桜の園、または道具としての組織論について

またや見む交野の御野の桜狩 花の雪散る春の曙 (藤原俊成)

古典歌人達が、「しづ心なく花の散るらん」とか「花にもの思う春は経にけり」と歌うとき、その「花」は桜のことを指すというのが約束だった。ただしそれは、薄緑の若葉とともに花を咲かせる山桜である。平安時代や鎌倉初期には、今で言うソメイヨシノはまだ無かったからだ。

サクランボは桜の樹になる果実のはずだが、桜の名所をどれだけ歩いても、初夏にサクランボを見つけることはない。それはソメイヨシノが交配でつくられた不稔性の桜だからだ。花は咲いても実は結ばないのである。この木は、基本的に接ぎ木で増やすので、遺伝的に言うならば、すべて同一である。そのため性質も均一で、一斉に花が咲いて一斉に散る。桜の木が一本だけ生えている姿は儚なげな情緒が漂うのに、たくさん並んでいるときは、かすかに不穏さのようなものを感じるのは、もしかしたらクローンの集団だからなのかもしれない。

接ぎ木とか挿し木といった繁殖法を見ると、植物というのは本当に不思議な生き物だと、ときどき思う。ジャガイモにトマトを接ぎ木して、地下と地上に別々の実りをもたらすことさえ、やろうと思えばできる。接ぎ木は、明らかに別の個体同士の接合なのに、一つの生き物にインテグレートされるのである。ゆっくり時間はかかるが、まさに「すり合わせ型」だ。

これに比べると、動物というのは構造がはっきりしている。蝶であれクジラであれ、羽が何枚とかヒレが一対とか構成が明確で、ブレがない。勝手に個体同士が接合することもない。人間ならば眼が2個、口は一つで、心臓が一個で腎臓は2個、足は2本といった具合に、「部品表」を書くことができる。各部品の機能は明確に決まっている。むろん血液や体液のやりとり、神経系や内分泌系の情報交換、温度や圧力の環境管理など、さまざまに複雑なインタフェースで他とつながっているが、部品と見なすことは可能だろう。

西洋人は対象を分析してこまかく分解していき、それで物事を理解し把握するアプローチが得意である。西洋医学の行き着く先が、部品としての臓器の移植や再生交換に至るのは当然かもしれない。彼らは身体というものを、モジュール構造のモノとして見たがる。だから故障したり古くなったりしたら、新品と取り替えるべきだとの発想にいくのだろう。つまり、体の器官というのは、道具なのである。だが、誰にとっての道具なのか。

彼らの身体観は、その延長としての「組織」観に無意識につながっているのではないかと感じるときがある。いつだったか、外資系の、若くて優秀な経営コンサルタントが、企業の組織に関する混線しがちな議論に割って入って、「でも組織形態は、経営目的を達するための道具じゃないですか!」と発言し、それを聞いた周りの人達が一瞬、しんと静まるという光景があった。会社員は皆、組織論が大好きである。誰もが自分の組織や立場を守ろうとする。次第次第に組織自体が自己目的化する。それを、「道具にすぎない」と断定する冷静さに、目を覚まされた思いをするのだろう。

M・ポーター流の『専門化』による競争戦略の行き着く先が、“個別機能に特化した組織がモジュールのように組み合わさって、新しい全体性を持ちうる組織アーキテクチャー”だと、前回書いた(「専門化と総合 - 組織戦略の二つの方法」 2010/04/06)。企業というのは、その業態に合わせて、だいたい似たような機能組織を持つようになる。人事部とか財務部とか資材部、物流部、技術部、製造部、情報システム部といった風に。これらの機能部門が、会社組織を成り立たせる「部品」である訳だ。そうなると、陳腐化した部品、機能の低下した非効率な部品ははずして、新しく高機能な、かつランニング・コストの小さな部品に取り替えよう、との発想に至るのも必然である。

この流れにしたがって起きた現象が、アウトソーシングであった。物流機能の3PLへの移管、情報システム部門の独立化や売却、福利厚生の外部利用化などは、その典型である。それに続いて起こっているのが、工場の製造子会社化、ならびにEMS(製造受託会社)への移管であろう。“うちの工場は高コスト体質でかなわん。海外の安い会社に作らせたらいいやないか”という訳である。こうして「グローバル化推進」のかけ声とともに、中国生産がブームになり、インドネシアやベトナム生産がその後を追うことになった。設計(とくに詳細設計)を外部に出すことも広まりつつある。

しかし、本当にこれら機能部門はアウトソース可能なのだろうか。私が提起しているのは、「アウトソースすべきかどうか」の是非論ではなく、「可能かどうか」の技術論である。欧米流のモジュール型組織アーキテクチャーが可能であるための条件は、はっきりしている。それは『個別機能のインタフェースが明確に規定され標準化されている』ことだ。そうでなければ、それはモジュールにはならない。標準インタフェースが存在しなければ、それは「すり合わせ型」部品だと考えられる。

そこで、読者諸賢に一つ質問したい。皆さんは、現在たずさわっておられる職務について、職務記述書(Job description)をお持ちだろうか? また、現在の業務について、ワーク・パッケージのインプット・アウトプット・使用ツール等を規定した定義書は、お持ちだろうか。

私自身の経験でいえば、フランスの企業との合弁事業で働いていたとき、人を新たに雇う場合は職務記述書の作成が、まず第一に要求された。だが、日本の本社では職務記述書など見たことがない。私の勤務先はエンジニアリング会社なので、さすがにWBSとワーク・パッケージの標準は一応規定している。が、プロジェクトごとに例外も多い。中間管理職としての日々の業務は、その例外との戦いみたいなものだ。

ISO9000の品質マネジメントシステムを持っている企業は、業務フローの記述をまとめているはずだが、その規定は運用上の裁量範囲(いいかえれば曖昧さ)を残している場合が多い。つまり、日本企業の実態としては、「すり合わせ型」の組織アーキテクチャーが主流なのではないか。

こうしたすり合わせ型の組織で、ある機能部門だけをモジュール部品として交換しようとしたら、どうなるか。機能不全の、木に竹を接ぐ結果になるのは火を見るより明らかである。にもかかわらず、こうした『組織戦略』が流行しているのは、欧米流のマネジメント思想を、自分の立脚する環境を見ずに、直輸入して実行しようとするからであろう。

それは、働く個々人についても同様である。製造部門の直庸を派遣工に取り替える。設計者も外注に切り替える。満足な職務記述書も用意せずに。その結果、従来は現場の工夫で押さえ込んでいた問題が、つぎつぎに表面化してくる。管理スタッフの負荷がどんどん増えていく。

だったら職務記述書や業務標準定義書を充実していけばいい--これは一つの解決方向であろう。ただし、組織のアーキテクチャーは、製品アーキテクチャーや、サプライチェーンの方向性と、微妙に、しかし密接に関連していることを思い出してほしい。すり合わせ型の製品アーキテクチャーは、プル型のリーンな供給指示に結びついており、モジュラー型製品は在庫をもつプッシュ型供給指示が便利である。では、個別仕様部品の多い、すり合わせ型製品で、設計や購買の業務標準定義書を簡単にかけるだろうか。書くためには、バリエーション・リダクションやGT化といった、相当高度な工夫が必要なはずである。

組織は経営の道具にすぎない、というテーゼは明瞭で、分かりやすい。専門化にもとづく組織アーキテクチャーは、何となくカッコいい。だが、分かりやすさや格好良さだけで、複雑な物事を決めることはできない。周りがみんなそうするから、といって行動するのでは、実を結ぶことのない桜の園のクローン集団と同じになってしまう。まして何も捨てない「総合」型組織アーキテクチャーで道具論を振り回したら、滑稽なだけではないか。

私は「すり合わせ型」が良いか「モジュラー型」が良いか、二者択一の議論をするつもりはない。あるいは、組織論には第三の道を探るべきなのかもしれない。そもそも、会社を構成する人々は、会社の道具だろうか。そして私の身体は私の道具だろうか? それを考える基準とは「何か」を、もう一度問いたいのである。
by Tomoichi_Sato | 2010-04-12 23:12 | ビジネス | Comments(0)
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