、このような組織は、「自分の責任に際限がない」状況なので、英米人には理解しにくいようだ。

ただし、この雇用の方程式を逆に見ると、自分の仕事の範囲(能力範囲)を増やさない限り、報酬も上がらないことになる(いわゆる毎年のベースアップは別として)。わたしの研究室の先輩がハーバードで先生をしていたとき、研究室で雇っていた助手の人たちに、「言われた仕事だけやるのではなく、自分でやるべき事を考えてPlanを作って行動しなさい」と教育指導したところ、たしかに研究室のパフォーマンスは上がったのだが、翌年の査定時に彼らが皆、「自分はPlanningの仕事もするようになったのだから、その分、昇級してほしい」と要求してきて参った、という話を聞いたことがある。仕事ができるようになれば、scopeが拡がり、報酬も上がる。これが彼らの感覚なのだ。

これをつきつめていくと、自分の給料を飛躍的に上げたかったら、大学や専門訓練校に通い直し、新しい能力と資格を得て、別のポジションにありつくべし、という事になる。当然、転職も増えることになる。米国は流動性の高い社会なので、資格が個人の能力の品質保証をする最大の手段になる。こうして資格もどんどん増えていくわけだ(PMIを思うべし)。学校とはすべて自動車教習所のようなものであって、一定の学費を投資し、努力すれば資格(すなわち給与アップ)がついてくる。その最上クラスがビジネススクールとMBAだ、という教育観が生まれるわけである。

組織の話に戻るが、部署別地位別に細かく職務が決められており、それを組合せ積み上げることで組織ができあがる、という発想は、いわば自動車のような機械に似ている。機械はたくさんの部品から成り立っており、部品一つ一つに設計図面・仕様書がある。では、その機械を動かすのは誰なのか。機械部品を静的に組み上げただけでは、一方向に動くだけである。速度を変えたり、方向を決めたりするのは誰なのか。

それが「リーダー」であり経営者なのだ、というのが米国流の概念である。意思決定も問題解決も、すべてトップによって行われる(べきだ)と考える。そのためにはすべての情報をトップに透過的に集中しなければならない。各部門は、定められた職務(Scope)ならびに業務手順(Work Procedure)で動くようにする。そして上意下達で機敏に動く。これが組織の理想となる。軍隊みたいだが、つまり軍隊が組織の手本なのである。

いいかえれば、組織は二種類の人間から構成されるわけだ。リーダーと、部分品として働くその他大勢の人間。両者は別物である。部分品は、まさに部品であって、取り替えがきく。取替やすいように、きちんと職務記述書で規定して雇用契約する。代替可能性があるということは、つまりコモディティ(汎用品)であって、給与は比較的安くてすむことを意味する。一方、リーダーは取り替えがきかない。だから米国企業のトップは法外な報酬を得るようになっていく。

ところで、よく考えてみてほしい。あなたが英米の社会に生まれついたら、リーダーと部品と、どちらになりたいと思うか。リーダーに決まっているだろう。ぼくは一生こつこつ働く部品でいいよ、という人は少ない。(そういえば、英国ロックバンドPink Floydのヒット曲に"Another Brick in the Wall"というのがあった。あれこそ、自分は壁を構成するレンガの一個に過ぎない、という気分を表したタイトルだ)。

すると、どういうことになるか。リーダーの特徴は、自分の意見を持ち、自己主張があり、自信があることだ。つまり、組織の中のあらゆる階層の人間が、リーダーシップを発揮すべく、あれこれと自由に発想し主張したがる組織が生まれる。『部品』の枠内に収まりたがらぬ人間が増えるわけだ。実際、米国企業ではトップが不在になったり弱体化すると、マネジメント層がバラバラに勝手に動き始める。放っておけば組織の温度とエントロピーが高まっていく。これを押さえつけるために、ますます組織のコントロールを厳しくすることになる。職務記述書は厚くなりルールは厳格になる。つまり組織の「圧力」が高くなるのである。そして一層、トップの「リーダーシップ」は強くなる。

かくして、強力な本社機構と、Noは言えるがYesとは言えない中間管理層、そして顧客より上を気にする一般職員が増えていく。大企業病の発生である。大企業病を治そうとして、ますますリーダーシップが求められる。そもそもリーダーと部品の二極分化が原因だったのに。

誰も言わない事だが、ここであえて指摘しておく。20世紀の中盤まで、このような組織内圧力のビンのふたの役割をしていたものが社会にあった。それは、米国における「人種」、英国における「階級」である。有色人種に生まれたら、労働者階級に生まれたら、もう上には行けない。黒人や下層階級だから安心して部品扱いしていたのである。彼ら大多数の人間は、自分らしさを求めたければ、職場ではなく別のところで(それはスポーツだったり音楽だったり宗教だったりするわけだが)探すしかなかった。

そのような社会感覚は、'70年代を境に崩れつつある。無論、まだ厳然と残ってはいるが、もはや南部のプランテーションで黒人奴隷を使っていた時代には戻れないのだ。奴隷だった一人一人が、自分も能力を得てリーダーシップを発揮したい、と主張しはじめた。とうとう大統領まで黒人になった(オバマ氏は正確には黒人と白人のハーフだが、米国では誰もが彼を黒人と見ている)。

米国流の組織形態は考え直さなければならない時期にきている。と同時に、「リーダー+部品」型組織での、リーダーシップのインフレーションについても、再考が必要である。むろん、これらはすぐに簡単に変わるものではないだろう。とりあえず、わたし達は、日本型組織との違いにまず自覚的になるべきである。そうでないかぎり、わたし達は英米(に限らず契約社会)にある企業と協業したり、使いこなしたりすることがうまくできないからだ。
by Tomoichi_Sato | 2012-01-29 20:25 | ビジネス | Comments(0)
<< 耳は目よりも聡く、体は頭よりも賢い シェールガス革命と、見えない地... >>