ストップ・ロス・オーダーと撤退の知恵

渋谷から東横線の各駅停車に乗った。たしか都内での研究会か何かの帰りだったと思う。ふだんは急行か特急に乗るのだが、その夜は何だかくたびれていたので、多少すいていた各停で座って帰ろうと思ったのだ。ところで、渋谷では穏やかな夜空だったのに、電車が5つめの都立大学駅に着く頃から、雷とともに急に激しい雨が降り始めてきた。折りたたみの小さな傘しか持っていない。でも、初夏の夕立だろう、いずれすぐやむにちがいない、と高をくくっていた。

しかし、電車は都立大の駅に停車したまま、ちっとも動き出さない。ホームに降り注ぐ雨は、しぶきとなって開け放たれたままのドアから車内にも吹き込んでくるようになった。しばらくしてから車内アナウンスで、「信号系統への落雷のために、全線がストップしております。復旧作業中ですが、まだしばらく時間がかかる見込です」という。外は相変わらずのひどい雨が続いている。ほんの通り雨という感じではなさそうだった。時計は9時半を回っていたように思う。さて、どうするか。

わたしの家は横浜近くの各駅停車の駅が最寄りだ。ちゃんと電車が動き出せば、30分足らずで着く。このまま座って帰れるのが一番良い。しかし、復旧の見込は不明だという。他のルートに乗り換えたいところだが、あいにく乗換駅でもない。せめてもう一つ隣の自由が丘駅までたどり着いていたら大井町線に乗り換えてJRに出られるのに、と思ったが、どうしようもない。あいにく手元不如意でタクシーという手段は考えられなかった(それに、こんな天気の時はタクシーはつかまらない)。

首都圏のロジスティックス事情に詳しい方ばかりではないだろうから、念のために書くと、東京方面から横浜に行くルートは5本ある。東急東横線と、JR(京浜東北線・東海道線・横須賀線)、京浜急行線だ。東横線は渋谷から、他の4ルートはすべて品川から横浜に向けて走っている。渋谷と品川は山手線でつながっている。正確に言うと、この他に日比谷線(中目黒発)と湘南新宿ラインの一部(恵比寿・大崎発)があるが、これらは途中からそれぞれ東横線と横須賀線に乗り入れている。

考えられる唯一の代替案は、今、ここで駅をおりて、バスを探し、渋谷か目黒か品川か、とにかく東京方面の他の線の駅に戻る事だ。ただし、バスがこの時刻に走っているかは定かでなく、戻ったとしても、JRや京急が動いている保証はない。困った事に、こういう時に限ってiPhoneは電池切れである。状況を知る手立てがないのだ。だが、この雨が単なる夕立ではなく、南関東を突如襲った集中豪雨だという感じは強まってきた。

もう一度、整理しよう。このまま乗り続けるか、それとも降りて別の可能性を探索するか。二つに一つだ。あなたなら、どうするだろうか? 続きを読む前に、ちょっと考えてみてほしい。

わたし達が直面する意思決定は、ほとんどの場合、不確実な状況下で行わなければならない。しかも、限られたリソースしかない局面でだ。それでも、明るい見通しのある選択肢からの決断だったら、まだ楽しめる。休暇は海に行こうか山に行こうか。天気や混み具合の不確実性はあるが、どちらを選んでも、多少はプラスだろうと感じられる。

難しいのは、ネガティブな選択肢からの決断である。それも、選択肢の中に「現状のまま」というのが入っている時が最も難しい。今のままではじり貧に思える。でも、代替案の中にも確実性はない。今よりひどくなって、「フライパンから火の中へ」飛びこんでしまう可能性もある。こういう時に、わたし達はどう決断したらよいのだろうか。

ストップ・ロス・オーダー』という言葉をわたしが知ったのは、デール・カーネギーの著書「道は開ける」の中だった。彼は「悩みに歯止めを設けよう」という章で、あらゆる賭けをする際に、あらかじめ「歯止め」をかけておくことを推奨している。ストップ・ロス・オーダーは元々、相場師の用語で、$50で株を買う時、(たとえば)$45のストップ・ロス点を設定しておく。そして株価が$45を切ったらすぐに売却し損切りするのである。彼はこの考え方を他の悩み事にも応用するよう勧める。

たとえば、時間にルーズな友人と一緒に昼食をとる約束をしたとする。彼は、友人を待つ時のストップ・ロス時間を10分に設定するのである。そして「君が10分以上遅れたら、昼食の約束はなしにして帰るよ」、と相手に告げるのである。

このストップ・ロス・オーダーがなぜ優れた知恵かと言うと、撤退という難問に、即断すべき基準を作ってくれるからである。意思決定の時、一番いけないのは、何も決断せずにずるずると先延ばしにしていく事だ。それは損失を広げていくばかりではない、何よりも自分の心理的エネルギーを消耗させ奪っていくのである。そうなると、ちゃんとした判断さえできなくなっていく。ストップ・ロス基準があれば、継続であれ、撤退であれ、"Go or no-go"をタイムリーに決断できる。そして決めたら、それが結果として正解となるよう、努力する。こうすれば、心的エネルギーをプラスの方向に使う事ができる。

その夜、わたしがとった決断は、こうだった。「まず、1時間15分は、この電車に座って、信号系統の復旧を待つ。それでも動く見込がない場合は、外に出て他の手段を探す。」そして、本を読みながら10時45分過ぎまでじっと待った。そして、まだ復旧のアナウンスがないので席を立ち、小さな傘を差して駅から近くの国道まで歩いた。そして幸い、恵比寿行きのバスを見つけて飛び乗った。JRの駅に着いたのは11時20分頃だったろうか。案の定、湘南新宿線は止まっていたが、京浜東北は動いていた。山手線で品川まで回り、なんとか横浜に戻ったのだった。ちなみに東横線が復旧したのは夜の1時近かった事を、後になってニュースで知った。

だが勘違いしないでほしい。結果がオーライだったから、わたしの決断が正しかった、と言っているのではない。ある方針を決めて、それで動けた事が良かったのだ。もし結果が失敗だったら、それが何回も続いたら、ストップ・ロスの基準を見直せばいいのである。それが『学び』というものではないか。どんな決断の場合でもそうだが、一度きりの結果で良否を評価するのは愚かだろう。それは1打席だけ見てバッターの能力を評価するようなものだ。

では、そのストップ・ロス基準はどのように決めるべきか? たとえば、わたしはなぜ、1時間15分という中途半端な数値を設定したのか? それについては、長くなったので、機会を改めてまた書こう。いつもわたしは余談が多くて長くなりすぎる。ここらへんでストップしておくのが、読みやすさの点でもいいと思うのだ(笑)。
by Tomoichi_Sato | 2011-09-03 14:05 | リスク・マネジメント | Comments(0)
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