マネジメントにはテクノロジーがある

拙著「時間管理術」(日経文庫)にも書いたことだが、私は毎朝、会社の席に着くと、会議等の予定とTo Doリストを確認し、一日の時間の使い方を決めることにしている。ほんの5分程度の作業である。そして、一日の仕事の終わりには、朝決めたその日の予定作業表に実績時間を記入し、日誌に転記して(必要ならば)ごく手短なメモをつける。ほんの10分足らずのことであるが、これを日課にしている。

計画や、記録分析は、Plan-Do-Seeの一環である。これらがあってはじめて仕事のマネジメント・サイクルが完結する。すなわち、朝の段取りも夕方の日誌も、小さくても自分自身の仕事のマネジメント業務だと言える。

ところで、あるとき仕事上の大先輩と、議論になったことがある。その大先輩も一日の作業予定表を朝作る習慣なのだが、それは会社に来る前に(家で)作成しているし、皆もそうすべきだという。私のように会社に来てから定時の中でやるのは、間違っている。なぜならそうした作業は、仕事を始める前に済ませておくべき事だから、という訳だ。

私はその先輩の主張にはいささか不満だった。その日の段取りは定時の前にするべきか、また片付け・記帳・道具研ぎは定時の後でするべきか、職場によってまちまちなことは知っている。定時の間は直接、プロダクトを生産する仕事に当てるべきだという主張も、理解できないわけではない。たしかに私のように計画や記録を定時の中でやると、稼働率は、わずかであるが低下する。

しかし、その論法を延長していくと、どうなるだろうか。以前、好川哲人氏の文章の中で、「プロジェクトの工程表を作る仕事は時間外でやれ」とプロマネに命じているIT企業のことを読んだ記憶がある。プロジェクト・スケジューリングの作業は、システムを開発する業務には直接貢献しない、間接業務である。だから定時外に残業してやれ、というのがその会社の論理らしい(残業代を払うのかどうかは不明)。大先輩の主張は、これと同じ論理にたどり着かないだろうか。そうすると、私の会社のプロマネさんたちは皆、定時外にすべての仕事をやらなければならなくなってしまう。

考えてみると、マネジメントとは本来、「余計な仕事」であって、組織全体の稼働率を下げるものであると言ってもいい。ではなぜ、それでもマネジメントは必要なのか。そこに意義があるとすればいったい何なのか?

それは、複数の人間が働く際の、「全体の生産性を上げる」「全体の有用性を確保する(正しい方向に機敏に進む)」「組織の安定性を維持する」からだ。そのために計画があり、監視とコントロールがあり、分析評価と改善がある。かりにマネジメントに全体の1割の時間を割いたとしても、そのおかげで組織の生産性が2割以上アップすれば、十分元が取れることになる。生産性が2割向上、というとちょっと信じがたいかもしれない。だが、無駄な作業や、やり直しによるリワークや、手待ち・セットアップ変更等による時間のロスは、うっかりすればすぐ2割以上発生するものだ。だから別段、おかしな数字ではない。

それでは、マネジメント自体の質、その上手下手は、どこで決まるのだろうか。「マネジメント自体の生産性、有用性、安定性」はどうしたら確保できるのか。「豹のリーダーシップ、狼のリーダーシップ」で戯画的に描いた違いは、どうしたら克服できるのか。

能力のある人間をマネジメントの職におけばいい、と普通は考える。技術力のある人間をおくべきか、それとも経験のある年長者が良いか。いや、リーダーシップのある者こそ重要だ--判断基準ははさまざまだが、「誰にやらせるかが大事」という点では意見が一致するようだ。だが、私の意見は異なる。

マネジメントの質を確保するためには、マネジメントの「技術」をまず学ぶべきではないか、というのが私の主張である。技術とは、個人差に依存せず、誰がやっても70点から80点の結果を出せるようなプロセスと道具を言う。それはたとえば、To Doリストであり、ガントチャートであり、クリティカル・パス、WBS、活動基準原価、優先順位法、リスク登録簿、等々の技法・ツールに結実している。つまり、マネジメントにはテクノロジーがあるのである。

残念ながら、今日の日本において、こうした技術は学校では(たぶん)習わない。理工系の教育において重視されている技術とは、電気工学・機械工学・材料工学などなど、対象分野固有の科学法則を応用するテクノロジーである。これらを総称して「固有技術」という。これに対して、上記マネジメントのテクノロジーを、「管理技術」と呼ぶ。管理技術は固有技術と異なり、特定の分野や業種にかかわらず汎用的に適用できるのだ。マネジメント・テクノロジー(とくに計画系の技術)こそ、このサイトの主要なテーマである。だが、多くの大学では、「固有技術」と「管理技術」という概念の違いさえ、ろくに教えぬままである。

マネジメントは、いうまでもなく「人を動かす」「人に働いてもらう」ことである。それは会社の管理職だけの仕事ではない。あなたが家族に何かを買ってきてもらうよう頼んだら、それも「マネジメント」である。あなたが顧客に何かデータをまとめて提示するよう依頼したら、あなたはマネジメントをしているのだ。そして、人が人を動かす行為である以上、そこには必ず、属人的な、ヒューマン・ファクターが入り込むだろう。だが、だからといって、マネジメントにテクノロジーがあり得ない、という事にはならない。知的な技術スキル(ハードスキル)と、人的なスキル(ソフトスキル)は、車の両輪なのだ。

そして、マネジメント専業の人間が必要かどうかは、仕事のスケールに依存する。小さな、ほんの数人が数週間かけてやる程度の仕事なら、マネジメント業務は片手間で済む。大きな仕事になればなるほど、その量は増えて、フルタイムでマネジメント専業の人間を必要としてくる。だが、その場合でも、マネジメントはあくまで「役割」である。上下関係ではないのだ。

マネジメント論をややこしくする原因は、それが役割と機能であることを忘れて、「人の上に立つ」「人を導く」といった概念に多くの人が心を奪われるからである。人間は社会的動物で、その集団の中の位階に対して、強い競争心を持って生まれてきている。だれがお山の大将になるか、ボスザルの地位を得るかで争い合う。だが、地位と、マネジメントの職能を混同するべきではない。地位は、マネジメントの技術レベルを保証するものではないからだ。

私が、プロジェクト・マネジメントにリーダーシップ論はいらない、とくりかえし述べているのも、この理由による。別に、プロマネにリーダーシップが一切要らない、と言っているのでは無いので誤解しないでいただきたい。あれば、あるに超したことはない。ただし、その前に、マネージャーには、マネジメント・テクノロジーを身につけておいてほしいのである。リーダーシップは、かなり属人的な、もって生まれた資質の部分がある。もしリーダーシップがマネージャーの唯一最大の要件だということになると、テクノロジーなどどこかに吹き飛んでしまう。だが、どんなに気合いと根性をこめても、クリティカル・パスよりもずっと短い納期でプロジェクトを終わらせることは、原理的に不可能である。

今日の閉塞した世の中では、一種の『リーダー待望論』のような空気が漂っている。それがリーダーシップ論の根底にあるのかも知れない。だれかすばらしい人格のリーダーが出てくれば、魔法のようにすべての悩みを解決してくれる--そんな無意識の期待が、世に渦巻いているかのようだ。だが魔法のようなリーダーが、そういるはずもない。一人に期待しては、すぐに失望し、またもう一人に希望を託しては、すぐに裏切られた気持ちになる。こうして、驚くべきスピードで、「キャラクター」たちが消費されていくことになる。そうでなければ、なぜこの国は1年も経たずに次から次へとトップの人間を取り替えていくのか?

マネジメントには魔法使いも銀の弾丸もない。もうディズニーランドのような夢からは覚めるべきだ。そして、もう一度、自分の足で「テクノロジー」を探しに出かけるべき時なのである。
by Tomoichi_Sato | 2010-07-11 23:12 | ビジネス | Comments(0)
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