書評:「禁断の市場」 ベノワ・マンデルブロ&リチャード・ハドソン著

禁断の市場 フラクタルでみるリスクとリターン
監訳:高安秀樹 訳:雨宮絵理 他

ずっと昔の学生時代から、なぜか冪乗分布に心を引かれていた。いわゆる、ランク-サイズ関係が負の冪乗になり、両対数グラフで直線に載る関係だ。英語の単語の使用頻度に関するジップの法則がその典型で、順位と頻度は-1乗、つまり反比例の関係になる。これは、通常の正規分布則などでは説明のつかない、ひどく片寄った現象であることを示している。一般的な統計学がよって立つ正規分布では、平均的な事象が多いはずだからだ。

そうした問題意識には、「無限・カオス・ゆらぎ―物理と数学のはざまから」(寺本英ほか)や「ゆらぎの世界―自然界の1/fゆらぎの不思議」(武者利光)など、一部の数理物理学や数理生態学の本で多少の折り合いをつけるしかなかった。そこに突如、燦然と登場したのが、マンデルブローの「フラクタル理論」であった。

フラクタル幾何学は数学の一分野として登場しながら、驚くほど応用範囲の広い考え方だった。「自己相似性」と「整数でない次元」の概念から導かれる諸法則は、またたく間に、CGから宇宙論まで、ありとあらゆる分野で--より正確に言えば「ランダム」さを扱わなければならない分野で--もてはやされることになった。マンデルブロ集合やコッホの雪片曲線などは、あっという間にTシャツのデザインに、またPCのスクリーンセイバーの図柄になった。

本書は、そのマンデルブローの一種の自叙伝、あるいはフラクタル理論誕生の伝記である。それがなぜ「禁断の市場」(原題:The [Mis]behavior of Market)なのかというと、じつは理論誕生のきっかけが純粋数学ではなく、金融市場の動力学的研究だったからである。

1998年の夏、ロシア経済危機の影響を受けてダウ平均は一日で6.8%下落する。これは、ビジネス・スクールで一般に教えられている金融工学の標準理論によれば、2000万分の一の確率(つまり10万年に1度の頻度)の事象であるはずだった。ついで2002年にはダウ平均が7.7%下落した日があった。その確率はなんと500億分の一だ。そして2008年のリーマン・ショックである。金融工学は、なぜこのようなリスクの予知に失敗したのだろうか?

マンデルブローは、ランダムさには「マイルド」「スロー」「ワイルド」の三つの状態がある、という。ちょうど物質に固体・液体・気体の三状態があるように。そして従来の金融工学は、市場を「マイルド」(つまり固体)としてモデル化してきた、と指摘する。本書の前半1/3程度は、バシェリエのランダムウォーク仮説、マーコヴィッツのCAPM理論、ブラック=ショールズ方程式などの標準理論と、その帰結(いかに現実に例外が多いか)をていねいに説明する。

第2部はいわば自分の理論の自叙伝である。マンデルブローは科学手法の道具箱の中に、新しい数学的ツールを導入することに生涯をかけてきた。それが「フラクタル」と「マルチフラクタル」である(フランス人が"マルチ"という時は、複合的というよりも"スーパー"的なというニュアンスが強い)。

彼はIBMの研究所にいた時に、過去100年にわたる綿花価格の変動について調べる。そして、それが次数1.7の冪乗分布であることを突き止める。さらにこれがレヴィの安定分布の一変種であり、指数1.7はアルファ値という特性パラメータを意味することを発見するのである。これは経済学にとって一種のセンセーションとなったが、標準理論の根底に反するため批判も根強かった。

彼はさらに、ナイル川の水量変動のデータも調べる。そして、非常に長期の自己相関(現在の変化が遠い過去の値に影響される、いわば現象が「長期記憶」を持っているかのような効果)があることを見つける。周知の通り、単純なランダムウォークをする変量は、時間の0.5乗に比例して変位が拡がっていく。これは化学工学や機械工学で拡散方程式を学んだ者には常識であろう。しかし、川の水量は違っていた。

変異の幅が時間の何乗に比例するかを調べ、その次数をHというパラメータで表すと、H=0.5が単純ブラウン運動で、H>0.5の場合は次第に長期記憶が効いてくる(つまり「ワイルド」になるのである)。マンデルブローはこれを「非整数ブラウン運動」と呼んで、株価などの変動についてもHの値を調べていくのである。そして、最終的にマルチフラクタルのアイデアに至る。彼の分布モデルは、αとHという2種類のパラメータで、さまざまな変動現象を表現できる道具となったのである。

では、彼の理論を使えば市場価格の予測はできるようになるのか? 残念ながら、答えはNOである。冪乗分布は不連続な乱高下がまれに起き、収束しないのである。しかし、ボラティリティ(変動性)だったら予測可能である。いつ地震が起きるかは、予測できない。ただ、地震の起こりやすさは、指数化できる。これが市場経済におけるフラクタル理論の現在である。

本書は科学ジャーナリストのハドソンが共著者として協力しているおかげもあり、読みやすく、物語としても面白い。訳も、(ときどき固有名詞に首をかしげたくなることがあるが)こなれていると言えるだろう。ただ、マンデルブローのファーストネームBenoitの発音は普通だったら「ブノワ」じゃないんだろうか。もうベノワで普及しちゃっているから、しかたがないのかもしれないが。
by Tomoichi_Sato | 2011-02-17 22:32 | 書評 | Comments(0)
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