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ずいぶん前だが、わたしの好きな米国のマンガ"Dilbert"で、こんな話があった(Dilbertはハイテク企業の馬鹿馬鹿しさを皮肉った新聞連載マンガである)。主人公Dilbertの会社に、ERP導入コンサルが雇われてやってくる。彼はヘラヘラした頼りない男(というか巨大なネズミ)だが、ロクな経験もないのに腹が立つほど高い報酬を得ている。
そのコンサル氏、導入プランを説明しながら、「・・さて、この段階で古いレガシー・システムをシャットダウンし、新システムの稼働に切り替える」と言う。主人公Dilbertは、「待った。新システムがうまく動かなかったらどうするんです?」と、当然の質問をする。するとコンサルは「えーと」と言いながら書類をチェックして、「大丈夫。システムが動かなくても、ぼくの報酬には影響がないから」と、すまして答える。何のことはない、彼は雇用契約書をチェックしていたのである。それを聞いてDilbertも「俺もだ。」と答えるオチになっている。 米国の企業では、契約がすべてである。企業間が契約で動くだけではない。会社対個人の間も契約関係になっている。『雇用契約』は、日本では単なる法律上の概念だが、米国では実体であり、何か判断が必要な場合はそこに立ち返ることになっている。これは昨日今日できあがったことではない。その証拠に、1930年代の古いマルクス兄弟の映画でも、興行師グルーチョが、チンピラ役のチコを雇うときに「雇用契約書」を取りだして、二人でその契約の退屈な部分を削除しながら、紙を短冊のようにずたずたにしていく、というギャグがあった。 契約書の実質的な中核は、権利と義務の関係である。もう少し分かりやすく言うと、「果たすべき責任範囲」(Scope)と、得られる「報酬」がワンセットになっている。両者は等式で結ばれてバランスしており、片方が増えたらもう片方も増える、と皆が理解している。だから、地位が偉くなればなるほど仕事が忙しくなる。「米国企業では上の人間ほどよく働く」と言われるゆえんだ。契約型の組織においては、地位は権利(報酬)と義務(責任範囲)をむすぶ方程式の媒介項なのである。 このような組織では、誰もが雇用契約書で規定された仕事のScopeを気にする。仕事のScopeを、部門別・地位別に具体的に記述した書類は、Job Description(「職務記述書」)と呼ばれる。Job Descriptionは職種別に細かく多数用意される。わたしは中小企業診断士の資格を取る勉強をしたときに、人事管理の教科書ではじめて「職務記述書」の概念を学んだが、実物がないためにどういうものなのかうまく想像できなかった。わたしの勤務先に限らず、日本企業では一般に職務記述書が存在しない。無くてもなぜかうまく組織が回っているので、誰も必要としない。しかし、このような組織は、「自分の責任に際限がない」状況なので、英米人には理解しにくいようだ。 ただし、この雇用の方程式を逆に見ると、自分の仕事の範囲(能力範囲)を増やさない限り、報酬も上がらないことになる(いわゆる毎年のベースアップは別として)。わたしの研究室の先輩がハーバードで先生をしていたとき、研究室で雇っていた助手の人たちに、「言われた仕事だけやるのではなく、自分でやるべき事を考えてPlanを作って行動しなさい」と教育指導したところ、たしかに研究室のパフォーマンスは上がったのだが、翌年の査定時に彼らが皆、「自分はPlanningの仕事もするようになったのだから、その分、昇級してほしい」と要求してきて参った、という話を聞いたことがある。仕事ができるようになれば、scopeが拡がり、報酬も上がる。これが彼らの感覚なのだ。 これをつきつめていくと、自分の給料を飛躍的に上げたかったら、大学や専門訓練校に通い直し、新しい能力と資格を得て、別のポジションにありつくべし、という事になる。当然、転職も増えることになる。米国は流動性の高い社会なので、資格が個人の能力の品質保証をする最大の手段になる。こうして資格もどんどん増えていくわけだ(PMIを思うべし)。学校とはすべて自動車教習所のようなものであって、一定の学費を投資し、努力すれば資格(すなわち給与アップ)がついてくる。その最上クラスがビジネススクールとMBAだ、という教育観が生まれるわけである。 組織の話に戻るが、部署別地位別に細かく職務が決められており、それを組合せ積み上げることで組織ができあがる、という発想は、いわば自動車のような機械に似ている。機械はたくさんの部品から成り立っており、部品一つ一つに設計図面・仕様書がある。では、その機械を動かすのは誰なのか。機械部品を静的に組み上げただけでは、一方向に動くだけである。速度を変えたり、方向を決めたりするのは誰なのか。 それが「リーダー」であり経営者なのだ、というのが米国流の概念である。意思決定も問題解決も、すべてトップによって行われる(べきだ)と考える。そのためにはすべての情報をトップに透過的に集中しなければならない。各部門は、定められた職務(Scope)ならびに業務手順(Work Procedure)で動くようにする。そして上意下達で機敏に動く。これが組織の理想となる。軍隊みたいだが、つまり軍隊が組織の手本なのである。 いいかえれば、組織は二種類の人間から構成されるわけだ。リーダーと、部分品として働くその他大勢の人間。両者は別物である。部分品は、まさに部品であって、取り替えがきく。取替やすいように、きちんと職務記述書で規定して雇用契約する。代替可能性があるということは、つまりコモディティ(汎用品)であって、給与は比較的安くてすむことを意味する。一方、リーダーは取り替えがきかない。だから米国企業のトップは法外な報酬を得るようになっていく。 ところで、よく考えてみてほしい。あなたが英米の社会に生まれついたら、リーダーと部品と、どちらになりたいと思うか。リーダーに決まっているだろう。ぼくは一生こつこつ働く部品でいいよ、という人は少ない。(そういえば、英国ロックバンドPink Floydのヒット曲に"Another Brick in the Wall"というのがあった。あれこそ、自分は壁を構成するレンガの一個に過ぎない、という気分を表したタイトルだ)。 すると、どういうことになるか。リーダーの特徴は、自分の意見を持ち、自己主張があり、自信があることだ。つまり、組織の中のあらゆる階層の人間が、リーダーシップを発揮すべく、あれこれと自由に発想し主張したがる組織が生まれる。『部品』の枠内に収まりたがらぬ人間が増えるわけだ。実際、米国企業ではトップが不在になったり弱体化すると、マネジメント層がバラバラに勝手に動き始める。放っておけば組織の温度とエントロピーが高まっていく。これを押さえつけるために、ますます組織のコントロールを厳しくすることになる。職務記述書は厚くなりルールは厳格になる。つまり組織の「圧力」が高くなるのである。そして一層、トップの「リーダーシップ」は強くなる。 かくして、強力な本社機構と、Noは言えるがYesとは言えない中間管理層、そして顧客より上を気にする一般職員が増えていく。大企業病の発生である。大企業病を治そうとして、ますますリーダーシップが求められる。そもそもリーダーと部品の二極分化が原因だったのに。 誰も言わない事だが、ここであえて指摘しておく。20世紀の中盤まで、このような組織内圧力のビンのふたの役割をしていたものが社会にあった。それは、米国における「人種」、英国における「階級」である。有色人種に生まれたら、労働者階級に生まれたら、もう上には行けない。黒人や下層階級だから安心して部品扱いしていたのである。彼ら大多数の人間は、自分らしさを求めたければ、職場ではなく別のところで(それはスポーツだったり音楽だったり宗教だったりするわけだが)探すしかなかった。 そのような社会感覚は、'70年代を境に崩れつつある。無論、まだ厳然と残ってはいるが、もはや南部のプランテーションで黒人奴隷を使っていた時代には戻れないのだ。奴隷だった一人一人が、自分も能力を得てリーダーシップを発揮したい、と主張しはじめた。とうとう大統領まで黒人になった(オバマ氏は正確には黒人と白人のハーフだが、米国では誰もが彼を黒人と見ている)。 米国流の組織形態は考え直さなければならない時期にきている。と同時に、「リーダー+部品」型組織での、リーダーシップのインフレーションについても、再考が必要である。むろん、これらはすぐに簡単に変わるものではないだろう。とりあえず、わたし達は、日本型組織との違いにまず自覚的になるべきである。そうでないかぎり、わたし達は英米(に限らず契約社会)にある企業と協業したり、使いこなしたりすることがうまくできないからだ。 技術というものは競争と進歩の世界だとみな信じているが、案外古臭い慣習がいつまでも残ったりするものである。例えば石油の値段は1バレルあたり何ドルという言い方をよくするが、このバレルという単位はその昔石油を入れるのに使った樽の大きさから来ており、1キロリットルが約6バレルに相当する。そして石油工学の分野ではいまだにこのバレルという単位を計算にも使用している。私なども1日20万バレルの処理能力を持つ蒸留装置と言われた方が、tonやキロリットルなどの単位で言われるよりも、ピンとくる。
ちなみに天然ガスの世界では体積を測るときに立方メートルではなく、立法フィートという単位を用いる習慣になっている。実際にプラントの設計をするためのシミュレーターは、SI単位系ばかりではなく、この種の旧弊な単位系もちゃんと取り扱えるようになっている。 しかし上には上があるもので、この種の単位の中でも飛び抜けて馬鹿げたものは「BTU」と呼ばれるものではないかと私は思う。BTUはBritish Thermal Unitの略で、熱量を測る単位である。これは1立方フィートの水の温度を、華氏1°Fだけ上げるのに必要な熱量と定義されている。困ったことに天然ガスの値段は、このBTUで取引されることになっている。というのも天然ガスの組成は産出される場所によって少しずつ異なるので、体積や重さではなく、燃焼熱によってはかることになっているからだ。100万BTUあたり$5とか$10といったふうに値段を表示するのである。 さて、石油取引の業界ではWTIの価格を代表的な指標に使ったりしているが、天然ガスのスポット取引でこれに相当するのがHenry Hubと呼ばれる指標である。この天然ガスのスポット価格は昨年以来、どんどんと価格が低下して、とうとう100万BTUあたり3ドルをきるところまで来てしまった。 ご承知のとおり日本は天然ガスにかなりエネルギーを依存している。特に昨年の福島原発事故以来、今やほんの数基を除いてほとんどの原発が止まっている。その埋め合わせをしているのが火力発電所であり、特にLNG 火力である。だとしたら天然ガスのスポット価格下落は日本にとって、ありがたいことに思えるかもしれない。 ところが違うのである。昨年日本はLNGの輸入量を大幅に増やしたが、それは非常に高くついた買い物であった。 なぜか。それは日本が輸入している天然ガスの価格が、多くの場合石油の価格に連動しているからである。石油の値段は逆に昨年の間どんどん高騰し、とうとう1バレルあたり100ドルを超えてしまった。それに比例して日本の輸入した天然ガスの価格も高くなったのである。これは日本の電力会社など大口ユーザーが資源国との間で結んでいる長期契約のあり方に起因している。契約書に、ガス価格は石油に連動すると書いてあるのだ。電力会社は総括原価方式を採っているため、燃料が値上がりしても電力価格に転嫁できるだろうが、困るのは我々末端のユーザーである。 それにしても、石油の価格が上がっているというのに、なぜ天然ガスの価格は下がっていくのか。その理由は過去数年間の間に急速に進んできた資源エネルギー分野での、目に見えない革命のせいである。その名前をシェールガスという。シェールガスは地層の頁岩(シェール)層から採取される天然ガスで、従来は利用できなかったが、最近の採掘技術の進歩によって新たに利用可能となった資源である。非在来型天然ガス資源とも呼ばれる。 このシェールガスは、アメリカ、カナダ、中国、インド、ポーランドなどの国で大量に存在することがわかってきた。その量は膨大なもので、一説には、現在の消費量で換算しても200年分以上あると言われている。残念なことに、日本にはほとんど見つからない。北米での開発が最近は特に活発である。またガスと同様に、この地層に含まれる油の採取も可能になってきた。 私が学生だったころ、石油の埋蔵量はあと30年だと言われた。この数字は石油価格の上昇とともに増えたり減ったりしていたが、2000年代に入ると「ピークオイル説」が言われるようになった。つまり石油の産出量は、もはや人類の歴史において、ピークを越えて、後は減るばかりだというのである。ところがそれから10年もたたぬうちに、この非在来型資源の発見によって、埋蔵量の数字は大きく塗り替わることになった。昨年12月にカタールで開催された世界石油会議に於いても、多くのエネルギー専門家はピークオイル説の終焉を声高らかに宣言した。 こうして天然ガス生産量の増大に伴い、価格は下がってきている。だが、それだけではない。この世界には一つの重大な地殻変動が起きているのだ。上にあげたシェールガスの産出国は、いずれも中東以外の地域であることに注意してほしい。特に北米、欧州などの先進国に天然ガス資源が多い。現在アメリカ天然ガスの輸入国だが、近い将来は輸出国になると言われている。石油会社や化学会社は、もう暑い思いをして不便な中東に資源を探しに行かなくても良くなるのだ。 これはすなわち、中東世界の影響力低下、地盤沈下を意味している。今は石油の首根っこを押さえられているから、先進国も中東諸国の意向を無視できない。ホルムズ海峡を封鎖する可能性があれば、原油価格も跳ね上がる。しかし今後は、そうならないかもしれない。列強の介入が中東地域の分断を生んできたことは事実だから、欧米の干渉が薄れれば、この地にも少しは平和が戻るのかもしれない。あるいは逆に内輪もめがひどくなるかもしれない。確実なことは、この地に米国の軍隊のプレゼンスが減ることだ。彼らの関心は、もっぱらアジア太平洋地域における中国との覇権争いになるだろう。 小さな技術的進歩が、大きな社会的変化を生むことは時々ある。TCP/IPネットワークや電子メールだってその一例だろう。シェールガスの採取技術も、その一つなのかもしれない。無論、たとえたくさん見つかったと言っても、石油や天然ガスが有限であることに変わりはない。使えば、いつかは無くなる。わたし達は、いつか行き止まりになる文明ではなく、持続できる社会のために、もう少しだけ技術を工夫すべきではないだろうか。それが技術の面白さというものなのだ。 イランを巡る緊張が高まっている。欧米諸国はイランの核開発疑惑に対して制裁措置を発動すると脅かしており、一方、イランの方は石油を禁輸されるならば、ホルムズ海峡を封鎖すると言っている。ご存知の通りペルシャ湾はホルムズ海峡の細い出口を通じてインド洋とつながっている。サウジアラビアやイラクやクウェートやカタールのなどいわゆる湾岸諸国の石油の大部分は、このホルムズ海峡というボトルネックを通して運び出される。日本もかなりの量の石油を中東湾岸地域に依存しているから、万が一ここが封鎖されれた場合、エネルギーの輸入はかなりストップしてしまう。
果たして本当にイランはホルムズ海峡を実力封鎖するだろうか。私はその可能性は少ないと思っている。これはいわば伝家の宝刀、抜いてしまえばおしまいで、あとは力ずくの切り合いだけだ。実はこのところ何年間も、米英は毎年春になると決まってイランに対して挑発行為を行ってきた。イランも一旦は反発するのだが、最後は自制して武力衝突を回避してきた。危機は大体年末あたりに発生して、なぜか4月頃になると収束する。それを過ぎると気候が暑くなりすぎて、軍事行動に向かなくなるからだと言われている。暑すぎて兵隊を動かせないというのはいかにも欧米人の発想だろう。私の勤務先のように年がら年中、中東で建設工事をしている会社にとっては信じがたい言い分である。 それはともかく、最近面白い新聞記事を見かけた。UAEが内陸にパイプラインを引いてホルムズ海峡を通らずに石油をインド洋に運ぶルートを作ったというのだ。日量150万バレルの輸送能力を持っている。頑張れば180万バレル送れるはずだとも言っている。150万バレルでは日本一国で輸入している量にも満たないが、イランのおどしに対するリスク回避策としては面白い。開通するのは6月で、さらにそこから運転調整で数ヶ月必要だが、EUもイランの石油の禁輸措置までには、交渉のために半年間の猶予期間を置くと言い出しているから、あるいは間に合うかもしれない。 ほとんどの日本人にとって中東というのは遥か海の彼方のエキソチックな世界で、あまり理解しがたいと思われているに違いない。中東について私が知っていることは限られているが、それでも飲み込んでおくべき二三の事柄がある。 第1に、中東世界はアラブとイランとトルコという、三つの異なる文化圏から成り立っている。立派な教育を受けた人でも、イランはアラブの一部だと思っている人がいるが、これは例えて言うなら日本が中国の一部だと思っているようなものだ。両者は全く別のものである。確かに日本は漢字や儒教を中国から受け入れた。イランもまたアラビアの文字やイスラム教をアラブから受け入れた。しかし日本語は中国語とは違うように、イラン(ペルシャ)文化とアラブ文化とは別のものである。 アラブ世界とはある意味たしかに中国に似ている。ほぼ同じ言語を話す人々が、広大な地域に住んでいる。実際にはかなり方言が違うが、古典的な書き言葉は共通である。そして古典教育を大切にしている。しかし覚えておくべき第2のことは、アラブ人たちは実はお互いにけっこう仲が良くない、ということだ。だから団結して一つの国を作れずにいる。たぶんお互いに自己主張が強すぎるのだろう。欧米の列強はこの点につけいって、アラブ諸国を石油の利権の為に分断して支配しようとしてきた。これに対する貧しい人たちの反発が、イスラム原理主義の形をとるのである。 そして覚えておくべき第3のことは、中東の人たちは割と日本が好きだということである。これはわたしの狭い経験の中のことだから、必ずしも当たっていないかもしれないが、特にトルコではこちらが恥ずかしくなるくらい親日的な人に会うことがある。これはわたしたち自身というよりも、わたし達の父祖のおかげなのだ。中東は欧米に支配された歴史を持つ。欧米の文明の憧れもあるが、反発もあるのだ。その欧米に一矢報いた日本という国に、漠然とした期待感を抱いている。 しかし実際の中東では、日本人のプレゼンスが極めて少なく、代わりに目立つのは韓国人や中国人ばかりだ。今のわたし達はひどく内向きな人々だと思われている。外交面も、いっこうに独自性が見えない。英米とも、中国とも、ロシアとも一定の距離を置いて、中東と自分なりの共益関係を結べれば、今よりもずっと尊敬されるだろうに。日本が中東の石油ガスに依存しているだけに、いっそう残念なことだ。 もっとも、石油という戦略的資源を占有することで、世界に地政学的な影響力を行使してきた中東世界も、最近いささかパワーが地盤沈下しそうなことが起きている。それは政治的な「アラブの春」の動きよりも、実際には地域に大きな影響を与えるかもしれない。本当はそのことについて述べようと思っていたのだが、いつもの癖で前置きが長くなりすぎた。その出来事については、稿を改めてまた書こう。 久しぶりに恩師の家に皆で集まった。その時あがった話題の一つが、2年後の日本はどうなっているかということだった。いわば未来予測である。この種のマクロの未来予測はなかなか難しい。考えるべき事柄やパラメータが多岐にわたって、どれに焦点を当てるかが問題だからだ。そもそも、未来は科学的に予測できるものなのだろうか?
誰もが気になるのは景気の動向だろう。電力価格の高騰による製造業の海外移転と空洞化を心配した人もいた。原発の事故を念頭においてのことだったかもしれない。しかしわたしは疑わしいと思った。というのも、一般に製造業の製造原価において、電力料金の占める比率はかなり小さいからだ。化学プラントなどのように電力消費の大きい産業は、すでに自ら発電装置をつくるなどして自衛している。 もしも製造業の空洞化が進行するとしたら、それはむしろ円高のためだろう。過去10年間の工場の海外移転はもっぱらこの理由によるものだった。では、この円高は今後2年間で少しは解消されるだろうか。相場の予測は難しいが、逆にこう問い直してみてもいい。今後2年間で主要な基軸通貨であるドルとユーロは大きく上がるだろうか? 残念ながら今の状況を見る限り、難しいと思われる。現在のユーロの問題は、過去10年間のバブルのつけを払っているわけだ。その後始末はおそらく1年や2年ではきれいに終わるまい。一方、米国はどうか。確かに米国経済はいまだに世界一の規模を誇っているが、すでに国債の格付けはAAAから転落し、その歩みはもはや活力よりも威厳を示すものでしかない。ドルの価値が急上昇する事態は、いささか考えにくいようだ。つまり、今後2年間で、(たとえば中国の人民元が上がることはありうるだろうが)ドルやユーロが急上昇して大きく円安に動くことは、残念ながらないだろうと思われる。 それでは製造業の空洞化はますます進行し、日本経済の活力はもっと損なわれるのだろうか。それはいささか早計に過ぎる。日本のGDPに占める製造業の比率は、今や2割以下に過ぎないからだ。 製造業というのは「モノ」の形で付加価値を得る産業のことである。モノはストックしたり、海を越えて運んだりすることができる。ところがサービス業は違う。このサイトでも繰り返し述べたように、サービス業というのはリソースを提供して付加価値を作る産業だ。リソースというのは人的資源だったり物的資源だったりするが、どちらも現場性の強いものである。サービスの特徴は在庫が利かないことで、つくり出した現場で消費するしかない。いいかえるならば、サービスというのは海外で作って国内に持ち込むことが難しいものなのだ。だから現在の日本経済の主軸である第三次産業が空洞化することはほぼありえないだろう。 念のために言うが、日本経済が低調といっても、それは家計と中小零細企業が苦しいのであって、大企業の内部留保は意外にもかなりの水準を保っている。問題はそうした大企業がため込んだ何10兆円ものお金を、国内に再投資しないことである。国内に工場を作ったり、店舗を作ったりすれば必然的に雇用を生む。それをしないで海外に投資したり(鉱物資源の場合などは仕方がないが)、外国債券を買ったりしているから、国内の景気が上向かないのである。景気が良くないために国内外の投資を手控える。その結果ますます仕事が生まれなくなり、消費が落ち込む。一種のダウンスパイラルだ。 それにしても、製造業が雇用の吸収力を失いつつある現在、若い人はどこに働き口を見つけたらいいだろうか。この1、2年で目立つ傾向は農業への回帰である。大学の農学部への受験者が急増しているし、アグリビジネスの関心も高い。この傾向は今後も当面続くに違いない。広大な耕作放棄地があり、農業法人の組織化も高まっている。日本にはまだ古臭い規制や組織や利権だ残っているため、若い人たちが参入し、成功するまでにはまだ多少の時間がかかるだろうが。 農業と同じように、職人的な手仕事への回帰の流れも続くに違いない。日本の各種専門学校は世界的にみても、実はかなり高い水準の教育をしている。さらに大学を出たって手工業の仕事についてもいいじゃないかと思う人が増えている。私もそう思う。工場で高い品質を支えてきた高卒の人たちがいなくなる代わりに、より高い教育を受けた人たちが旋盤を回すようになるのだ。大量生産から個別生産への変化に、ちょうど付合している。誰もがネクタイを締めてホワイトカラーを目指す時代は終わりになるのだろう。 もちろん、こうしたことはすべて、人々や組織が合理的に振る舞ったら、という前提に立った予測である。問題はその前提が成り立つかどうかだ。 というのは2012年の現在、世界は政治の季節に入っているからだ。アラブの春に始まる中東世界の混乱、欧州ユーロ圏における分裂の危機、そしてアメリカの大統領選挙。東アジアでも朝鮮半島に軋みの音が聞こえる。 政治の季節というのは、人々が党派に分かれて権力争いをする時である。言い換えるならば、人々が目的合理性よりも感情に動かされる時代である。日本もこの調子で失業率が高くなっていけば、政治的な感情の波にのまれていくだろう。おそらく現在の二大政党制の枠組みは破綻して、ポピュリズムが政治の中心を牛耳ることになるかもしれれない。そうなれば、政策は安定よりもドラマティックな変化を志向し、改善よりも破壊的な出直しが好まれるであろう。あまり楽しい予想ではないが、そうなる可能性は十分にある。 それを防ぐにはどうしたら良いか。意外に思われるかもしれないが、そのためには皆が、リスクのある将来を予見することである。長らく私たちの社会は、安定志向で動いていた。安定志向=『安全第一主義』は、リスキーな未来予測を回避する思考方法である。結果として、多くの組織では変化のためのチャンスに見過ごしてきてしまった。現在の沈滞と混沌は安定志向がもたらしたものだ。 あるべき姿を予見してそこから逸脱する可能性をリスクとして考える。リスクの裏側には、チャンスがある。チャンスにかけて決断する。そしてその決断が正しかったことを証明できるように努力するのである。これが未来予測の実践的な効果だ。 あるべき姿を考えるためには価値観が必要になる。だから未来予測は科学ではありえない。未来は予測するのではなく作り出すべきものだ。それは、マネジメント的な技術なのである。
皆様、明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしく。
このところ多忙で、あまり書評が読んだものに追いつかずにおります。そこで、昨年1年間に読んだ中で、もっとも感銘を受けたベスト3を、短評をつけてここに掲げる次第です。 いずれも三つ星です。 ★★★ リアル・シンデレラ 姫野カオルコ リアル・シンデレラ 2011/02/12 読了 最近、いやこの10年間に読んだ中でもっとも優れた小説。読んで本当に良かった。姫野カオルコという作家は誤解されやすい人だが、じつは知的で誠実なモラリストだと前から思っている。本書は、その彼女が個人的にもっとも辛かった時期に書かれたようだが、小説には苦難の片鱗も感じさせない。昭和時代の地方都市を舞台にした、ごく普通の人々による、魂の浄化の物語である。強くお薦めする。 ★★★ 137 - 物理学者派売りの錬金術・数秘術・ユング心理学をめぐる生涯 アーサー・I・ミラー 137 物理学者パウリの錬金術・数秘術・ユング心理学をめぐる生涯 2011/06/17 著者は(有名な劇作家とは別人で)イギリスの物理学者・科学史家。ヴォルフガング・パウリは20世紀現代科学における知的巨人の一人だが、非常に謎めいた人でもある。パウリの排他律原理、ニュートリノの予言、そしてCPT対称性定理など、彼の輝かしき業績を無視して現代の物理学は語れないが、ユダヤ人キリスト教徒として生まれた彼の魂の彷徨は誰も知らなかった。その迷いからの導き手になったのは、意外にも同時代のスイスの心理学者ユングであった。著者は残された手紙や文献を丹念に追いかけて、この二人の互いの影響をさぐり、パウリが生涯をかけて追いかけた微細構造乗数「137」への執念を描く。良書である。 ★★★ わたしの名は「紅」 オルハン・パムク わたしの名は「紅」 2011/07/24 現代トルコ文学のトップ・ランナーであり、2006年度ノーベル賞受賞作家であるオルハン・パムクの代表作。最盛期を過ぎつつある16世紀のオスマン・トルコを舞台に、イスラム細密画家たちの間で起きる謎の連続殺人事件を追う。細密画をめぐり、イスラム原理主義(この当時からあったのだ)の脅迫と、西欧美術からの影響の桎梏に引き裂かれる魂の悲劇を、著者は共感を込めつつ緻密に描く。それにしても作家の想像力とはここまでの拡がりを持ちうるのか。トルコの枠を超えて、まさに現代文学の最先端である。 Merry Christmas! 一日の始まりをどこにとるかは、地域や分野によって様々だ。わたしたちは現在、太陽が南中する正午のちょうど裏側、深夜に一日の始まりをおいているが、このような習慣は各戸に時計があるのが当たり前になってきた近世以降のものに違いあるまい。日時計や水時計しかなかった中世以前にとって、深夜に一日の切り替わり点を置くのは不便だったはずだ。だから、日の出や日没のように、誰の目にも明瞭な気象上のタイミングを選ぶのが自然だろう。 古代の中東・パレスチナでは、一日の始まりは日の出ではなく日没だった。夕暮れになると新しい日が始まるというのは、わたし達の習慣からすると奇妙な感じがするが、これは慣れの問題なのだろう。だからクリスマス・イヴというのは、まさにクリスマス(降誕祭)の日の始まりであって、祝うのは当然なのだ。クリスマスに限らず、大晦日の夜をNew Year Eveと呼んだり、そのほか何かにつけ前夜祭を祝う習慣が西洋人にあるが、これは一日の始まりを日没とした中東の伝統を引きずっているわけだ。 一日の始まりもさることながら、新年の始まりのタイミングを今のような、冬の途中に置く理由が何なのか、わたしは時々不思議に思う。太陽暦ならいっそのこと冬至に合わせればよいと思うのだが。ちなみに1月1日もキリスト教では祝日に当たるが(だから西欧諸国ではその日だけは仕事もお休みだが)、わざわざそれを選んで新年にしたのだろうか。南半球では真夏の直前に新年が来るわけだが、これもどういう気分なのか、うまく想像できない。 今年は家族の事情のために、年賀状ではなく欠礼状を用意する状況になった。それはともかく、欠礼状は文面に悩む必要があまりない。しかし知人友人には、賀状をどういう文面にしようかちょっと迷っている、という人が多い。なんだか単純に“謹賀新年”でもないしなあ、というのである。その気持ちはよく分かる。あれほどひどい災害のあった年を過ごし、新しい年はせめてもっと良い事があるように祈るのは当然の気持ちだ。しかし、謹賀新年だけでは、気持ちに切実感が足らないのである。 今年1年のことを思い出そうとすると、たしかに3月のあたりで記憶がぽっきり折れて、時間が続いていないように感じる。むろん、日誌を読み返せばたしかに日々の記録はとってある。だが、あの震災と津波と原発事故の恐ろしい日に、もう日本がすっかり変わってしまったのだと感じた人は多かったはずだ。ちなみに、わたし自身がこの1年間、何をどう考え、感じてきたのかを、このサイトに書いた記事からたどって振り返ってみると、こうなる。 1月の最初は3つのリーダシップ・タイプを論じて始まったのだった。それから、仕事の最小単位であるアクティビティの構造を理解するレクチャー。そしてビジネスにおける「政治的」であることの意味を考える話。これが2月末だった。ついで入学試験の不正に絡んで、人材のサプライチェーンの話題。 ここで震災が起きたのである。「休めない人々」は翌3月12日だった。それからあの馬鹿げた「計画停電」の日々。それを批判するため「計画技術者の目から見た『計画停電』」を書いた。さらに「危機における技術のマネジメントとは」「安全第一とはどういう意味か」あたりまでは、一般論として名指しは避けたが、どこの誰のことを念頭に置いて書いたか、読まれた方にはおわかりだと思う。 「『正解のない問題』を考える能力」は多くの方の目に触れた記事だった。ここら辺からわたしは、現代日本の社会におけるマネジメント能力の貧困に目を向けるテーマを多く選ぶようになった。「トラブルの『技術的解決』と『マネジメント的解決』はどう違うか?」「「責任」には三つの意味がある」「ヒノモト家の人々 - マクロ経済学的素描」「知識労働、肉体労働、そして『感情労働』」などがそれである。しかし、こういう記事だけでは堅苦しくなってしまう。そこであえて若手向きに「仕事のレポートはこう書こう」や「新任リーダー学・超入門」シリーズをはさんだりもしたのである。 首都圏における生活が震災の直接の影響を抜けて、なんとか「日常生活」化してきたのは、暑い夏の頃からではなかったか。わたしも、自身が主査を務める「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」をスケジューリング学会で立ち上げ、そのほか講演依頼が9月10月にいくつか重なったりした関係上、なんだか多忙な秋だった。その講演テーマがリスクと問題解決に関わるテーマだった関係もあって、撤退に関する「ストップ・ロス・オーダーと撤退の知恵」「埋没コストの原理、または撤退の判断はなぜ難しいか」「失敗の無限ループから抜け出すマジックナンバー『5』」のシリーズを書いたりした。 「そんなものを戦略というのですか?」も、多くの読者を集めた記事だった。どうも、ネットの世界では『戦略』というキーワードが人気らしい。わたし自身は、あまり積極的に使う言葉ではない。ところがどういう巡り合わせか、11月から経営企画部門に移ることになり、いやでも毎日その言葉に直面することになってしまった。 こうしてみると、わたしのこの1年間のテーマは、マネジメントとリスクとの二つの焦点をめぐって楕円のように周回していたような気がする。 それにしても、ちょうど1年前の12月に、わたしはチュニジアの首都チュニスに日本アラブ経済フォーラム出席のため出張していたのだった。その時は、まさか29年間続いていた長期政権が、その直後わずか29日間で崩壊することになるとは思いもしなかった。わたしの観察眼のなさと言ってもいいが、あのような政治的地殻変動を予見できた専門家が、他にどれだけ居ただろうか。小国チュニジアで起きた地滑りは、津波のようにアラブ世界を襲ったのだった。 そのような潮流は時を同じくして、世界のあちこちで発生している。この1年間、ひどい変動に揉まれなかった国の方が少なかったくらいだろう。世界は今、政治の時代に移ろうとしているように見える。経済の時代が、ここしばらくは続いていた。経済が穏やかに安定している時には、政治は動きを止めていく。しかしその淀みの中でいつの間にか不条理と不満が発酵していく。そして経済が一旦つまずくと、民意が沸騰して政治の時代に表裏反転してしまう。 経済の時代は、ルールの枠の中で競い合う経済合理性の、言いかえれば計算づくの理性の時代である。そこでは予測が成り立ちやすい。あいにく、政治の時代はルールを作るための闘争の時代であり、感情の時代になる。予見しがたい、リスクの大きな時代と言ってもいい。 そうした時を生き抜くために必要なことは、たぶん二つなのだろう。一つは、変化に機敏に対応できる『勇気』を持つこと、もう一つは、ゆるがぬ道しるべとなる『価値観』を持つこと、なのではないか。それはつまり、今この瞬間を大切に生きろ、ということかもしれない。二千年前にパレスチナで生まれ、激動の時代を走り抜けた賢者も言ったというではないか、明日なにを食べ何を着ようかと思い煩うなかれ、一日の悩みは一日にして足れり、と。 あの恐ろしい災害の後の時代を、わたし達は生きている。生き残ったわたし達に託された宿題は何だったのか、新年に移り変わるひととき静かな今の季節に、もう一度考えなくてはならない。そのためにも、ひととき、この地上が平和でありますように。 わたしは株はやらない。自社の株ももっていない。内部から見ていると、勤務先の株価は内実を正確に反映しているどころか、ずいぶん奇妙なきっかけで大きく振れたり、いいトピックなのに全然上がらなかったり、実に不可思議である。だから他社の株価だって、ずいぶん実質とは関係のないところで動いているのだろうと想像している。価格が実質と関係の薄いところで上下するものを取引して利をねらう行為は、一種の賭博ないしゲームであろう。もちろん、賭博やゲームがいけないとは言わない。ただ、自分はそうした事柄は上手でないのを知っているから、手を出さないだけだ。
それでも、証券業界のアナリストがわたしの勤務先を評価しているのを読むと、さすがプロだと感心する部分はある。プラント・エンジニアリング会社というのは日本に類例が少なく、しかも、ものづくりや販売力ではなく「プロジェクト・マネジメント」で稼ぐ業態である。普通の人には分かりにくいはずの業態を、市場・競合・リソース・技術などの要素からうまく分析して、それなりに長所や弱点などをつかみ出している。 アナリストの分析でもう一つ気持ちがいい点は、経営者の個人的な資質であまり説明しない事だ。というのも、巷間耳にするサラリーマン達の企業批評は、かなりの部分が経営者批評だからである。歳の若さから学歴や気質、そして頭の毛の量の多寡まで、あれこれが批評のネタになる。あたかも企業の業績はもっぱら、社長個人の資質で決まるかのようだ。たしかに経営者の能力が、組織のパフォーマンスに与える影響は大きい、とわたしも思う。しかしそれで事象を100%説明するのは、関ヶ原の合戦の勝敗を徳川家康と石田三成の性格論だけで説明するようなものではないか、と思う。あるいは日露戦争の勝敗を、ステッセルと乃木希典の性格の違いだけで説明するような。 いや、チームの戦績は指揮官によって決まる、たとえば長く不調だったチームが名監督を得てめざましい成績を上げる例は、スポーツの世界に多いではないか--そう、反論される向きもあろう。たしかにその通りだ。だが、スポーツの世界では、1チームを構成するメンバー人数はせいぜい数十人程度であることを忘れてはならない。中小企業診断士のベテランの先輩達によると、企業は社員数が200~300人を超えるところで、質的に変化するという。それ以前は、社長個人がすべてを見渡し、取りしきることができる。ところが300人以上になると、組織と仕組みで動かしていかないと、きちんと機能しなくなるのである。企業組織というのは、そのサイズのあたりに、質量転化の臨界点があるらしい。 サラリーマンの企業批評でもう一つ盛んに取り上げられる論点は、『製品』である。これはたとえば、iPhoneのような魅力的な製品を日本企業がなぜ作れないのか、といった論調に現れる。良い新製品を作れば、業績は必ず上がる--こうした確信は、メディアを含め広く受け入れられているようだ。わたしのように個別受注ビジネスで生きている人間から見れば、これはあまりにも「大量見込生産」時代の思想に感じられる。わたしの勤務先だけではない、日本にはBtoBの受注生産の会社は数え切れないくらいあるはずだが、世間の論調はもっぱら、家電や自動車といった、“製品”が直接消費者に受け渡されるビジネスに焦点がむけられている。良い新製品が生まれれば、そして良い経営者を得られれば、日本企業は復活する。これがわたし達の聞かされる、国民的信条ないし子守歌であろう。 新製品、経営者--こうした事柄は、企業の本社レベルで決まる、マクロな論点である。多くの人は、このマクロ的視点から、企業を評価したがる。他方、全く逆の視点から企業業績を捉える人たちもいる。その人達のキーワードは、『現場力』である。現場の組立工程で、作業員が部品を手にとるため横に一歩踏み出すところを、レイアウトを工夫して半歩ですむようにすれば、1個あたり0.3秒の作業時間のムダとりができる。年に30万個を扱うなら、合計25時間分の労賃の原価削減になる。こうしたミクロな努力の積み重ねこそ、製造業の業績を左右する。お金は現場に落ちている。現地現物を見て考えろ。これこそ、現場主義の人たちの信条である。 わたしが見たところ、日本の少なからぬ工場の現場は、たしかにまだまだ改善の余地がある。かりに現場改善の努力を積み重ねて、製造原価を3%下げることができれば、(意外に聞こえるかもしれないが)それは画期的である。というのは、企業の業績というのは、たいてい±5%程度の差で勝敗が決まるからだ。同業他社と3割も4割も価格が違うことは、成熟した産業ではあり得ない。わずかなマージンを取るか取らないかで、受注確度が変わる。そして受注量が変われば、採算点も変わるのだ。事業部にとって、赤字か黒字かは天と地ほどの差がある。その差が実際にはわずかでも、利益-2%と+3%では志気は大違いなのである。 しかし、このサイトの論調を見てこられた読者の方はお気づきだろうが、わたしは現場改善だけが業績の鍵だ、という見方には批判的である。トヨタを真似て、いわゆる“JIT生産”を導入すれば問題解決との楽観論に、わたしは警鐘を鳴らし続けてきた。前提条件の違いを無視して他社を真似れば、別の大きな問題を生むことの方が多い。どうしてそうなるかといえば、ミクロな現場主義者達が見落としている点があるからだ。ただしそれは、マクロな経営者の資質や製品開発力でもない。マクロとミクロの中間スケールにある、組織を動かす生産システムの問題である。 生産システムとは、繰り返し述べたように、「需要情報というインプットを、製品というモノに変換してアウトプットする仕組み」のことである。これは営業-企画-開発-設計-購買-製造-物流といった、企業内の機能の連鎖によって実現される。そのシステムが、一貫したプランの元に、整合性のある動きをして、矛盾は即座に自己解決しながら進むなら、それは「まとも」な生産システムである。そのシステムが、互いに分断されたプランと指標のもと、他とかみ合わない動きをして、問題は抱え込まれ伏流していくなら、それは「普通」の生産システムである。企業というのは面白いことに、「普通」なシステムでも市場が右肩上がりの時には成り立っていく(だから「ダメ」と言わずに「普通」と呼んでいる)。違いが見えてくるのは下り坂になったときだ。「まとも」なシステムの方が、ずっと弾力性が高いからである。 そして、このような中間スケールでのシステムの質は、有価証券報告書や企業の組織図だけを見たって分からない。また、現場の整理整頓レベルだけを見たって分からない。情報とものの流れを丹念に追って、決断がどのポイントでどういう基準でなされるかを分析する必要があるのだ。こうした仕事をするのが、中小企業診断士などの生産系コンサルタントである。もっとも診断士にもいろいろな得意分野があるし、逆に資格がなくても立派なコンサルティング能力を持つ人も多い。 わたし達、中小企業診断協会「生産革新フォーラム」の仲間が、あえてこの時期に『“JIT生産”を卒業するための本』を世に問うたのは、こうしたミッドスケールの問題点があまりにも見過ごされているからであった。人は足腰の筋力だけ鍛えても、スポーツの良いプレイヤーにはなれない。頭だけ良くても、やはり良いプレイヤーにはなれない。五体が機敏に無駄なくちゃんと反応してこそ、いい成果が出せるのだ。日本企業の問題は、マクロでもミクロでもなく、ミッドスケールのシステムで生じているのである。 このたび、中小企業診断士の仲間と共著で、新刊を出しました。
“JIT生産”を卒業するための本 (日刊工業新聞社) ![]() 本日から書店に配布が始まりました(Amazon.comではまだ予約対象ですが、近日中に販売中にかわるはずです)。 本書の内容は、帯にある問いかけの文句が象徴しています: 「“トヨタ自動車の生産方式”と、うちの“トヨタ生産方式”は、どこが違うんだろう?」 本当に、どこが違うのでしょうか? トヨタ流のJIT生産を真似しようとしたのに、なぜうまく動かないのか、どうして儲からないのか? その答えが、ここにあります。 JIT生産に苦労している、すべての生産実務者に贈るつもりで書いた本です。書店で見かけたら、どうかお手にとってごらんください。 佐藤 知一
10月にPMI日本支部の「PMI Japan Festa」に呼ばれて、『海外プロジェクトとプログラム・マネジメントの勘所 ~ リスク戦略を考える』という、はなはだ大げさなタイトルの講演をさせていただいた。その講演では、日本企業が直面している“海外プロジェクト”で陥りやすい問題点や、過去の成功体験がなかなか通用しない理由、そしてリスクに対する考え方などを、ざっと自己流に披露したわけだが、その中で、こんなクイズを聴衆の皆さんに出して考えてもらった。
問題のシチュエーションは、こうである:「外国企業から受注した大規模プロジェクトを開始して6ヶ月。設計がほぼ固まったので、仕様にもとづき外注製作の見積をとったら、なんと当初予算より5割増の金額がオファーされてきた。予算は、プロジェクト開始前に概略仕様をもとにベンダーからとった参考見積で決めたものだ。しかしこのベンダーいわく、仕様拡大ならびに資材価格高騰のため、元の値段ではできないという。3社に引合いを出したが、いずれも同じような回答だった・・・」 さて、あなたならどうするだろうか? (1)予算がないので、意中のベンダーに対し「指し値」で交渉する (2)発注経験はないが、安いと評判の新興国ベンダーをみつけて発注する (3)3社の中から発注先を選び、客先には追加予算を請求しない (4)顧客に状況を説明し、もっと予算をくださいと要求する (1)は、発注者が下請ベンダーに対してかなり強い立場をもっている時に(しばしば建設業などで)行われる方法である。(2)は製造業で最近かなり行われ、とくに中国ベンダーからの調達が多いようだが、品質や納期トラブルなどで痛い目にあったケースも聞く。わたしの予想では、聴衆の多くは(1)か(2)を選び、残りがやむを得ず(3)を選ぶだろう、と思っていた。 ところが驚いたことに、2/3近くの人が、(4)「顧客にもっと予算をくださいと要求する」に手を挙げたのだ。つまり、分かりやすく言えば“お客に泣きつこう”という行動を選択するというのである。実は半年ほど前にも、大阪で別の講演をした際に、同じクイズを出したことがあった。その時も半数以上の聴衆が(4)を選んだのだが、“うーん、大阪ってやはり、浪花節が通用する世界なのかな”と思った。しかし東京でもほぼ同じ結果が出て、ひどく考え込んでしまった。 ちなみに、このクイズをわたしの勤務先の若手エンジニア達にしたら、ほぼ間違いなく、こう反応するだろう。「その仕事はどういう契約形態ですか? もし一括請負契約なら、(3)を選ぶしかないですね」。わたしの勤務先はエンジニアリング会社だが、海外顧客向けのプロジェクトが85%以上である。海外プロジェクトでの普通の感覚はこれで、おそらくライバルの同業他社に働く若手だって、同じ答えをすると思う。別にプロマネでなくても、設計専門部のエンジニアの、これが普通の態度である。つまり、仮にお客に泣きついても、“それは君たちの責任範囲だ”と言われて話はお終いになるから、(4)は考慮の対象に入らない--そう、みな考える。 海外、海外といっても広うござんすで、日本以外の事情を、一律でこうとは言えないだろう、という反論はもちろん分かる。しかし今日、欧米相手でも、アジアや南米の新興国相手でも、その契約的ふるまいの規範はほとんどの場合、英米がこの1世紀ほどの間にしいてきた路線の延長上にある(中国だけは多少違うといってもいいが)。それはすなわち、「自分は自分、他人は他人。協力はするが、お互いの合意した責任範囲は、互いが責任をとる」という原理に立っている。自他を区別する原理、と言ってもいい。自分と相手の間には、透明だが固い壁のようなものがあって、それで領域が仕切られている。その各自の領域をScope of Workと呼ぶ。PMBOK Guide(R)にいうScope Managementとはここから出てきた概念である。 ただし、ここで言う責任とは「遂行責任」である。お金の支払いについては、大きく一括請負契約と、実費償還契約に分けることが出来る。一括請負契約のもとでは、先に述べたケースで、途中で思わぬ見込み違いがあっても、予算追加は顧客に要求できない。自分の責任でベンダーを選び、赤字や納期遅延は自分の負担になる。 ところが『実費償還契約』ならば、上のケースでは客先の承認を条件に、5割増の費用での発注を認めてもらえる。ただし、わたし達はサービスの人件費をもらえるのみである。というのも、実費償還契約では発注は客先自身の行為だからだ。当方のscopeは発注先の評価選定というサービスに限られている。以前も書いたが、一括請負契約は食べ物屋で言えば「おまかせ」であり、実費償還契約は「おこのみ」型である(厳密に言うと両者の間にはいろいろなバリエーションがあり得るが、ここでは省略する)。 米国では、いろいろな経緯から、実費償還契約がけっこう幅をきかせている。これはscopeに曖昧性がある場合に、客の側が注文を選べる自由度を持ちたいからだ。ただし全体としては、どちらかといえば一括請負契約を好む傾向がある、と米国人から聞いたことがある。 一方、日本のビジネス慣習では圧倒的に一括請負契約が多い。しかもこの一括請負契約、じつはscopeの区分が曖昧で客先はいろいろ注文をつけたがる、という代物である。あとで注文をつけるくせに、金額はいったん決めたら滅多なことでは追加を認めない。つまり、顧客と受注者側を仕切る壁は、ひどくソフトでウェットな壁なのである。「すり合わせ型」といってもいい。自他の区別と責任範囲の概念は、ひどく希薄である。それでも受注者側がついて来られたのは、ある局面で損失を出しても、相手に泣きつけば、先々の取引の中でなんとかカバーしてあげよう、という暗黙の合意があったからである。 そのような関係は、高度成長からバブルまでの右肩上がりの時代には、たしかに成り立った。しかし低空飛行のこの20年間は、もはや“先々の取引”の保証がなくなってきたはずだ。にもかかわらず、両者の意識はなかなか変わっていないことを、最初のクイズの回答が示しているようだ。困ったらとりあえず客に泣きついてみる--この意識の根強さに、わたしは驚いたのである。この意識のまま、海外プロジェクトに取り組むのは危険きわまりない。見えないが固い壁にぶち当たって、玉子みたいにつぶれてしまうのがおちだ。しかも、海外の現場でプロマネがそうした困難にぶち当たっても、本社のマネジメント側はちっとも問題のありかが想像できないし、解決も支援できないのである。 英語教育者として知られた中津燎子氏が以前、本の中で書いていた言葉がある。ある知りあいの若い女性から、“国際人としての心構えの基本”をたずねられたのだった(今だったら、“グローバル人材の条件”という質問になっているだろう)。それに対する答えは「あなたが朝、食卓に座って、お母さんがお茶を入れてくれたら、『ありがとう』と言いなさい」というものだった。あなたと、お母さんは別人である。ほかの人があなたに何かをしてくれたら、(たとえそれが無償であれ有償であれ)まず、Thank youと言う。自他を区別する--それが世界での基本である。ちっとも大げさなことではない。そういう意味の回答だったが、はたして質問した女性には、その意味が本当に分かったかどうか。 互いに別の、自立した者同士が(個人だろうと法人だろうと)、何かを協力しようと合意したら、それぞれの責任範囲を果たすべし、というのが世界の常識である。わたしの勤務先の大先輩と最近お会いしたとき、「海外の顧客の方が、日本の顧客よりも、実はずっとやりやすい。なぜなら、そこにはルールと線引きがあるから」という意味のことを言われていて、わたしも同感だった。これ自体は、日本でだって常識であるはずだし、あるべきだ。ただ発注と受注という関係をとったとき、なぜかそこに「上下関係」みたいな封建制の遺物的な意識がいつの間にか混入してくる。同時に、上のわがままを下は受け入れ、下の面倒を上が見てやるという、親子か男女関係みたいなウェットなふるまいが期待されるのだ。 日本的慣習の全てがまずいとは、わたしは決して思わない。しかし、もし海外にビジネスの活路を切り開きたいと考えるなら--他者を自分の延長のように考える契約感覚からは、そろそろきちんと卒業すべきだと思うのである。
「マフィア - シチリアの名誉ある社会」 竹山博英・著
1987年3月。早春のパレルモは、街中が奇妙な緊張感ではりつめていた。通称「要塞法廷」と呼ばれる、異常なほど堅固な建物の中で、476人ものマフィアの大裁判が行われているのだ。その中には何人かの大ボスも含まれている。彼らの仲間であった一人の麻薬王が南米で逮捕されたとき、マフィアの鉄則であった「オメルタ」(沈黙の掟)をやぶって、組織の全貌を告白してしまったことがきっかけであった。 シチリア・マフィアの正式名称はCosa Nostra(我らのもの)という。「組織への入会者は事前に、『名誉ある男』にふさわしい勇気の持ち主であることを示さなければならない。ふつうは殺人か、大きな犯罪である。」(p.26)。そう、マフィアとは名誉ある男達の社会なのである。 マフィアの組織は、18世紀後半の農村から発しているらしい。地中海の肥沃なシチリア島は長らく、不在地主の支配する土地だった。農村部で、土地貴族の領地を守る武装集団として生まれた「名誉ある友愛会」が母体である、という。つまり、大土地所有者の農地管理人である。彼らはイタリア統一後の普通選挙制を背景に、暴力的な集票組織として政治とつながっていった。 ところで、面白いことにシチリアでは、ファシズム政党は大きな支持を得られなかった。「ファシズムは北イタリアで、社会主義を打ち破る暴力装置として、資本家や地主などの保守層に支持され力をのばした」(p.156)。そして政権を取ったムッソリーニは、将軍を派遣してマフィアの大弾圧に成功するのである。ところが皮肉にも、第二次大戦でアメリカ軍は「解放者」としてシチリア島からイタリア半島に侵攻する。そのときに、マフィアの武力を利用するのである。「シチリアの人々は、ファシズムの統治下で窒息状態にあった各地のマフィアのボスが、アメリカ軍によって復活するさまを驚きの目で見ることになった」(p.168) そのマフィアは権力と結びついてシチリアで肥大化するが、その過程で次第に自らを変質させていく。似たような事情は、ナポリにおける同様の犯罪組織カモッラでもおきた。「キリスト教民主党は影でカモッラと手を結んで、(テロリストである『赤い旅団』に拉致された)人質解放を模索しながら、テレビや新聞では、テロリストと絶対に取引しないと言明していた」(p.224)。本書である意味、一番面白いのは、獄中のカモッラのボスとのインタビューである。「詩と思索」という著書さえある彼は、反カモッラ活動をしている神父を評して、こう言う。“盗むな、憎まず愛せ。確かに美しい言葉だ。だが美しい言葉は女をベッドに誘うときにしか役に立たない。” マフィアやカモッラは、南イタリアが長くフランスやスペインの支配下にあって、不在地主と農民の二極分化した厳しい社会構造が歴史的に生みだした、圧政のための暴力装置である。彼らにはイデオロギーはない。あるのは名誉と金と力への執着だ。この三つの要素が支配する社会ではどこでも、ふつうの人々は、最低限の尊厳ある生活をするために、シチリアの人たちと同じように長く困難な闘いを強いられるのである。
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