仕事に心をつかってはいけない

「軽い胃潰瘍ですね。」内視鏡を見て、医者はそう言った。去年初めのことだ。正月明けからときどき胃が痛く、心配になって検査に行ったのだった。単なる胃炎であることを願っていたのだが、自分でも画像を見せてもらい、しかたなく納得した。まあ、しかし、それだったらピロリ菌を駆除してもらえばいい。それで長年の胃患いがすっきり治った知人の話を思いだし、希望をつないだ。

ところが数日後に組織検査の結果をききにいったら、医者は意外なことを言った。「ピロリ菌はいないようですね。二つの検査で、両方とも陰性です。」「そんな馬鹿な。じゃあ、わたしはなんで胃潰瘍になったんですか?」医師は安堵させるような顔をわたしに見せて、こう答えた。「ストレスでしょうね。たしかに胃潰瘍の9割は菌のせいですが、精神的ストレスでなるケースだって、あるんですよ。」

思い当たる節もあった。通常の仕事に加え、自分の能力以上にいろんなことに手を出しすぎていたのだ。体がもう、“これ以上はつきあいきれません”と信号を出してきたに決まっている。しかたがない。薬を飲めといわれた3ヶ月間は、酒も刺激物も甘い物も一切やめるしかない。そう、心に決めた。

それにしても、心と体のつながりは不思議である。気持ちのあり方が身体に作用して、病変を作る。こうした状態を心身症というらしい。昔は、胃潰瘍はその代表例といわれた。ほかに喘息や皮膚疾患や大腸やら血圧やら心臓やら、いろいろな所に症状を出現させる。どこにどう出るかは、その人の遺伝や体質、環境などで決まるのだろう。そういえば、頭の毛もストレスでよく引き合いに出される例だ。

それだけいろいろな場所に影響を及ぼすのだから、脳に病変を起こすことだってあるのではないか。全くの素人考えだが、いわゆる「メンタルな病気」の少なからぬ部分は、心理的なストレスが、「脳という臓器」の心身症として発現したものではないか。そんな風に思ったりもするのである。メンタルな病気にかかった人や、それを克服して復職された方を多少知っているが、ほとんどはきわめて真面目な人たちだ。真面目なるがゆえに、仕事のストレスを抱え込む。まあ病気にまではならなくても、不眠に悩んだり深酒したりする例は数多い。みな、“真面目なるがゆえに”陥る症状だ。

そうした人たち、あるいはその予備軍に贈る言葉が、主題の「仕事に心をつかってはならない」である。これは、わたしの大先輩にあたるプロジェクト・マネージャーから昔聞いた言葉だった。聞いたときは、今ひとつ意味がよく分からなかった。“仕事はビジネスライクに、ドライにやれ”って意味なのかな、それとも“仕事で余計な気遣いなど無用だ”という格言なのかな?

それから年月が経ち、自分が寝る前に胃薬を飲んでベッドに横たわる身になって、だんだんその意味の深さが分かるようになってきた。人間関係には、もちろん心をつかっていい。しかし、自分の仕事に、感情的に入れ込みすぎてはいけないのだ。過剰に心配したり、過剰に怒ったり、過剰に悩んだり、過剰に誇ったりしてはいけない。つまり、自分の大切なリソースである『感情』を、給料分以上にすり減らしてはいけないと、この言葉は諭している。これは感情の切替えが下手なわたしには、耳の痛い言葉だった。

感情は自分の身体と自分の精神とをつなげる、大切な役割を持っている。感情を失えば、人生の価値も失われる。それは、脳に器質的な障害を受けて感情機能を喪失した人の症例からも分かることだ。自己の経験に強い意義づけを与えるのが、感情なのである。

そして、感情をリソースとして他者に提供するサービスを、『感情労働』と呼ぶのだと以前書いた(「知識労働、肉体労働、そして『感情労働』」)。『感情労働』は知識労働と肉体労働の間にあって、一種の“見えない労働”として提供され消費される。だが、どんな人間も、感情は使いすぎれば、すりへって疲弊していく。これを回復させる時間と場所が必要なのだ。

自分が真面目に仕事に入れ込みすぎると、24時間、感情が仕事から離れられなくなる。それが危険なのだ。入れ込みすぎると、気分のアップダウンが激しくなる。急に怒ったり、ふいに落ち込んだり、また急に舞い上がったり振幅が大きくなるので、チームの他のメンバーがついていきにくくなる。チームというところは、誰かが本気で怒っていたら、まずなだめて、それから原因を探らなくてはならない。余計なエネルギーが消費されるのである。またアップダウンが激しいと、注意深い知的な判断がしにくいので、仕事のクオリティも安定しない。それやこれやで、結果がまた本人に巡りめぐってきてストレスになり、負のスパイラルを生じるのである。

それでは、このような状態を避け、「仕事に心をつかいすぎない」ためには、どうしたら良いのか。すぐ思いつく処方箋は二つある。まず、“オフになったら仕事から物理的にも心理的にも遠ざかる”ことだ。もう一つは、“自己完結的な気晴らしを別に持つ”ことかもしれない。

“物理的に遠ざかる”とは、ともかく距離的に離れることである。わたしの勤務先のメインのビジネスは、砂漠の真ん中とかジャングルの中とか、およそ人里離れた所にプラントを建てる仕事だが、こうしたプラントは、当然ながら住む場所(キャンプ)も同時に作らなければならない。ところで、ふつうキャンプはプラントからある程度離れた場所に設置する。これは防犯や騒音などの理由もあるが、建設現場のすぐ隣では、心が切り替わらないのである。ある現場所長は、「オフの飲み会では、仕事の話は一切禁止」をルールにしていた。そうして、自分の心を、ちょうど大型船の防水隔壁が水を遮断するように、仕事の心配から切り離しておくのである。そうしないと、病気になるからだ。

“自己完結的な気晴らし”というのは、自分だけで楽しめる趣味のことだ。単に趣味をもて、という意味ではない。「自分一人でできる趣味」でなくてはいけない。書画とか、料理とか、陶芸とか、編み物でもいい。最初から最後まで自分でプランして、結果を出せるものがいい。プロジェクトというのは所詮、自分の思うようにはいかないものである。たとえ自分がプロマネでもスポンサーでも、自分がデザインしたようにはできあがらず、考えたとおりには進まないのだ。これは大人数で協働する仕事の宿命である。にもかかわらず、仕事では結果責任を問われる。これはとくに、デザイナー気質の強い(いいかえれば創造的な)人にとっては強いストレスである。だから、別に自分自身のはけ口を作っておくのだ。

それにしても、人はなぜ、仕事に入れ込んでしまうのか。それは、仕事の成果で自分の給料も決まるからさ、と言えば言える。しかし、人は給料だけのために、パンのみに生きるわけではない。1時間たかだか数千円の給料のために、病気になるほどストレスを抱えたら、あべこべではないか。

それは結局、仕事の成果で自分の『評価』が決まるから、なのだろう。競争心の強い人にとっては、他人との比較で優位になるために。自負心の強い人には、『自己評価』で高位になるために。つまり、仕事を通じて“自己実現”を目指そうとするから、感情まで打ち込むのだろう。お金よりも強い、自己実現の欲求。そして、それでこそ、最高のパフォーマンスを生み出せるのだ、とのたまう人事コンサルタントも多い。

だが、本当なのだろうか。わたしがPMOとして過去何年間にわたってやってきたのは、“誰がやっても及第点がとれるマネジメント・システム”の構築だった。工場を作るときに考えるのは、労働者の個人的技能に頼らない、一定品質をうむ生産ラインだ。およそ、技術というのは、移転可能な、誰がやっても同じ成果を出せる手法のことではなかったか。つまり、会社組織というのは、各個人が部分品のように「交換可能」な状態になる方向に、努力し進化しているのではないか。

だとしたら、(わたしがオーナー経営者でもない限り)会社の仕事だけに自己実現を賭けるのは間違っているのである。会社は必ず、社員の自己実現の欲求を裏切る方向に進化していく。そうでなければ、今度は会社自体が競争から脱落していくはずである。会社は“自分探し”の場所ではない。そこはお金と引き替えに仕事をする場所だ。だからこそ、仕事に心をつかってはいけない、という格言が生きているのである。

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by Tomoichi_Sato | 2011-11-13 23:36 | ビジネス | Comments(0)
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