二重貨幣を空想する

昔、「自治の東大、自由の京大」という言葉があったそうだ。戦後しばらくの事である。これは東西二つの大学の文化・校風の違いを表しているともいえる。が、同時に、京都には自治が無く、東京には自由がない、という意味にも解釈できただろう。

この言葉の真偽はともかく、日本が東西で何かと違っているのは事実である。60年安保で国中が政治的に沸騰していたころ、反体制側の人の中には、どうしても日米安保条約を政府が強行するならば、大阪に勢力を結集して「人民議会」をうちたて、東京政府の無効を宣言すればいいと主張した人たちがいたらしい。

私はときどき、このプランが実現されていたら世の中はどんなになっていただろうかと空想することがある。日本が糸魚川・静岡構造線のあたりで東西に分断され、別々の国になっている。東日本には親米的な政府が富国強兵・中央集権の武断政治を布いており、西日本には議論好きな多党制の親大陸的な政府が連邦的運営を行なっている。そんな気がする。もともと、中世初期から室町時代にかけて、事実日本には東西二つの権力が共存していた歴史を持つのだ。そうなってもあまり不思議はない。

国家権力を樹立したら、誰でもまずやるのが法律の制定と独自通貨の発行である。東が円のままならば、西側は『』でも使うか。東西の交易はどうしたって不可避だから、次第に双方に相手方の通貨が出回るようになるだろう。ヨーロッパでも国境近くの人々は、財布の中に複数の通貨をまぜて持っていることが多い。

こういう状態になったときに、私の頭に浮かぶ疑問は、こうだ:東西の通貨で、それぞれ買えるものと買えないものがあるとしたら、それは何か? 

たとえば灘の生一本は円では買えないし、信州のそばは両では買えまい。むろん、これぐらいならば別段人生に異常はないが、それだけではすむまい。米は東の方が産地が多いから、西では値段が高くなろう。工業製品はどうか。鉄や石油はどうせ資源を海外から輸入に頼っているから差はあるまいが、精密機械・電機の主力工場の位置などを考えると、西日本はやや不利である。セメント、紙などもそうだ。

一方、学芸、娯楽、教養の面になると関西の方が有利である。ノーベル賞授賞者数ではまさっている。書画や芸能の質も高い。日本画など円ではあまり買えなくなるだろう。こうしてみると、東日本は文明、西日本は文化に強いという傾向が、二つの通貨制のもとでは明確になりそうだ。なお、ここでは「人間に利便を与えるものを文明と呼び、人間にアイデンティティを与えるものを文化と呼ぶ」という言い方に従っている。

さて、ここで空想はもう一段飛躍する。文明用の通貨と、文化用の通貨が区別されて、両者が交換できなかったら、社会はどんな風になるだろうか。たとえば、会社からの給料は通貨が二本だてになる。労働生産性に応じた分は文明通貨で支払われ、他方、知的成果や教育費や責任のストレス・長時間労働などにたいする補償の手当は、文化通貨で支払われる。そんな風になったらどうだろうか。いま、両者はあいまいにされたまま、まぜこぜに支払われている訳だ。自分の給料の内、どちらの支給額が多くなるだろうか。

無意味な空想だ、と思われるだろうか。しかし、これは現実に小規模には起こっているのだ。「コミュニティ通貨」という形で、である。コミュニティ通貨というのは、地域社会において、自分が奉仕して貢献したボランティア活動の時間をためておいて、一種の貯金にできる制度だ。ただし、この「貯金」は、やはりボランティア的な仕事に対してしか使えない。たとえば老齢時の介助や介護、啓蒙やレクリエーション活動、といったたぐいのサービスにのみ、ひきかえ可能なのだ。

こうしてみると、オープン・ソフトウェア運動やインターネットというものが、「もうひとつの通貨」にいかに類似しているかに気付く。LinuxやApacheは無料である。しかしソフトウェアの世界では、大きな価値が、ある。これは、文明世界の鉄やセメント用の価値とは、たぶん少しばかり別のものなのだ。オープンソフトが、既存の会計原則の上ではどうにも扱いにくい鬼っ子であるというのも、まことに無理のないことなのである。
by Tomoichi_Sato | 2010-01-07 23:10 | 考えるヒント | Comments(0)
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