試験は誰の責任か - 人材のサプライチェーンマネジメント再考

もう何年も前のことだが、東京大学教養学部の男子学生が、同じ学年の女子を包丁で何度も刺して重傷を負わせ、殺人未遂で逮捕されるという事件があった。理由は恋愛感情のもつれによる逆恨みだったらしい。若者にありがちと言えば言えるが、まことに幼稚かつ愚かな犯罪である。

「その学生はすぐに退学処分にすべきだ」とわたしは思った。人間には、やっていいこととやってはいけないことの区別がある。お勉強の上手下手より以前に、まずその事を理解しておく必要があるのだ。たぶん東大生の多くは、入試をパスすることに、それまでの青春のほとんどを賭けてきたであろう。だとすれば『退学処分』は最も戦慄すべき事態にちがいない。人を刺したら「自分の人生を失う」という、ショックに近い感情によって、その教訓は全学生の心に残るだろう。「人を刺したら犯罪」くらいのことは、東大生でなくたって誰でも知っている。だが、頭で“知っている”だけでは足りないのだ。感情を込めた体験があって初めて、教訓が“分かる”のである。

ところが当時、ニュースや新聞を見ていても、この事件の後で東京大学は当学生に対する処分を何ら発表しなかった。一罰百戒のせっかくの機会を、この大学は逃してしまった。もしかしたら、「裁判で有罪が確定するまでは処分保留」という判断でもあったのかもしれぬ。しかし学生運動のデモかなんかで逮捕されたのならともかく、この刑事事件では犯意は明らかであった(結局、この学生は有罪判決を受けている)。それでももし万が一、その学生が無罪になったら復学してやれば良いだけである。『復学』というフレキシブルな制度はそのためにあるのだ。

世の中には東大に合格するよりも、もっと大事なことがある。これは落ち着いて考えてみれば当たり前だが、その「当たり前」の条理の灯を、目先の損得や感情のつむじ風で吹き消そうとするのが世間である。東大があの時もっと倫理において毅然と対応していたら、世間のモラルも一瞬はしゃんとしたかもしれぬ。

教育のシステムとは社会における人材のサプライチェーンである。ところが、このサプライチェーンがあちこちで歪みを生じ、きしんでいる。京大の入試でカンニング事件があったと言って世間はむやみに騒いでいるが、「たかが入試じゃないか」という感想はあまり聞かれぬようだ。試験というのは、教育ではない。入荷検査が『製造』ではないように。心配するなら、教育の方を心配すべきだ。日本の教育システムをサプライチェーン・マネジメントの観点から見ると、すべての工程(教育段階)に共通する、おかしな矛盾がある事に気がつく。それは、製造工程と検査工程の逆転である。

ふつうの工場だったら、製造した製品は、自分が検査する。検査のポイント(品質項目)は自分で決める。検査ではねられたら、修正に戻すかおシャカにして、出荷しない。出ていくものの品質については、自分のブランドの名前にかけて保つ。これが製造業における普通の感覚であろう。なお、部品材料を入荷したら、その時点で検査を行う場合もある。その場合も通常は員数と外観チェックか、せいぜい寸法確認程度で、鋳物にスが入っていないかいちいちX線で検査したりはしない。入荷品の品質に問題が多い場合は、自ら仕入れ先に出向いて品質指導をする。

サプライヤーの側で出荷検査をして、それを受け入れる側でまた入荷検査をする、というのは、明らかに二重の手間である(よほど輸送工程にリスクがあれば別だが)。では、どちらか一方を省くとしたら、どちら側を省くべきだろうか? 答えは明らかだろう。入荷側である。検査データというのは製造工程の質を向上するために使われなかったら、意味がないからだ。検査と製造工程は一つの思想の元にマネジメントされなければいけない。製造者は検査と出荷品の品質にオーナーシップを持つ。だから先進的な企業では「検品レス」といって、入荷検品を全く省くケースも出てきている。サプライヤーをそれだけ信頼し、また信頼できるようにマネージしているのである。

こう考えてみると、日本の教育システムのおかしな点がわかるだろう。この人材のサプライチェーンでは、自分が製造したものを自分がきちんと検査していないのである。“そんなことはない、各学期に期末試験をしているじゃないか”と先生方はおっしゃるだろうか? じゃあ、東大でも京大でもいい、目立つ「一流校」に合格した生徒を、自分の権限と責任で落第させる勇気がおありだろうか。父母の猛然たる抗議にもゆるがず対応できる、明確な教育スタンスを持つ高校など、おそらく殆どありはすまい。

だが、これは高校の先生方のせいではない。サプライチェーンの下流に位置する購入側、すなわち大学がいけないのだ。大学が出荷検査に信を置かず、自分でいちいち詳細に検査すると言っている。じゃあ、その大学の製造工程はどうなっているのか。わたしは大学3年生を相手に後期授業を行っているから知っているが、大学3年後期というのは就活のおかげで、学生はたいてい気もそぞろである。授業になんか集中できる訳はない。そして、その理由は、企業が製造も終わっていない人材を、はやくも入荷検査のふるいにかけようとするからである。

おわかりだろうか。このサプライチェーンでは、検査工程と製造工程の間にあるべきポジティブな改善のフィードバックループが失われているのである。製造者が検査の所有権を失っているからだ。そして、この事態をなんとかしたいなら、まずチェーンの最下流から直していかなければいけない。その責任は企業の側にある。企業が、「卒論を書いてちゃんと大学を卒業した者だけを採用の対象にする」と宣言すれば済むだけだ。就活は、卒業式の前後に始める。そうすると就業開始は夏頃になるかもしれないが、それでひどく不都合な会社などないはずである。大学は落ち着いて教育に専念できる。そして入試も、高校に信を置いて推薦入学が中心になる(現に、今ではAO入学が全体の50%を超えている)。そのかわり高校の側も自分の検査と製造に責任を持つようになり・・

むろん、この仕組みが働くようになるためには、一つの条件がある。それは、検査ではねられた学生も、妙な烙印を押されずに再履修したり大学をやめて働いたりする道が確保されるということだ。いわばサプライチェーンのフレキシビリティー(セーフティーネット)があって初めて機能するのだ。そしてこの場合も最終責任は企業の側にある。企業は大学未了の、つまり「高卒」の人間を消耗品としてではなく評価し、使う道を用意しているだろうか? わたし達は有用な人材を海に捨てていないだろうか。

春は希望の季節である。あらゆる生命が再び芽吹く時期だ。わたし達は検査と選別ではなく、「育てる」ことにもう少し熱意を込めるべきだと信じている。


(関連エントリ) 「人材のサプライチェーンを正すには
by Tomoichi_Sato | 2011-03-05 09:14 | 考えるヒント | Comments(1)
Commented by Goh at 2011-03-06 23:57 x
バランスを欠いているのは同意するが、人材におけるバリューチェーン、というかパイプラインにおける「検品レス」とはまさに「学歴社会」というやつでは?
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