脳のなかの幽霊 V・S・ラマチャンドラン、サンドラ・ブレイクスリー

脳のなかの幽霊 (角川21世紀叢書)

この本は(古書で手に入れたが)、最近読んだ中のベストの一つだろう。これほど面白く、しかも強烈な刺激を与えてくれる本は少ない。ラマチャンドランはインド生まれで英米で活躍している神経科医だが、この本は脳や神経の仕組みだけでなく、自己とは何か、外界と知覚とは何か、実在とは何か、といった哲学の問題まで真っ正面に切り込んでいく。それがまた多数の臨床事例をともなっているから、きわめてスリリングなのである。

この本は最初に、幻肢の問題から始まる。手を切断された患者が、失われた手の指などがまだあるように感じる現象である。あるように感じるだけではなく、ときにはそれがひどく痛んだりする。しかし、存在しもしない幻の指先の痛みを、医者はどうやったらなおせるだろうか?

ところが、おどろいたことに著者は、あることをきっかけに、実験と推理をくり返して、とうとう幻肢の感覚の正体をつかむ。そして、きわめて巧みな治療法を考案して、本当に幻肢痛をなおしてしまうのだ。この章だけでも、非常によくできた推理小説のように面白い。

しかし、それだけではない。この本の中には、およそ常人では想像もできないような、奇妙な神経医学的症状がつぎつぎと紹介される。自分の左腕を、自分の兄の腕だと主張する男性。視野の右側が全く見えていないにもかかわらず、その異常に気づかぬ女性(彼女は顔の左側だけ化粧をして平然としている)。視覚を失っているにもかかわらず、完全に正確に穴に物体を通すことのできる若者(彼は知覚しているのに認識できないのだ)。

こうした奇妙な症状のオンパレードは--なんだか今日の日本企業が陥っている知覚異常をふと連想させるが、それはさておき--自己を正常と信じている我々を、当惑せずにはおかない。しかし、著者は慎重に一つずつ謎を解きほぐし、人間の脳と神経の意外な振る舞いを見いだしていく。

そして最後に、著者は「意識」の場所として、脳の前頭葉ではなく側頭葉である、という意外な推論を導き出す。その背後には、ヒンズー教の信念、すなわち自我は人間の主人ではなく幻であり、それをすてて宇宙と合一することが悟りである、との考え方がある(ラマチャンドラン自身は科学を経て、その伝統的思考に再度出会ったようだ)。本書はきわめて挑戦的な、脳と意識をめぐる臨床調査と思惟の記録なのである。
by Tomoichi_Sato | 2010-04-09 22:52 | 書評 | Comments(3)
Commented by たーぬ at 2010-04-10 00:58 x
いつもブログ拝見しています。
たまたま、自分の領域に関係しているので、コメント書きました。
左側頭葉は大事だと言うのは理解できますね。
私が日々の仕事で感じていることを書きます。ご参考に。
PCの世界で考えると、オブジェクト指向プログラミングに近い感じがしますが。
感覚情報とそれを処理するプログラムが同時に内蔵されたモジュールが、恐らく、数千ぐらいあって、その集合体が意識だと思います。
左側頭葉は、その中で大きなサブルーチンなのは確かだと思います。

前頭葉は、意識プログラムの一部というよりは、行動を起こそうとするプログラムに属するかなぁと。意識プログラムから処理された情報が集まり、それに対して、どう反応するかという部位でしょうか。

Commented by たーぬ at 2010-04-10 00:59 x
社会性は間違いなく、前頭葉の真ん中、底面にあります。

単なる覚醒しているかどうかなら、左側頭葉は間違いではないと思います。
ただ、どう行動するか、どう社会的に行動するかは、前頭葉にあると思います。

意識して自分の事を考えている時と、実際、自分の行動を決めている時は、違う脳だと思います。

つまり、我々は、自分では気がついていない時点で、次の行動を決めている可能性があるということです。
それが、文字には表せない、見えない世界のことだと思います。
CMというのは、視覚、聴覚情報を介して、その見えない世界を操作しようとする試みだと思います。
Commented by Tomoichi_Sato at 2010-04-12 23:19
丁寧なコメント、どうもありがとうございます。
私は素人なので、この本についても、ただ感心するだけで、その当否やインプリケーションについては十分議論できません。
しかし、「私という自我」が、すべての行為や発意の主人である、という見方には、以前から疑問を感じていました。これが、科学的な観察や実験から側面援護されるのだとしたら、面白いと思っています。
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