書評:「ブレーキング・ボックス」 アンドリュー・サター著

Amazon.com: ブレーキング・ボックス - 常識に囚われない考え方

良書である。本書は「日経ビジネスAssocie」誌の連載をまとめたものらしい。たしかAssocie誌は若手ビジネスマン向けの雑誌のはずだが(わたしも一度依頼されて書いたことがある)、本書は社会人になって数年程度の人たちに読ませるのはもったいない。むしろ、ビジネススクールのMBA副読本にした方がいいくらいのレベルだと思う。

著者は1955年ニューヨーク生まれのユダヤ系米国人。ハーバードで物理学を卒業した後、カリフォルニア大のロースクールを出た国際弁護士である。日本では文系出の弁護士でも特許法に関わる仕事を手がけることができる。しかし米国では、ロースクールに入る前に理科系の四年制大学を卒業した上、特殊な試験に合格した「特許弁護士」でなければ、特許を申請することができないことを、本書で初めて知った。これでは日米の会社が特許をめぐって法廷でまともに戦っても、日本に勝ち目が薄いのは無理もない。

ともあれ、この著者は文系・理系の『複眼思考』を持っている点が、何より心地よい。こけおどしの言葉や概念にもだまされず、実証的であり、かつ法務も商務も熟知している。たとえば本書は、ビジネスにおける「メタファー」の話からはじまる。販売のストラテジー(戦略)やタクティクス(戦術)やウィン(勝利)といった言葉を使う場合、それはビジネスの概念を戦争になぞらえてメタファーを用いているわけである。無論、メタファーの適用範囲には限界がある(べつに販売の前線で人を殺すわけではないし)。だが、'99年頃のシリコンバレーでは、"Land-grab"(先に到着した西部開拓者が土地の占有権を得ること)などのメタファーが暴れ回ったあげく、結局ドットコム・バブルで多くの企業家を破産させてしまう。

あるいはバリューValueという言葉の氾濫について。マッキンゼー・コンサルティングの有名な企業価値判断のテキストを読んだ著者は、「バリュー・マネジャー」や「バリュー創造手法」といった表現のオンパレードに驚くが、よく読むと、バリューとは株価を、バリュー創造とは株価上昇を指していることに気づく。この株主価値(Shareholder Value)理念の旗振り人は、GE社のCEOだったジャック・ウェルチだった。ウェルチは20年間の間にGEのバリュー(株価)を30倍にしたといわれるが、利益額は5倍になったに過ぎない。ではなぜ「バリュー」の方はそんなに跳ね上がったのか?

じつはウェルチはR&D支出を大幅にカットし、11万人もの従業員を解雇した。そして従業員にサラリーを払うかわりに、約3兆円もの資金を使って、GE株の買い戻しを行ったのである。おかげで会社は「効率性」を増し、一株あたりの利益も増えた訳である。そればかりか、彼ら幹部役員のストック・オプションの「バリュー」も増大したのである。

M&A(企業買収)についても、専門家らしい複眼思考に満ちている。かつてソニーは米コロンビア・ピクチャーズを買収したものの、巨大な損失を出して体力をかなり落とした。この失敗事例のどこがまずかったか、著者はくわしく解説を加えて、異文化のM&Aがいかに危険な博打であるかを示す。ちなみにCisco社は戦略的M&A実行能力において、最高峰のレベルを持っていることが米国では知られており、本書でも、相手を文化的に統合するため専門チームを事前に派遣するやり方などを紹介している。しかし、日本で近年発行されているM&Aに関する本にはこうした成功手法はほとんど紹介されておらず、かわりに「サメよけ」だの「毒薬」だの'80年代に米国で流行した敵対的買収用語が乱発されている。日本の若いビジネスマン達が、M&A取引を「カッコいい」と感じているらしいのを知って、著者はショックを受けるのである。

著者は、数多くのM&A辞令から学べることの一つは「コストを削減したかったら、中央集権を進めよ、収益を拡大したかったら、地方分権にせよ」だといっている。これは非常に面白い指摘であるが、わたしの見聞きした事例ともよく合致する。欧米流を真似て、すべてを本社の司令室から取り仕切る経営を目指す企業が、日本でも増えているようだが、このようなやり方は一時的にはコストセーブにつながっても、長期的な収益にはつながりにくいと思う。

本書「ブレーキング・ボックス」は、経営とマネジメントに関心のある全ての人に勧められる良書である。中でも一番読んで欲しいのは、大企業の経営企画室にいて、買収や分社化や知財などの「戦略プランニング」にかかわっている人達であろう。こうした人達が、世に蔓延している固定観念や単純化された価値観に惑わされずに、自分の頭で考えてくれる事を著者は望んでいるはずである。
by Tomoichi_Sato | 2010-11-28 19:30 | 書評 | Comments(1)
Commented by San Jose CA at 2011-05-26 16:42 x
すばらしい書評です。大変参考になります。
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