戦略シンドロームと改善病

もう何年も前になるが、「生産革新フォーラム」で診断士仲間と長野まで工場見学に行ったことがある。自動車関係の電装部品を作っている会社だった。そこではトヨタ系の指導を受けてジャスト・イン・タイム生産を心がけ、さまざまのカイゼンと工夫を製造現場でしていた。U字型レイアウトのセル生産ラインでは、女性工員が混流・一個流しの部品をてきぱきさばいていて、手際の良さに驚かされるとともに、歩幅や部品を取る手の位置まで最適化した機械配置に感心した。

その会社では、納入先からの指図はカンバンで受け取り、そして部品購入先への指示もまたカンバンで行う。工場ではカンバンを受け取ったら、それを指示棚に「差立て」する。棚は時間帯別になっていて、職長が順番にそれを実行していく。このとき、あえて同種の部品のカンバンは時間帯をばらして置いていく。4枚あったら、9時・11時・14時・16時、という風に置くのである。トヨタ生産方式の基本である『平準化』のためだ。各現場もシングル段取りを徹底しており、異なる種類の部品が来てもすぐに対応できるようになっている。「ウチの会社には、スケジューリングをして“自分は仕事をしました”などと勘違いする人間はいません!」と、現場の責任者は胸を張った。スケジューリングなどという間接作業を無用にすること。それが目標とする姿なのだ。

感心する気持ちで帰路についたが、帰る列車の中で診断士仲間と議論になった。実は、その会社は2年続けて赤字だったのだ。それを私は調べずに、知らぬままうっかり見学に来てしまった。工場を見学する前に、その企業の業態・概要を知り、財務諸表をあらかじめ調べるのは、中小企業診断士としてある意味、基本である。それを怠っていたわけだ。仲間の議論は当然ながら、「なぜこの会社は赤字なのか」であった。資産を売却し、希望退職まで募って、それでも損益計算書は好転していなかった。

発注元からの単価切り下げがきつすぎるのか、製品開発に遅れたのか、間接部門が多すぎるのか、はたまた本業以外で失敗したのか--議論は尽きなかった。いずれにせよ、経営上の戦略に問題があったこと間違いない。「現場改善だけでは、戦略の間違いを修正できない」、そんな意見の声が強かった。こうした事情は、現場の壁に掛かった種々の改善スローガンだけ見ていても、分からないのだった。

その時わたしはふと、自分がずっと以前、東京駅で見た光景を思い出していた。'90年代の前半だったろうか、まだバブル経済の余熱が世の中に少しは漂っていた時代だ。東京駅丸の内出口の近くに、小さな書店があった。まだ駆け出しだったわたしは、その書店に立ち寄ろうとして、入口近くで老人とビジネスマンが会話しているのを耳にした。人の良さそうな老人は、田舎から出てきた風情だった。一方、相手は30代半ば過ぎだろうか、小太りだが紺色のスーツを着て、いかにも丸の内のビジネスマンらしかった。

その老人は、書店でなにか通好みの時代小説のような本を探したかったらしい。だが、あいにく見つからなかった。そんな本がありそうな書店ではないのは、わたしにも分かった。そのビジネスマンは老人に向かって、「そんな本はこの本屋にはありませんよ。」と言っていたのだ。さらに彼は、奇妙に甲高い声で、追加説明した。「もし私がこの書店の経営者なら、そんな戦略は立てませんよ。ここはビジネス街だから、企業人向けの本を集中して置く戦略を立てます。そして、とくに・・・」説明を受けていた老人は、すまなそうに、でもありがた迷惑な顔つきで、そのご高説を拝聴している風だった。

バブル時代の東京のビジネスマンやOLは、滑稽だった。わたしも似たようなものだったから、良く覚えている。ただ、見知らぬ老人に向かって、本屋の店頭で声高に『戦略』を語る姿は、あまりに奇妙だったので印象に強く残った。たかだか本屋の仕入れについて、なぜこの人は、戦略論のイロハみたいな事を叫んでいるのだろうか。会社で自分の優秀さをアピールし損なったのだろうか。あるいは今朝出がけに奥さんと喧嘩でもしたのだろうか。わたしはその『戦略』という言葉にまつわる滑稽さを、つくづく感じた。

というのも、その少し前、わたしは新規事業の展開に関するメモを書いて上司に提出したところだったからだ。その上司は、新入社員のわたしに仕事を教えてくれた厳しい人だった(「わたしが新入社員の時に学んだこと」参照)。わたしの企画書を見て、上司は「“戦略”なんて言葉は大げさだから、全部取れ。かわりに、必要な箇所だけ、事業展開の“シナリオ”と書け」と言われたのだった。(素人ほど戦略を語りたがり、プランに酔う)と、その目は語っていた。わたしは少し不満だった。しかし、本屋の店頭でのやりとりを聞いた後は、もう戦略という言葉を一切使わなくなった。たしかに、大げさなのだ。

バブル時代は、『戦略』という言葉もバブル現象を起こした時代だった。あちこちの会議室や喫茶店やバーで皆が戦略を語った。戦略の名の下に海外の不動産やら企業やらを買収しまくった時期だ。たかだか買い物の、どこが戦略なのか。金額が大きくなっただけで、なぜ戦略と言えるのか。それだったら主婦だって八百屋で大根購入の戦略があることになる。戦略と言うからには、買ったものを活かして使い切ることを言うべきではないのか。

そもそも戦略とは、戦争の用語である。戦争用語を平気でビジネスで使うようになったのは、古いことではあるまい。例によって米国で、'60年代にアンゾフが戦略論を語り始めたのを嚆矢とし、とくに'85年のポーターの「競争優位の戦略」で火がついた。だがポーターは差別化戦略等、その具体的内容については記したが、そもそも“戦略とは何か”については定義しなかった。実際問題、戦略の定義はかなりいろいろあって(たとえばWikipediaを見よ)、理解しようと思っても頭がくらくらしてくる。

にもかかわらず、わたしにも解ったことが一つだけある。それは、「すべての局面で同じように勝とうと努力するのは、戦略が無い状態である」ということだ。戦略がある人の行動は、必ず、一見損をするように見える部分がある。最初は損をするように見えて先々で得を取るとか、ある方向は捨てて別の得意とする方向だけに集中するとか、どこか深い考えを感じさせるのである。個別の勝敗で、一喜一憂したりしない。無論、結果が当たるかどうかは、その人の戦略実行力と、状況の偶然的な巡り合わせによる。損だけして得が取れないリスクもある。つまり、戦略というのは一種の賭けなのだ。

経営戦略というのは、企業におけるハイレベルな賭けであり、そこには勝機に関する仮説がある。その仮説を、組織構成員の皆が共有しているかどうかが鍵である。一貫性のある、まともな組織はそれができる。普通の組織では、それができない。部門単位で、あるいは個人個人で、ばらばらな仮説の元に行動してしまう。その結果、エントロピーばかりが大きくなって、方向性のある仕事ができない。

では改善とは何か? 御本家トヨタの人に聞いてみればわかるが、カイゼンというのは会社に「方針管理」というものがあって、初めて機能するのである。方針がないのに、カイゼンはない。なぜなら、どちらの方向に走ればいいのか判らない時には、進歩も改善も測りようがないからである。その「方針」とはつまり、ハイレベルな戦略に他ならない。そしてカイゼンは、方針実行における問題解決の手法なのである。

というわけで、話は主題に戻る。改善では戦略の間違いを修正できない。まして戦略の不在を補うこともできない。もちろん、改善なしには戦略の実行もおぼつくまい。

にもかかわらず、私たちの社会では、戦略と改善の両者は、統合されずにバラバラの状態にある。本社の企画マン達は戦略ばかりを論じ、現場の作業者達は改善ばかりを実施する。本社と現場の距離は開くばかりである。御本家トヨタでさえ、「作りすぎのムダ」は現場ポスターにいやというほど書いてあるのに、米国に無駄な工場を作りすぎて、リーマンショックで惨めな転落を味わった。戦略ばかりが肥大化しすぎていたらしい。

物事をマクロな視点とミクロな視点で両方見るのは、かくも難しい。だからといって、両者が離ればなれで良いはずはない。戦略ばかり語って実行できぬ「戦略シンドローム」、そして改善ばかり熱中してマクロを見ぬ「改善病」は、私たちの社会の業病だ。ミクロからマクロまで自在にスケールアップできる視座の能力、これこそが今、最も求められているものなのである。
by Tomoichi_Sato | 2010-10-24 23:10 | ビジネス | Comments(0)
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