ビジネスにおける「政治力」とは何か

わたしの好きな米国のマンガに "Dilbert"がある。アメリカのハイテク企業を舞台に、その馬鹿々々しい内幕を皮肉ったマンガで、読んでいると米国ビジネス界での思潮や流行が、コマの向こうから透けて見えてくる。あの国の新聞連載は日本と違って3コマなのだが、日曜日は2段8コマ分くらいの"長編"になるのがふつうだ。日曜版の新聞はマンガの増ページで、マンガのコーナーができるからだ。

先日の日曜のDilbertは、こんな話だった。例の、"無能を絵に描いたような"部長が、部下を前にこう切り出す。
「明日、CEOと大事な予算会議がある。でも予算獲得競争は容易じゃない。他の部ときたらみんなプロの詐欺師連中だからな。」
そこで主人公のDilbertが聞く。--そりゃちょっと言い過ぎでは?
だが部長は切り返す。「じゃあ、お前さんはマーケティング部のことをいつもどう呼んでる?」
--オーケー、まあ、そこはゆずりましょう。とDilbert。
「なら営業部は? 広報部は?」 --うーん、しかし、まあ・・
「財務部は? 法務は?」 --うわ。そこは忘れてました。
「次は自分で挙げてみろ。」 --えーと、人事部は・・いや。ぼくの負けでした。

『プロの詐欺師』の原文はProfessional liarsだ。英語では "liar"は日本語の「嘘つき」より、はるかに厳しい非難の意味を持つ。米英に限らずキリスト教文化圏では、事実と異なることを人に告げる行為は「偽証」であって、道徳的にはなはだ蔑まれる行いと考えられている。"嘘も方便"という日本語の感覚で「ユー・アー・ライアー」などと口に出そうものなら、相手は血相変えて怒るはずだ(日系三世の片岡義男は、子どもの時うっかりこれを言って、黒人の米兵から力いっぱい張り飛ばされた、と書いている)。

Dilbertに話を戻すと、このマンガは米国企業の技術者が、他の部門に対してどういう感覚を持っているかをあらわしている。なお、上で挙げられた他部門が、営業を除けばほとんど本社部門で、かつ「事務屋」の領域(日本の感覚で言えば)であることに注意して欲しい。ここにはロジスティクスも製造も生産技術も、登場しない。主人公Dilbertだって、これら実務ライン部門を詐欺師とは非難しないだろうと思う。もっとも、今日の米国企業のことだから、すでに製造も物流も子会社化されたか、第三者にアウトソースされてしまっている可能性は大である。こうなると"正直者の"エンジニアの牙城は、技術部門(設計・開発部)しか残っていないのかもしれぬ。

正直一本槍だけではビジネスがなかなかうまく立ち回れないのは、洋の東西を問わぬ事実であろう。誇大なる広告も、甘美なセールストークも、見かけ倒しのリース制度も詭弁すれすれの許諾契約も、他社との生存競争に生き残るためには必要とされている。これら販売・広報・融資・契約はすべて「言葉」の運用によって進められる仕事である。いわば「言葉」の技術・技法であり、そこでの論争や競争も言葉で行われる。

ところがあいにく技術は「数字」で語る世界だ。1秒は2秒より短く、1 tonは100 gよりも重たい。わたしがエンジニアリング会社に入って最初にたたき込まれたのは、"技術屋ならば数字で語れ"ということだった。「この装置はけっこう大きい」などと言わず、「この装置の処理能力は3万ton以上です」と言う。「今かなり忙しくて」ではなく、「来週中に8基の熱交換機のDatasheetを作成する必要があって」と言う、といった具合だ。数字の世界では、白か黒かは明瞭だ、という訳である。

もっとも、技術の世界だって実際にはグレーゾーンがかなりある。それは経験を積むごとに分かってきたのだけれど、最初からグレーの頭でスタートするのと、白黒がある領域があると知ってスタートするのでは、ずいぶん違う。ちなみにわたしを指導してくれた先輩は文系の出身だったが(→「わたしが新入社員の時に学んだこと」参照)、理非ではなく声の大きさや政治力で勝つ、というような仕事のやり方を好んでいなかった。

「政治力」とはいったい何だろうか? リーダーにとって、「政治力」は必須の能力なのだろうか。では、マネジメント教育の中には、「政治力講座」が必修科目としてあげられるべきなのだろうか?

マネジメントには「人を動かす力」が求められる。そして人を動かす力は、「強制力」と「影響力」に分けることができる。前者は、人を(その意志に反してでも)無理矢理動かすことのできる力である。後者は、他人が自らの意志で動いて、ついて行きたくなるような力である。

強制力のためには、アメないしムチ(あるいはその両方)が必要だ。普通アメのためには金銭、地位、名誉などの賦与が用いられ、ムチには罰金、降格、叱責など、その逆が行われる。さらに、法的な力(警察力等)も強制の根拠となる。わたしたちが組織の職制の中で、上司→部下に対して及ぼされる力は、基本的に強制力(「業務命令」)である。命令に従えばアメが与えられ、反すればムチ打たれるわけだ。このような力を普通、「権力」と呼ぶ。

組織の中では、ステータス(地位、順位)に応じて権力が配分される構造になっている。それは同時に、「責任」の配分順位でもある。「責任」と対応させる場合、経営学では権力と言わずに「権限」と呼ぶ。権限とはその人において意志決定の許される範囲、すなわち(私の好きな用語で言えば)『自由度』を表すわけだが、これは組織では強制力によって裏書き保証されている訳である。ただし、余りに恣意的な意志決定権限が乱用されると困るので、ある程度権力の自由度を狭めておくために、規則やルールというものが定められる。これでようやく「近代的組織」のできあがりだ。

もちろん、ある種の組織では、強制力ではなく影響力が主に行使される場合がある。ボランタリー(自発的)な組織、たとえばボランティア団体とか学会などがそうである。ここでは、違法行為でもない限りほとんど強制力が存在しないため、影響力と、構成員の「合意の力」だけで運営されていく。よく、企業を定年退職した男の人がボランティア団体に参加したはいいが、周囲から煙たがられたりする光景があるが、あれは強制力に永年慣れすぎた企業人が影響力の磁場で方向感覚を見失ってしまうためだと思われる。ともあれ、影響力の非常に強い人にあるのは権力ではなく、「権威」である。

ところで、企業や官庁などの権力型組織に話を戻すと、組織の構成員は、順位や権力を得るために競争をするよう、動機づけられる。だが、その結果、なんらかの共通目的達成のためにあったはずの組織が、いつの間にか「権力維持の場としての組織」に変質していく可能性があるのである。企業の共通目的は第一に利益を上げることだが、利益という経済合理性を差し置いても、権力獲得のために種々の行為がなされていく素地ができあがる。

わたし達がビジネスの場において「政治力」という用語で形容したくなるのは、このような状況が生じたときである。たとえば、あるサプライヤーだけが上司との緊密な関係によっていつも選ばれたり、有利な仕事がいつもある種の人脈の上に与えられたり、ある人物が実力にもかかわらずポジションで冷遇されたりする時、わたし達はそれを「政治的」な決定と呼ぶ。すなわち、ビジネスにおいて「政治的」であることとは、“権力ないし地位獲得のために目的合理性を逸脱した行為に走ること”を意味するのである。営利企業の場合、それは経済合理性を逸脱した行為と言うことになる。

このような行為を、なぜ「政治的」と名付けたくなるかは、若干不思議ともいえる。だが、はっきりしていることは、ビジネスにおける「政治的」なるものは、国政だとか地方政治とかには関係がない、という事情である。ある企業が、経団連の割り当てによってどこかの政党に寄付金を出すとか、労組のメンバーが特定政党の支持する候補者の応援活動をするとかいった行為と、先に述べた経済合理性を逸脱した行為とは全く別種類の話だ。

「政治的」なるものは、「政治」そのものではない。ちょうど「女性的」なものが必ずしも「女性」そのものではないように。かりにモーツァルトの旋律が優美で女性的だったとしても、それは「モーツァルトの音楽が女性だった」ことを意味しない。ただ、権力争いのために組織の目的合理性を逸脱する行為は、きっと政治の周辺で最も良く観察されるのだろう。だからこうした行為を、半ば軽蔑を込めて「政治的」と呼ぶのだ。そして、このような政治的文脈の中で、ギヴ・アンド・テイクや力のレバレッジや言葉での毀誉褒貶やあれやこれやを上手にやってのけ、地位と権力で人を操る術を「政治力」というのである。

ここでの書きぶりでもお分かりの通り、わたし自身はビジネスにおける『政治的』なるものはあまり好きではない。わたしは別に、企業内のあらゆる行動がすべて合理的であるはずだとか、合理的であるべきだ、などと単純に信じている訳ではない。だが、「政治的」なるものが跋扈しすぎる組織は、長くは成長できないと考えている。どこかに成長の限度があるはずなのだ。

どんな組織も拡大すると効率性のために分業と権力の序列を生み出すが、それが故に合理性を逸脱する危険性をも孕む。これは組織というものの持つ根本的矛盾なのだ。この矛盾を認識せぬまま、どんなに「合理的」な議論を振り回しても、それは空しいばかりだと思うのである。
by Tomoichi_Sato | 2011-02-28 19:37 | ビジネス | Comments(0)
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