「わかる」ことと「知る」こと

学んで時に之を習う。また喜ばしからずや。朋あり、遠方より来る。また楽しからずや。人知らずして温(いきどお)らず。また君子ならずや--これは「論語」の冒頭、学而篇第一におかれている子(先生、つまり孔子)の言葉だ。

「勉強した後、適当な時期にこれをおさらいする、いかにも心嬉しいことだね。同学の志が遠いところからも訪ねてくる、いかにも楽しいことだね。人が分かってくれなくても気にかけない、いかにも君子だね(凡人にはできないことだから)。」 金谷治氏の訳注をたよりに書き直せば、こんなところか。

孔子は「学ぶ」と「習う」を区別して使っている。学ぶ、は知識として覚えること。これに対して、習う、は自分で繰返し経験して修得することを意味している。つまり、「知る」ことと「わかる」ことだと言ってもいい。

三千年以上も前の人には自明だった、この区別が、現代の人にはわからなくなっているらしい。そう思うようになったのは、最近の経営書ブームの影響を見てからのことだ。

その端的な例が、プロジェクト・マネジメントのPMBOK Guideである。米国Project Management Institute (PMI)が長い時間をかけて完成させた本書は、タイトル"A Guide to Project Management Body of Knowledge"が示すように、「基本的知識へのガイド」である。この中にはたとえば、アーンドバリュー・マネジメント・システム(EVMS)手法の基礎的な記述がある。そこで、これを読んだ人は、PMやEVAの知識を得ることができる。つまり、「知っている」状態に達するだけ、のはずである。

ところが、面白いことに、世の中にはPMBOK Guideを読んだ、あるいはPMPのペーパー・テストに合格した、だから自分はEVMSが「わかってる」と思いこんでいる人が、けっこういるらしいのだ。不思議なことである。そんな人の前で、「アーンドバリュー・マネジメント・システムの落とし穴」に書いたような議論を始めると、目を白黒させたりする。

どんな技法も、実務で何度か使って、自分で痛い思いもしてみて、はじめて利点と限界を理解できる--これが技術屋としての普通の態度ではなかったか。いつから管理のための手法だけは畳水練で修得できることになったのか。

もう一つ例をあげよう。ERPのビジネスが発達して以来、日本でも欧米に劣らず『コンサルタント』が急増した。このコンサル諸子、実際には特定アプリケーションの設定方法を(ごく狭い業務範囲に関してのみ)「知っている」だけにすぎないのだが、なぜかビジネス領域を「わかっている」と自認しておられる方が少なくないらしい。無論、ちょっとでも現場業務に関するリアルなことをつっこんで質問されると、すぐぼろが出てしまう。だから顧客側も賢くなって、“SEにすぎない人間に業務コンサルの単価が払えるか”と値切り、単価デフレ現象を加速させているようである。

英語のTOEICも似たような所がある。俺はTOEICが900何点だから英語はよく分かっている、という御仁が多いようだ。しかし、私の感覚でいえば、 TOEIC 900点など、囲碁にたとえれば、ようやくアマの初段といったところ。プロ(つまりNativeの人たち)とは天と地ほどの開きがあるのだ。しょせんあれは試験である。点を取るためのテクニックだって存在して、参考書も出ている。そんなことを「知った」からといって、言語という巨大な文化のサブシステムを「わかった」と、なぜ言えるのか。だから私などいつも、「ぼくらに英語はわからない」と言い続けている。

鉄棒の逆上がりの仕方をスライドで見て知っても、それで逆上がりが実際にできるようになるわけではない。小学生にとってさえ自明な真理が、なぜいい年をした大人にわからないのか? 

答えは、たぶん、われわれの社会から職人仕事が衰退していることと、関係がある。職人は、仕事は自分で身につけるものだ、と信じていた。「知る」ことと「わかる」こととの間には、気の遠くなるほどの距離があるのだ。しかし今や、いかなる仕事であれ、文章と記号と画像情報系で伝達可能である、という信念が広まっている。どうも、大学でお勉強ばかり上手にしてきた人たちが、ホワイトカラーの中に増えすぎたのだとしか思えない。

昔読んだ田辺聖子の小説の中で、障害児を持つ母親が、他人からその苦労を聞かれ、

「分かる人には説明しなくても分かる、分からない人には説明しても分からない。」

という意味のことを答えた場面があって、今でも忘れられない。逆説めいているが、正論だ。「わかっていない」という自己認識があって、はじめて「わかろう」とする努力が始まるのだ。「そんなことは知っている」と思った地点からは、何の前進もありえない。無知の知とは、おそらくそういう意味なのだろう。
by Tomoichi_Sato | 2010-02-24 23:57 | 考えるヒント | Comments(0)
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