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リスクとは(本当は)何を指すべきか

何年前だったか、梅雨になってもいっこうに雨が降らず、カラカラに晴れた日が続いたことがあった(このごろ毎年異常気象なのでいつのことだったか覚えきれぬ^^;)。陽光はまぶしく空が抜けるように青く、湿度も低くて、さながらカリフォルニアの気候のようだった。「空梅雨って、こんなに素晴らしい天気だったんですね。」と若い人たちは言った。たしかに、こんな6月だったら、英語で言うJune Brideという言葉の輝かしさも分かるような気がした。せっかくの結婚衣装が雨に濡れては、『晴れの日』ではなくなってしまう。

結婚式を待ち望む人にとっては、雨はありがたくないものだ。ところで同じ時、年寄り達は、毎日晴れていることを心配した。「梅雨に十分雨が降らないと、田んぼの稲が育たない」という。もう工業社会になって何十年もたつのに、いまだに生活の中心であるかのように稲作の心配をする。伝統的思考は、文化の中にかくも深く組み込まれている。

「雨」という事象が、ある人たちにとってはリスクであり、他の人たちにとっては「雨が降らない」ことがリスクになる。これは、リスクというものが、誰にも共通の客観的事象として存在するものではない事を示している。

医学・環境学系の議論では普通、リスクはマイナスの影響の可能性を意味する。工学系も、ほぼそれに準じた使い方だ。一方、金融学系では、リスクとは不確実性を意味し、結果はプラスにもマイナスにも(ほぼ均等なチャンスで)なり得ると考える。わたしは前者を「非対称型」リスク、後者を「対称型」リスク定義と名付けている。

では、ビジネスにおいてはどうか。生産管理・品質管理分野では通常、非対称型でリスクを捉える。品質欠陥とか在庫切れとか。一方プロジェクト・マネジメントの分野では、PMBOK Guideは対称型で用語を定義している。会計や法務・コンプライアンス部門では非対称型、財務部門は対称型だろうか。おかげで、「リスク」という言葉自体に理解のブレが生じて、ミス・コミュニケーションのリスクが生じるわけだ(←この文での『リスク』は、非対称型の使い方をしている点に注意)。

このブレを無くし、みなに共通なリスクの認識を定義する方法はないだろうか? それが、あるのだ。非常に単純なことだ。すなわち、リスクの反対概念を明示するのである。リスクの反対概念とは、リスクの無い、目指すべき「理想状態」のことである。

医学・環境学系においては、「安全/健康」が理想状態である。ここからの逸脱を、リスクと捉える。一方、金融工学では、(なぜかは知らないけれども)「確実」が理想であるらしい。だから、不確実な変動をリスクと認識する。問題は、こうした『理想状態』を、皆が無意識に前提して議論してきたことにある。だから、リスクを論じる際には、まず、「あるべき理想状態」を規定する。そして、そこからの逸脱の可能性を論じるべきなのである。

わたしの提案するリスクの定義とは、このようなものだ:
「目指すべき目標値ないし理想状態から逸脱する可能性があり、かつ、その影響をリアルタイムに回避・抑制できないような事象(群)を、リスクと呼ぶ」

この定義の特徴は、主体が目指すべき理想を持っていることを前提とする点だ。その理想が『確実性』であるか『安全性』であるかは問わない。それは主体の価値判断に任されるべきことである。この定義は、だから、医学・環境学系の用法も、金融工学の用法も、いずれも内包している。「理想」という言葉が気恥ずかしかったら、「実現できる最善」でも良い。目標とする最善の状態・値をまず示す。それからの逸脱の可能性を検討する。

今日、ビジネスの現場で理想などという言葉を口にすると、青臭いと非難されかねない(そのくせ、ERP導入プロジェクトなどでは、To-Beモデルなどと言うへんてこな英語を平気で使う)。半世紀前には人を導いた「自由豁達にして愉快なる理想工場の建設」という起業理念も、その後継者達は忘れたがっているかのようだ(関連記事)。なげかわしい事ではないか。今やむしろ、理想を語るのを避けたいがため、そのかわりに皆リスク・マネジメントを論じるのではないかとさえ感じられる。あるべき姿を考えることが、ビジネスを引っ張っていく第一歩だと思うのだが。

もちろん、理想や最善と言っても、それはぎりぎり実現可能なものでなければならない。100mを5秒で走れとか、いや0秒が理想だ、などと主張して、そこからの逸脱をリスク呼ばわりするのは愚かである。仕掛在庫ゼロ!とか、製造コストゼロ!という『理想』をかかげるのは、マネジメントの目標として現実性がないばかりか、間違ってもいる。

ちなみにわたしは、「コスト超過」や「納期遅れ」などを、誰にも共通の普遍的リスクとして前提することに反対である。万人に適用可能な共通の目標などは無い。品質のためには費用はいとわないプロジェクトや、技術的ブレークスルーを実現するため納期はあえて設定しないプロジェクトだって、考えられるからだ。コストや納期がプロジェクト目標でなければ、そこからの逸脱はリスクにはならない。多くのリスク論は、自分の無意識な前提から出発するため、この点を誤解している。

リスクが「可能性」であることも重要だが、「影響」の大小もポイントである。以前別のところにも書いたので繰り返しになるが、リスクの大きさは、

            可能性×影響度
リスクの大きさ = ---------
             対応能力

で数式的に現すことができる。主体の能力が問われるのである。このことによって、「××さんがプロマネだって!? それじゃ、プロマネ自身がプロジェクトの最大のリスクだな」といった表現の意味が理解できよう。分母の対応能力が小さければ、どんな些細なリスク因子も巨大な結果を引き起こすだろう。

むろん、対応能力というのは、リスク事象の影響をリアルタイムに回避・抑制できる能力を指す。「リアルタイム」の定義は長くなるから別に項をあらためて書くことにするが、瞬時に避けられるものはリスクではないのである。自動車を40km/hで運転しているとき、前方を車いすで横断しようとしている老人に気がついたとしても、これはリスクではない。車いすの移動よりも、車のハンドルやブレーキを使って避ける方が確実に早いからである。しかし、子供が飛び出してくるのは、リスクである。瞬時によけきれるかどうか微妙だからだ。また、相手が車いすの老人の場合でも、道が暗がりで街灯もない場合、やはり認知するまでに時間がかかるから、これもリスクとなるはずである。

ということで、このようにリスクを定義し直すことが、リスクに関わる誤解をふせぐ一番の方法だとわたしは考えている。もちろん、わたしがこんなホームページの片隅で何を定義しようが、それが明日から世の中にすぐに広まるものでないことは承知している。では、なぜ今さら「定義」するのか。それは、少なくとも、わたしのこのサイト内では、整合性の取れた議論をしていきたいからである。そして、リスク・マネジメントに関心のある読者諸賢も、上記の「目指すべき目標値・理想状態」を今一度思い起こして、ご自分の仕事のリスクを再点検されることをおすすめする次第である。
by Tomoichi_Sato | 2010-10-10 12:41 | リスク・マネジメント | Comments(0)
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