一点集中型アプローチの限界

以前、「ムツゴロウさん」こと畑正憲氏の作った、子ども向けビデオの「動物大好き」シリーズを子供と一緒に見ていたら、面白いエピソードが出てきた。犬と猫の、対象物への関心のあり方が、こんなに違う、という話だ。

まず、道ばたの雑草“ネコジャラシ”を一本ひっこぬいて、穂先を猫の目の前にぶらぶらさせてやる。猫はすぐ前足でそれをつかもうとして、じゃれてくる。誰でもやったことがあるだろう。畑正憲によると、猫は、目の前に興味ある物体があると、ただそれだけにすべての関心と注意を集中させる性質を持っている。その他のものには見向きもしなくなる。そして、その穂先にだけ手を出そうとする。

一方、犬は全く違う。畑正憲は同じネコジャラシを、犬の鼻先にぶらぶらさせてみる。犬もそれに興味を持って、手(前足)を出したりするが、しばらくすると少し後ろに下がって、全体をじっと見る。そして、今度は、穂先ではなく、彼が手でもっている茎の方を口でくわえて、ぱっと奪いとってしまうのだ。

畑正憲いわく、「犬は興味の対象を手に入れるための、総合的判断がうまい」。穂先がダメなら、その形状を見て、茎をくわえることを考える。それでもダメなら、今度は飼い主の畑正憲に甘えて、「ちょうだい。」というポーズをするだろう、という。

これを見ていて、なんだかこの2種類のアプローチは、人間の思考パターンの分類にも使えるなあ、と思った。一点集中型(“猫型”)と、総合判断型(“犬型”)のアプローチ。対象物へのアプローチにかんする二つのタイプは、人間の二種類のタイプを表しているようで、面白い。たとえば、アメリカ人と日本人である。

アメリカ人と仕事でつきあってみると、彼らはかなり徹底して、分業的・組織的にターゲットにせまるやり方をする。ターゲットの性質や構造をいろいろな角度から分析して、それを達成するにはどうするか、計画する。そして、その計画通りいくように役割分担と指示系統を決め、現実が計画から少しずれようとも、あらかじめ線を引いたとおりに、なかば強引に物量で攻めていく。いかにも“犬型”の総合判断によるアプローチだ。

もともと犬の祖先の狼は、集団で狩りをする生物だ。彼らは獲物との空間的距離を計りながら、計画的・分業的に追いつめていく方法をとる。こうしたやり方は、十分な配員さえできれば、個人個人の技量の差があっても、そこそこのレベルで結果を得ることができる利点を持っている。そのかわり、現実が計画からかけ離れてしまっても、フィードバックが効きにくい(アジアの小国とはじめてしまった戦争が泥沼に陥っても、彼らはすぐに軌道修正できない)。MRPによる生産管理みたいではないか。

一方、日本人は、そもそもあまり計画を信用しない(製造業の中には、「計画はずし」などということを指導するコンサルまで実在する・・)。対象物があったら、その動きをじっと見て、身をかがめながら待ち、あるタイミングがきたら全力でそれに突撃する。そして後先考えずに、しゃにむに追いかける、という訳である。まさに“猫型”の、一点集中型のやり方ではないか。

一点集中型アプローチの利点は、動く対象に向かって、臨機応変に追随できること(フレキシビリティ)だ。猫はもともと、森の中で小動物を捕獲して生きている、半夜行性の生物だ。一点集中はそのために必要な特性だった。じっさい、計画の立てにくい不定型な仕事は、日本人の方がうまくマネジメントできるような気もする。しかし、このやり方は、個人個人の能力にかなり依存する弱点がある。

無論、こうした比較は、ある程度強引にパターン化して描写している。実際には米国人だって一点集中になることもあるし、日本人だって総合的判断を行なう。しかし、全般の傾向としては、このようにふるまうよう、学校でも社会の中でも構成員を訓練しているのではないか。日本の教育システムにおける入試制度なども、『一点集中』の代表例のようだ。

日本人集団を見ると、一点集中主義は、集団全体で同じ方向に顔を向ける、一種のブーム現象をうみだす。若い女性のファッションにおける流行だけではない。産業界でも同様で、ERPが良いとなれば猫も杓子もERP導入、中国生産だとなれば皆がなだれをうって大陸入りを果たそうとする。ERP導入や中国生産で成功する条件や手順を、「構造的・総合的」に分析してとり組もう、官民や業界が分業して戦略的に達成しよう、などという“犬型”アプローチはあまり聞かない。

もう一つの例は、日本のマス・メディアの報道の仕方だろう。英文紙「Japan Times」の投書欄などを読めば、よく外国人(主に英米人)が、“日本のメディアはなぜ同じ話題ばかり取りあげ続けるのか”という批判を投書している。たしかに、芸能人覚醒剤スキャンダルならそのニュースだけを何日間も報道し続け、新型インフルエンザ問題となれば連日その問題ばかり議論する。しまいにはいいかげん、視聴者の方がその話題に飽きてきてしまう。

なぜそうなるかというと、理由があるのだ。もともとマス・メディアは、どれだけ多くの視聴者を獲得できるかで競争する。もし今、A・B・C・Dの4種類のトピックがあり、視聴者の関心が、4:3:2:1割ずつあったとしよう。すると、いずれのメディアのチャネルも、最大の関心をとれるAの話題を選択しようとする。このため、結果としては、すべてのチャネルが同じ話題Aを報道することになってしまう。その上、各チャネルは猫型メンタリティにしたがって、同じ話題を継続的に集中して報道したがる。つまり、マス・メディアは本質的に、一点集中になりやすい存在なのだ(メディアの選択肢が多い米国や、民放TVが少ない英国では、チャネルは専門分化しているため、この現象がおきにくい)。

一点集中と総合判断は、どちらも利点と短所を持つ。その両方を、うまく使い分けていければ、一番賢いやり方だろうと思える。しかし、我々の社会では、文化の傾向として「一点集中」を選びがちなのに加えて、マス・メディア本来の性質がそれに輪をかける危険性を孕んでいる。そのことを我々は、どんな社会的問題を考える際にも、忘れるべきではない。
by Tomoichi_Sato | 2010-02-13 18:29 | 考えるヒント | Comments(0)
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