仮説検証のトレーニング

学生のころ、阿佐田哲也の麻雀小説が好きだった。博打にも無頼にも縁遠い存在だった自分だからこそ、そうした世界に憧れを持ったのかもしれない。しかし、阿佐田哲也という人は情感と理性に絶妙なバランスを持った人で、その小説にはときどき非常に理論的な戦略解説がはさまれていた。

いまでもよく覚えているのは「茶木先生」という名前の音楽教師が出てくる短編で、この人はヴァイオリン・ケースをかかえながら、下手の横好きで雀荘に通ってくるのだ。勘に頼った彼の打ち方を見て、阿佐田哲也の分身である主人公が、いう。『麻雀は一回の結果だけ見て判断の良し悪しは言えない。長い平均で見て55対45の確率があるならば、55の方に賭ける。たとえある局面ではそれが裏目に出ても、腐らずに打ち続けることを学ばなければならない。それがフォームというものだ。』

麻雀自体はひどく運に左右される不確実性の高いゲームだが、そこにセオリーとフォームという概念を持ち込んだ点が、阿佐田哲也の天才だった。一回一回の結果論で評価せず、長期的な仮説(戦略)を持って行動する。それをフォームとして身につけ、一喜一憂の感情に流されぬよう集中力を持つ。それがプロなのだという。カッコいいではないか。

私はエンジニアとなる教育を受けて工学部を卒業し、勤め人になった。なってわかったことは、給料をもらってもプロになった訳ではない、ということだ。大学ではいろいろと結構な理論を学ぶ。会社でそれを設計に用いる--そんなことは誰でもできることだ。そのうち賢いコンピュータ・プログラムがでてくれば、機械が代行してしまう(事実、工学計算も製図も、かなりの部分がそうなった)。

では、人間がやるべきこと、プロのエンジニアがやるべきことは何なのか。それは、不確実性への対応なのだ。計算条件の中にある、曖昧さや将来予測の不確実性をどう判断するか。たとえば工場のキャパシティを決めるときに、市場はまだ成長するのか飽和に向かうのか、特定の商品が伸びるのか多品種化が進むのか、その判断によって設計は大きく変わる。もう少しミクロなレベルでも、この機械は頻繁に稼働・停止を繰返すことになるのか連続安定運転となるのか、このラインの搬送量は季節的ピーク値をどこまで見越すべきか・・想定すべき不確実性はいくらでもある。

ある程度、長期的な見通し(戦略)を持ち、行動上は細部にいたるまでそれに従う。これがフォームであるはずだ。行動の結果を学び、それを見通しに反映していく。言いかえれば、戦略的行動とは、仮説検証の継続に他ならない。そして、フォームとして身につけるためには、繰り返しによるトレーニングが必須だ。そのためには、自分の判断の中にある「仮説」に自覚的でなければならない。勘も度胸も、むろんプロとしては重要だろう。しかし中心に仮説と検証の精神がなければ、経験としての蓄積にならないのだ。

仮説検証という言葉は一時期、なぜか流行った。このために、ときどき奇妙な理解をしている人にお目にかかる。たとえば、生産計画が仮説で、生産実績が検証である、という風な。とんでもない誤解だ。生産計画の中に込められた、不確実性に対する判断基準、それが仮説なのである。この製品は伸び盛りで、まだ継続して注文があるかもしれない、だから来旬も受注可能なように、あの機械は少し稼働に余裕を持たせておこう--これが仮説なのだ。

次の旬には注文が無くて、機械稼働率を下げてしまうかもしれない。では仮説は間違いだったのか? だが、それは一度限りの結果だ。結果論にこだわって一喜一憂してはいけない。それではイーペーコーにこだわった茶木先生と同じレベルになってしまう。もう少し推移を見届けてから検証する必要がある。それがフォームなのだ。

いまでも私はときどき、自分がプロといえるのかどうか、自問する。世間的には、そうだと思われているし、そうでなければ困る。だが、私は毎回の結果だけ見て、一喜一憂してないか。『自分のフォーム』といえるものを身につけているか。その中心には、どんな仮説のリストを持っているのか。そして、私の所属している集団は、はたして「プロの集団」という名にふさわしい組織なのか。私の自問自答は、まだ終わらない。
by Tomoichi_Sato | 2009-11-11 23:53 | ビジネス | Comments(0)
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