安全と危険の境目をはかる

先日、作業現場の安全に関連して「度数率」という概念を紹介したが(「安全第一とはどういう意味か」参照)、これに多少似た概念で「事故率」という尺度がある。こちらは交通輸送などで使われる数字で、一人(あるいは1台)移動距離あたりの事故発生数である。たとえば国交省の統計によれば、国内の全道路における自動車の走行台・キロあたりの「死傷事故率」は現在100件/億台キロ前後である。言いかえると、自動車で100万キロ走行すると、平均約1回死傷事故に巻き込まれる可能性があることになる。

一方、航空機についての事故率は、輸送実績1億人キロあたりの死亡乗客数=0.04人という数字がある。台と人という単位系の違いがあるが、自動車1台に乗る平均人数は知れているから、両者を比較すると、自動車よりも飛行機の方がはるかに「安全」である、ということになる。実際、わたしの知るアメリカ人は北米と東南アジアを頻繁に往復する仕事で、通算100万マイル以上も飛び回っているが、“車で通勤するよりずっと安全だ”と自分に言い聞かせて乗っているといっていた。

もっとも、“自分に言い聞かせて”というあたりがミソで、彼だって何となく不安を感じるのである(時差等で肉体的にしんどいのもあるだろうが)。ここらへんが、安全に対する人間の感覚の微妙さを表していると思う。車を運転すれば、事故の可能性がある。それは承知だが、だからといってマイカー通勤やドライブ、あるいはタクシー利用を危険視する人はそんなに多くない。自動車の利便性が高いからである。

では、ある日、上品な身なりの黒い服を着た見知らぬ紳士がやってきて、「恐縮ですが、ちょっと車に同乗して10kmほど走っていただけませんか。同乗するだけで、別に運転は必要ありません。私どもの用意したプロの運転手がおりますので安全は請け合います。」と言われたら、あなたならどうするだろうか? あなたにはとりたてて、出かけたい場所も用事もない。でも相手は「10km走行して事故に遭う確率は、10万分の1しかありませんから」と慇懃に詰め寄ってくるとしたら?

OKと答える人の数は、少ないだろう。謝礼が出れば、多少は違うかも知れない。千円位くれるというなら、行ってもいいとは思う。でも相手が「直接の謝礼はお出しできませんが、あなたの行為は社会を巡りめぐって、あなたにプラスとして返ってきますから」というような説明だったら--わたしだったらお断りだ。メリットがあまりにも迂遠すぎるからである。

安全とは何だろうか。じつは、『安全』にはISOで決めた国際的な定義がある。それは
 「受け入れ不可能なリスクがないこと」(ISO/IEC Guide 51)
である。

この定義を知ると、消費者運動などでよく見る『絶対安全』という言葉は、ちょっとおかしな概念に思えてくる。それは一切のリスクをゼロにしろと言う要求であり、ちょうど絶対零度に物体を冷やせと言うようなものだ。逆に言えば、ISOは「受入可能なレベルのリスク」に抑えていることを「安全」と呼ぶのである。消費者運動のお嫌いな方など、これを知って、そら見たことか、運動家連中の言うことは完璧な間違いだ、と思われるかも知れない。

だが、ちょっと待ってほしい。ならばISOは「リスク」については、どう定義しているのか。調べてみると、不思議ことが分かる。ISO 31000に、その名も「リスクマネジメント」という規格があり、その定義は、

 「リスク:目的に対する不確かさの影響」effect of uncertainty on objectives

だという。これを、上記の安全の定義に代入すると、どうなるか。
「安全とは、受け入れ不可能な、目的に対する不確かさの影響がないこと」
になるが、これで意味の分かる人はいるだろうか? ISOは何を考えているのか?

じつは、ISOにはリスクの定義が複数、存在するのである。たとえば、「国際規格等における『リスク』の定義について」という資料は、今や話題の原子力安全・保安院が6年前に作成したものだが、4種類のISO/JISの定義を列挙している。その中で、上記の「安全」の規格に対応するのはISO/IEC Guide 51:1999であり、

 ・ リスクの定義 :危害の発生確率と危害のひどさの組合せ

と引用されている。

簡単に言うと、ISOは安全工学や環境学などに関連した分野では、危害とか危険などのマイナスの意味で長年「リスク」を使ってきた。ところが最近になって、(主に経済学や金融工学の影響だと想像されるが)プラスもマイナスも含めた不確実性のことを「リスク」と呼ぶようになったのである。わたしが以前「リスクという言葉自体がリスキーである」で書いたように、非対称型の概念から、対称型の概念に変わってきている。

ただし、そもそもISOの定義はいずれも、マネジメント・システムの体系の中で使われている点に注意してほしい。つまり各単語には意味空間が定められているのだ。だから、ISOに定義がある場合でも、ワン・センテンスだけをとりだして、「これが世界標準であり正解である」と思い込むのは危険なのである。それはいつの間にか思考停止の道具になってしまう。そもそも、マネジメントの問題には一般に正解なんか無い。

そこで、安全の定義にもどろう。上記をまとめると「安全とは、受け入れ不可能な危害の発生確率と影響度がないこと」になる。だが、疑問はまだ残る。誰にとって「受入可能」なのか? 判断する人と、判断基準は何だろうか?

答えははっきりしている。「リスクを受け入れ可能かどうか」は、その行為・目的の与える便益や価値を基準にして決めるのである。誰が決めるかというと、ISOは「マネジメントシステム」であって、その主体(通常は企業組織)が決めることになる。組織が価値を受け取り、また危険にもさらされる訳だから。え? 勝手に決めるのは本社なのに、危険にさらされるのは、その事も知らされていない現場の作業員(あるいは下請け)だろうって? もしそうなら、それはマネジメント・システムとして機能していないことになる。なぜならシステムというのは組織の構成員全員にちゃんと説明して、ちゃんと理解し従うことに合意した上で成立・維持するものだからである。

自分に何の具体的便益もないまま、リスク(危害の確率や影響度)にさらされた場合は、それを「受け入れる」かどうかは、本人の意志で決めることになる。何の便益も無しに「車に同乗して10km走って下さい」という要望には、お応えしかねる、という返事になるはずだ。受け入れなくても当然だろう。これが危険物質などの場合でも、身体や健康に「影響のない量」だから「安全である」とはならないのだ。

学生の時、放射線の安全な許容量は、科学的ではなく社会的に決められた値だ、と知った時の驚きはまだ覚えている。そして、通常の人よりも原子力関係の仕事に従事する人の許容量がずっと高いのも、奇異に感じた。だが、安全とはリスクと便益を天秤にかけて決められるものなのだ。便益や価値が、科学ではなく社会や各人の主観で決まるものである以上、それは当然のことだ。たばこは健康によくないが、吸う人は気分的な便益があるから吸っている。一方、益もないのに副流煙を吸わされる傍の人にとっては、迷惑以外の何者でもない。

困ったことにわたし達の社会は、巨大で複雑な文明社会である。ある所に便益をもたらすはずの文明の道具が、離れた別のところでは危険の原因になったりする。便益も危険も同じ当事者・組織ならば話は分かりやすい。しかし、それが離れていると、その間で話し合って決めるしか無くなる。その話し合いは、厄介で時間のかかる代物である。そこで、何か社会的な目安になる線引きや拠り所を求めたくなる。だが、危険度の基準はしょせん目安であることを忘れるべきではない。「絶対安全」を求める人々も、「基準以下だから文句を言うな」という人々も、ともに価値判断を回避している点では同じである。安全と危険との線引きに正解は無い。最終的な判断は、自分でするしかないのだ。
by Tomoichi_Sato | 2011-04-21 22:56 | リスク・マネジメント | Comments(0)
<< 今はまだ鎮魂の歌をうたえ 『正解のない問題』を考える能力 >>