ぼくらに英語は分からない

何年も前のことだが、私はある米国系石油メジャーとのプロジェクトのために、チーム・ビルディングの会場に向かっていた。春の季節で、朝はまだ寒かった記憶がある。プロジェクトの開始にあたり、発注側(顧客)と受注側(我々)のキーパーソンが集まって、丸1日のセッションを行うことが顧客の要求だった。そのためにわざわざ、専門のファシリテーターまで米国から呼んでいた(そういう種類の専門家があの国には居るのだ)。そして、米国流のチーム・ビルディングがどんなものなのか、私はそこで初めて知ることになった。

参加者の7割以上は日本人だったが、使用言語は英語だった。プロジェクトの公式言語は英語を用いる、と契約書に規定されている以上、当然である。その専門家がまず、チーム・ビルディングの意義と進め方を説明した後、二人一組でペアをつくることになった。ペアは必ず発注側と受注側から一名ずつの組合せになっている。そして10分ずつ使って、互いに自己紹介をし、また、このプロジェクトに対する自分なりの期待Expectationを相手に説明した。その後、各人は、参加者全員に向かって、自分の相方の「自己紹介」と「期待」を、代わって説明する、という風に進んだ。これで、とにかく初顔合わせの相手側にも、一人だけは名前や出自や期待を知っているパートナーができたわけだ。

その後、昼食をはさんで午後一杯かけ、このプロジェクトに対するコミットメント・ステートメントCommitment statementを共同で作ることになった。プロジェクトのチャレンジすべき目標を挙げて、皆でそれに向けて邁進しよう、との意図である。まず全体を4班に分け、各班で素案を作る。ついで2班ずつ組になって互いの案をすり合わせ、最後に全員で一つの文章、いわば「共同決意宣言」にまとめるのである。このステートメントは、大きな紙に拡大コピーして、プロジェクト・オフィスの要所要所の壁に貼ること、と言われた。

ところが、この「コミットメント」とはいったい何を意味するのか、という声が日本人側から上がり、議論はけっこう紛糾した。これは『約束』なのだろうか。すでに厳しい契約に縛られているのに、これ以上、余計な義務を背負い込みたくない、というのが受注側のいつわらざる本音だった。いや、commitはpromiseではない、と専門家は言う。だとしたら、いったい何なのか。

Commitという英語はむつかしい。それは、何かに向けて関わる・責任を引き受ける、といったニュアンスの言葉である。と同時に、そこには強い人間関係への含意がある。おまけに、犯罪だとか自殺だとかにもcommitを使う。分かりにくい概念である。後日、ある知人が、「Promiseというのが婚約だとしたら、commitというのは二人で一線を越えてしまうことだ」と、いささか不穏当なたとえで説明してくれたが、後に引けない一歩を踏み出す、という感じをある程度は伝えている。とはいえ、この説明でも、コミットされた人たちの集団がなぜCommittee(委員会)の意味になるのかは、今ひとつ納得しがたい。

とにかく、Commitment statementは義務づけられた約束ではなく、取り組む目標である、との合意がなされて、作業は先に進んだ。

つぎに宣言文の討議の中で問題になったのは、契約書の扱いである。顧客の米国企業側は契約書の厳密な履行を求めた。われわれ請負側の日本企業は、「柔軟な運用」を欲した。議論はかなり並行線をたどったが、最後に私の側にいたある米国人が、「契約の文言ではなく精神で」(Not by the letter but by the spirit of the contract)と提案したら、すんなり合意された。気のきいた言い回しだとは思ったが、なぜそれでぴたりと議論が収束したのか、私には今ひとつ合点がいかなかった。

とにかく、このチーム・ビルディングは無事終わった。ところで、その後ずっと経ってから、偶然、この文句は新約聖書にあるパウロの手紙の中の引用であることを知った。使徒パウロは、人間を救うのは(旧いユダヤ教の)律法の字句letterではなく、聖霊spiritの恩寵である、と主張していたのだ。そして、このテーゼは、「契約社会」と呼ばれる彼ら欧米人の考え方の底流を規定しているのである。だからあの宣言文は見事な助け船になりえたのだ。

それにしても、letterとspiritのわずか2語に、それだけの含意があるなどと、普通の仕事の中でどうして知り得ようか。だがビジネス英語の表層を掘っていくと、いきなり宗教だの価値観だのに関係する概念の鉱脈にぶつかって驚くことがあるのだ。

もう一つ、例をあげようか。プロジェクト・マネジメント論の中で、マトリクス型組織の功罪という問題がある。マトリクス型のプロジェクト組織は、現代の経営学においては最も先進的な形態だと考えられている。そこにおいては、機能部署の指示系統とプロジェクト別の指示系統が二重に存在する。しかし、古典的名著「人月の神話」を書いたBrooks Jr.はこれを強く批判して、『人は誰も二人の主人に仕えることはできない』と主張する。とはいえ、これで本当に反論になっているのだろうか?

この文句も実は、新約聖書からの引用になっている。人は誰も、「神とお金という二つの主人に」同時に仕えることはできない--これが本来の意味である。確かに、この2種類の主人は相反する価値を体現している。 Brooksの主張は、ここまで読み込めば、強いインパクトを持つ反論であることが理解できる。そして、ごくふつうのアメリカ人ならば(たとえ滅多に教会なんか行かない現代人でも)、「二人の主人に仕える」と言われれば、すぐにこの文句の意味にピンとくるのだ。

一説によれば、英会話の学習というのは、約700時間を費やせば一人前になれるという。1日1時間として、ほぼ2年間である。まあ、そんなものかもしれないな、と私も思う。しかし、それでトレーニングできるのは、せいぜい読み書き聞き話す、枝葉の技術である。一番大事な「文化を理解する」という能力については、実はほとんど、これでよいという際限がない。

「文明とは人間に利便性を提供し、文化とは人間にアイデンティティを与えるための仕組みである」という定義が私は好きだ。もし文化が個人の自己同一性や意義を保つためのシステムであるならば、その主要なサブシステムである言語は、当然ながら社会的な価値観に複雑に絡み合っているはずだ。ビジネス英語というものは、それを技術やお金儲けなどの役に立てるべく、ほんの表層を利用している道具立てにすぎない。むろん、それで十分役に立つ範囲も多い。しかし、大きなビジネスで、利害関係も込み入ってくると、とたんに契約や慣習や法務が関わってくる。そこまで行かずとも、ビジネスの相手と少しでも個人的に深く知り合おうとすると、好みや価値観がからんでくる。そうすると必ず、異文化の摩擦が生じてくるのだ。

我々が英語を使うのは、英語が世界で一番知的で素晴らしい言語だからではない。とりあえず、歴史的経緯から、それしか現実に選びようがないから使っているだけだ。ところが困ったことに、英米人にとって英語は母語である。英語は彼らの文化に深く組み込まれて発達してきた。おまけに彼らは、東洋人との文化的距離には困惑すれども、(長年の力関係の差もあって)理解しようという努力をあまり払う気がない。

そうした障壁を乗り越える際に、(たとえば)TOEICの点数で測れるような英語の知識やスキルだけでは、けっして十分とはいえない。しょせんTOEICはペーパーテストであり、受験対策も可能だ。本当に重要なのは、「異文化を理解する」能力であるはずだ。複雑な異文化というシステムを、複雑なまま理解するためのスキル。だが、私自身、大学でも職場でも、それを教わった記憶がない。すべて手探りのまま進んできた。だから、英語を何十年使ってきても、ちっとも“分かった”気がしないのである。

いや、きっと「分かった」と思ってしまってはいけないのだろう。ネイティブでない者がビジネス英語を学ぶとは、たぶんそういう事なのだ。無知を自覚することこそ、理解への原動力なのだから。
by Tomoichi_Sato | 2010-05-04 22:09 | ビジネス | Comments(3)
Commented by nil at 2010-05-05 05:30 x
異言語コミュニケーションと異文化コミュニケーションについて分別してみるというのはいかがでしょうか?satoさんのチームにいらっしゃった米国人を仮にイエメン人やロシア人やタミル人に置き換え、CPも同様であればそこのあたりは自明な事ではないでしょうか?
satoさんは異文化との「摩擦」とおっしゃられますけれど、「すりあわせ」というのは同じ言語でも存在する以上、前提条件とすればそれほどややこしくないというのが個人的な印象ですけどいかがでしょうか?
Commented by りょうじ at 2010-06-01 20:56 x
う~~~ん
意味深ですなあ・・
チョト難しかったです。
でも全部読みましたよ。
感想は・・・やっぱ少し難しかった。
ただやっぱ英語の位置づけはそういうことなのだと思います。
Commented by hahaha at 2010-06-02 11:23 x
海外にて仕事をしていると、この事は充分体験する事になりますよね。
自分の中でも、英語を公用語としている国は別として、英語を公用語
をしない国(自分はタイでしたが)では、英語ではなくタイ語を進んで
覚えその人達と同じ現場に立ち、食堂では努めて同じモノを食べる
ことにしていました。  そうする事によって、現場サイドでの問題点も
早く汲める様になり、又対策も早めに立て易かったです。 信用するのではなく、信頼できるようになったのも相手の文化を理解出来る様になったのが大きいのかな?っと経験として感じる所です。

そして、日本でのやり方・システムを現地の会社に押しつけた所は多くが撤退して行ったのを覚えています。
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