モノを買うのか、機能を買うのか

フランスの北東部にエペルネという街がある。特急の乗換駅で、葡萄畑に囲まれた田園地帯の小さな都市だ。ところで、あまり知られていないことだが、このエペルネは首都パリを追い抜いて、住民の平均所得が全仏で一番高い、豊かな街なのである。

なぜこんな田舎の町が豊かなのか。それは、このエペルネが、シャンパーニュ地方の中心の一つであり、モエ・エ・シャンドンをはじめとするシャンパンの有力ブランドのメーカーを多数抱えているからだ。

シャンパン工場は見学するとなかなか面白い。瓶内発酵をさせるため、貯蔵庫は岩盤をくりぬいた半地下にあって、温度・湿度の変化を避けている。しかも、BOM(部品表)の観点から見ると興味深いことに、シャンパンは製品の一部を、次の年度の製品仕込みのための原料に使っている。BOMにリサイクルがある、「Q型」の構造をしているのだ。これは毎年の品質を一定に保つための知恵である。

法律で決めた産地呼称制限によって、シャンパーニュ地方の限られた葡萄畑から作られる発泡性ワインだけがシャンパンと名乗ることを許されている。発泡性のワインはフランスに限らずイタリアにもスペインにもあって珍しくないが、シャンパンだけが特別に珍重され、値段が高い。買い手がそこに「価値」を見いだすからだろう。だが、それはどのような価値なのか。味? 香り? 品質への信頼感、それとも希少性?

話は急に飛ぶが、かつてIntel社が新型のCPUを発売したとき、数値演算コプロセッサを内蔵したタイプと、内蔵しないものと、二種類を同時に売り出したことがある。昔の話だ。しかし、非内蔵型というのは、実はコプロの回路パターンは焼き付けてありながら、単にその機能を呼び出す部分を殺して売っていたことを、後になって知った。それを聞いて、なんだかひどくアンフェアな、買い手をばかにした商売の仕方だと感じた。むろん、そうした方が、二種類のパターンを別々に開発するより、安上がりなことは理屈では分かるのだが。

いったい、モノの値段というのは、どうやって決まるのか。買い手から見た価値のあり場所はどこにあるのか。私はそのことを、ずっと考えている。

シャンパーニュ地方では、葡萄が大豊作になり、収穫量が出来すぎると、あえて収穫せずに捨てておくという。そうやって、シャンパンが供給過剰になり、価格が低落するのを防いでいるのだ。彼らの高収入は、必要とあらば高品質な原料さえ捨ててしまうことで成り立っているらしい。大人の知恵、というべきなのだろう。しかし、その話を聞いて感じる居心地の悪さは、IntelのCPU生産方法を知ったときの奇妙な憤りに、どこかで通じている。

BOM/部品表入門」を書いたとき、私はあえて、『マテリアルとは何か?』という問いを最初の部分に置いた。それは、自分に対する問いかけでもあった。マテリアルとは、物質的な実在があり、在庫可能で、所有権を売買し移転できる性質のものだ。そこがサービスや情報とちがう。しかし、それではマテリアルの値段とは、何で決まるのか? 百グラム何円という単価は、誰が定めるのか。

マテリアルの価値を定めるのは消費者であり、単価はその需要量と販売者の供給量のバランスから決まる。そして消費者にとっての価値とは、そのマテリアルの品質に依存する。--これが経済学の教科書的な回答にちがいない。(ここには製造原価という項目がないことに注意してほしい。製造原価は供給曲線の形に影響を与えるだけで、販売価格には間接的な効果しかないのだ)

では、品質とは何か。それは、顧客満足で測られる、というのが現代品質管理の考え方らしい。製品というマテリアルの品質は、
 製品品質=g(構造属性群,材質属性群,機能属性群・・)
という式で表現されると、以前書いた。しかし、よく考えてみると、3種類の属性群は平等ではない。明らかに機能が優先するのだ。

なぜなら、車を買うときのことを考えてほしい。かりに、ブレーキオイルの配管系統にごく小さなピンホールがあったとする。構造や材質は、ほぼ完全に他の車と同等だ。でも、ブレーキは機能しない。そんな車を、あなたはお金を払って買うだろうか?

機能とはマテリアル固有の属性ではなく、マテリアルと使用目的との関係である。このことは明記しておいた方がよい。「移動する」という自動車の主要目的を果たせない製品には価値がない。むろん、コレクターで、所有陳列しておくだけが目的の買い手にとっては、構造(外見)だけでも価値はあろう。目的は、必ずしも一つではない。だが、複数の目的があり、複数の機能尺度があるときに、いくつかの製品を比較評価する総合尺度は、合理的(無矛盾)には構成し得ないのだ(これについては、別に稿をあらためて書こう)。これは、消費者の好みが、本質的に多様であることを意味している。

こう考えてみると、実はわれわれはモノに仮託した諸機能への期待を買っていることがわかる。機能自身は買えない。所有権を移転できないし、占有権も許諾できない。だからモノを買うのだ。ところが、われわれの社会の法律や商慣習や経営論理は、ほとんどがモノの売買を機軸にしてできあがっている。経済学は、購買行為が「合理的」であることを前提にできあがっている。だから、あちこちでねじれが生じるのだ。

シャンパンの主要な目的は、味わって酔うこと、では多分ないのだ。稀少で高価な製品の封を切る特別な瞬間を味わう、雰囲気への期待が目的なのだ。エペルネのシャンパンメーカーたちは、そう信じているにちがいない。そうでなければ、価格を維持するために、太陽の恵みを犠牲にしたりするはずがない。それは経済原則には合致するだろう。だが、それははたして商品文化の名に値するのだろうか。消費者の求めるものは、本質的に多様だ。売り手のお仕着せによる価値づけは、どこかに矛盾を内蔵していると私には思えるのである。
by Tomoichi_Sato | 2010-05-14 23:14 | 考えるヒント | Comments(0)
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