クリスマス・メッセージ: 子どもの国から抜け出そう

Merry Christmas !

生まれて初めて乗った飛行機は、旧ソ連のアエロフロートだった。大学を卒業し社会人になる直前の3月、いわゆる卒業旅行に出かけたのである。ドイツにいた知り合い(父の部下)のNさんを頼って、モスクワ経由でフランクフルトを訪れたのだ。Nさんは忙しいさ中にもかかわらず、わたしをいろいろな場所に案内してくれた。

その中で最初に印象に残ったのは、じつは鉄道の駅だった。フランクフルトの中央駅だった思うが、遠くからの列車が発着するホームが多数並んでいる。驚いたのは、改札も何も通らずに、いきなりホームの列車まで行けることだった。そもそもヨーロッパのこの種の駅は、改札が無いのだった。「切符は?」とNさんにたずねたら、「もちろん買って乗るのさ」と窓口の並びを指さしてくれた。

しかし改札がないんじゃ、すぐ隣の駅までの切符を買って遠くまで乗るインチキもできるじゃないですか。それどころか、切符を買わずに無銭乗車だって可能ですよ? −−そんな疑問を口にした若いわたしに、Nさんは、その後ずっと忘れられぬ言葉で答えてくれた。「みんな、ちゃんと切符を買うんですよ。ここは、大人の社会なんだから。」

大人の社会。だとすると、自分が生まれ育った国は、大人の社会じゃなかったんだろうか。ならば、子供の国だとでも言うのか。あまり欧米崇拝趣味のないわたしには、なんだか癪にさわった。だが、そもそも『大人』って何だろう? そういう疑問は日本に戻っても頭の中で渦巻いた。

ちなみに、欧州の列車だって、車内での検札はある。検札で正規の切符を持っていない事が分かると、かなり高額の罰金を科せられる。また、地下鉄や郊外電車などは自動改札システムを持つ路線も多い。そういう点で、不正を防ぐ仕組みはちゃんとある。ただ、メインの部分が、利用者への『信用』の上に成り立っているのだった。

大人って何だろう? どうすれば大人になれるのだろう。その問題はずっとわたしの頭を悩ませた。自分は大人といえるだろうか? 他人から、いや自分自身からも信用しうるだろうか。年齢だけは重ねても、仕事や私生活で、自分の未熟さ幼稚さのため幾度も苦い思いをし、大人であると言い切るだけの自信は、なかなか生まれなかった。そんなある時、大ベテランのプロジェクト・マネージャーと話していたら、

子どもは、自分のしたいことをする。大人は、自分のすべきことをする。

という定義を教えてくれた。この言葉はなぜか、すとんと腑に落ちた。たしかに、自分の願望や欲にばかり動かされる者は、子どもと言えるかもしれない。

睡眠や食欲といった生理的次元からはじまって、娯楽の次元、そして競争に勝ちたい、出世したい、お金持ちになりたい、といった社会的次元まで、欲求の姿は多種多様だ。だが、そうした願望に突き動かされて騒々しく行動する人々を見ると、なんだか自身の欲の奴隷と化しているようにも感じられる。大人というのは、だとすると、自分の欲求を時に応じて抑えたりセーブしたりできる人かもしれないと思った。

でも、「すべきこと」って何だ? 仕事や家庭や社会の最低限の義務だけでは、大人であるには足りないようだ。普通の人はたいてい、それを果たしているし。「したいこと」は自分の中にいくらでもあるが、「すべきこと」は自分の中だけをいくらほじくっても、必ずしも見つからないのである。なぜなら、それは、他者の期待の中にあるからだ。

わたし達は、お互いに対して、何を期待するのか。「プロジェクトのマネジメントとは、すなわち期待のマネジメントだ。チーム員の、ステークホルダーの、そして自分自身の期待を、どう形にして、どう方向付けるか。それが仕事の成否を決める」と、くだんの大ベテランは物静かに教えてくれた。期待のベクトルを合わせると、おのずから「すべきこと」が見えてくる。方向がばらばらだと、組織のエントロピーばかり高くなって、すべきことが見えなくなるらしい。

わたし達の社会は、1990年頃を境に、見えない大きな変化を迎えた。そのことがこの国を、バブルの有頂天から失望の20年間に突き落としてしまった。その変化とは、第一に人口と学歴と組織階層のピラミッドの相似形が崩れたこと、第二に経済の力関係が供給側から需要側へとシフトしたことである、とわたしは考えている。しかし、それだけではない。もっと重要なこと、わたし達の心性のレベルで大きな変化があったはずである。それでなければ、社会がこれほどまでに回復力の弾性を失うだろうか。では、その変化とは何か。最近、サイトの読者の方から「静寂の価値」というエントリに関連して、なぜ社会がかくもにぎやかで騒がしいのかとの質問を受けて、ようやく気づいた点がある。

高度成長期以降、わたし達の社会は大量生産・大量消費で成り立ってきた。そこでは、人は次々と欲望を持って消費してもらわねばならない。そのために広告や宣伝といった手段で、あらゆる媒体を使って、人々を刺激し続けている。20世紀後半にTVや映画やネットが発達し、普及した背景にも、広告宣伝が大きな役割を果たしてきた。これが興奮性の情報を湯水のごとく人々に浴びせ続け、「にぎわい」を演出し続ける、主導因だと思われる。

言いかえるなら人々を、欲望に動かされてだだをこね、何でも人と一緒になりたい「子ども」状態にとどめるために、現代は努力を払っている訳である。発達した工業化社会はどこも必然的に、「子どもの国」に向かうドライブがかかっている。そして、日本は、それがとても成功したのである。欧州社会だって事情は似ているはずだが、あいにくあそこは「大人」であることが大事とされる(少なくとも「大人」であることが無理にでも求められる)場所である。時に不便で、時に嫌みで、しばしば息苦しい社会ではあるが、それが彼らの特質を少しは守っているのだろう。

わたしの知っている優秀なマネージャーは、たいてい物静かである。あまり騒々しい人には、プロマネはつとまらないようだ。大人の特性の一つは、落ち着きがあることだからだ。よくできた仕組みは静かにスムーズに動く。創造性は、にぎわいだけでなく、孤独で集中できる時間を必要する。こうしたことを認めて、また耐えられる人を「大人」と呼ぶのだと思う。

年の瀬のひととき、家族や親しい人と一緒に、争いや喧噪をはなれて静かに過ごすべき、平和の季節がまたやってきた。いつでも騒ぐのは、子どもである。大人は静かだ。私たちの社会は、大人であろうと意思する人が足りないのだろう。少子化問題ではなく、「大人不足問題」こそ、真の問題なのかもしれない。
by Tomoichi_Sato | 2010-12-23 22:58 | 考えるヒント | Comments(2)
Commented by 久馬栄道 at 2011-02-07 23:31 x
確かに、ヨーロッパの駅には、近くを結ぶ通勤用の駅を除いては、たいてい改札がありません。
しかしキセルがないかというと、ヨーロッパ人がキセルで捕まっているのもけっこう見たし、日本人留学生からキセルで捕まった経験談を聞かされたコトもあります。
(たとえばロンドンからケンブリッジに行く列車で、ケンブリッジのイギリス人学生がキセルで捕まって、ゼミの先生の名前を聞かれて答えて「あんな名門のゼミなのに」などと、駅員に説教されているのも見ました。)
ちなみに列車に乗ると、かならず車掌が切符を確認しにきますが、それはキセル防止だけでなく、列車の指定席のシステムが難しい(日本のように車両ごとではなく、席ごとに、駅区間ごとに指定席の予約が決まっていて、それは席に紙が挟んであって、それでわかる)ので、それの確認の意味もあります。
(予約が入っていない区間なら、紙が挟んであっても座ってよい。)
そんなわけで、西洋が大人世界だから駅に改札がない(逆に日本が子供世界だから改札が有る)と言うような、かつてマークス寿子さんとかが展開した自虐日本論は、もうそろそろやめにした方が良いと思います。
Commented by Tomoichi_Sato at 2011-02-11 10:47
コメントありがとうございます。
久馬さんは、「大人であること」の条件は何だと考えられますか?
わたしがおぼろげに覚えている25年前の日本と、現在とを比べると、たとえば消費者や親や患者のクレームの仕方であれ、車の運転マナーであれ、匿名の庶民の発言(今はネットにたくさん漂っていますが)であれ、なんだか「大人らしさ」がずいぶん下がったように感じられます。で、産業社会が「子ども化」を求めたのが大きな理由の一つではないか、というのがわたしの考えです。

マークス寿子さんという方の言説はよく存じないのですが、単に、どこぞの国はすばらしい、あの国をまねしよう、と主張しているのではないことを、ご了解いただければ幸いです。
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