工場計画論(4) 4つの生産形態
前回は、「製品(の在庫)をどこに置くか」という話題をかいた。今回は、「原料や部品の在庫はどこに置くべきか」という話を書く。

あれっ? タイトルと話の中身が違うじゃないか--そう思われた方もあるかもしれない。『生産形態』ってのは、すなわち受注生産か見込生産か、という分類だろ? 

だが、これでいいのである。生産形態とは、「在庫を何の形で、どこに用意しておくのか」という問題に対する対処方法の種別に、一対一で対応しているからだ。

議論に入る前にまず、理解しておいてほしいことがある。生産システムとは「需要情報というインプットを、製品というモノ(あるいは製品に実現された付加価値)に変換してアウトプットする仕組み」を指す、という基本概念である。工場設計論とは、すなわち生産システムの設計論に他ならない。

その上で、「見込生産」からおさらいをしておこう。見込生産とは何か。それは、製品需要を“見込んで”生産する形態である。JISは、生産者が、市場の需要を見越して企画・設計した製品を生産し、不特定な顧客を対象として市場に出荷する形態、と規定している。ここで重要なポイントは「需要の見込み(demand forecast)」、「自社設計の製品」、そして「不特定顧客」である。

見込生産は、実需が発生する前に、製品を作ってしまう。必然的に、「製品在庫」が生まれる。この在庫は、まだ特定の出荷先に紐づけされていない(未引当在庫)状態にある。不特定顧客向けなのだ。需要に応じて、その製品在庫の中から引き当てて顧客に納入していく。見込生産を英語でMTS=Make to Stockというのは、この理由による。Forecast Productionなどとはいわない点に注意してほしい。

日本語の「見込」というのは、なかなかフレキシブルで含蓄の深い言葉である。英語に直すとForecastだが、forecastには「予測」という語も対応する。予測の方が科学的で客観的な語感がある。しかし「見込」というと、なんとなく人間の判断がこもった匂いもするではないか。計画=予測+意志決定、という式から考えると、見込は予測より計画の側に近い。

これに対して、受注生産とは、顧客が定めた仕様の製品を生産者が生産する形態、とJISは規定する。だが、これを読んで、あれっ?と感じなかっただろうか。見込生産の定義と対称型になっていない。「不特定顧客」や「需要の見込み」はどこへ行ったのか。完全を期すならば、特定な顧客を対象に、確定した需要に応じて、顧客の要求・設計した製品を生産し出荷する形態、としなければおかしいではないか。

そう。実はここに、日本の生産管理思想の混乱した点が見えるのだ。たとえば、考えてみてほしい。年に数台しか売れない、ごく特殊な仕様の超高級スポーツカーがあったとする。これをディーラーに買いに行くと、“注文をいただいてから工場で生産にかかりますので、あと3ヶ月半お待ちいただくことになります”と言われる。これは受注生産なのか見込生産なのか? JISの定義では、どちらにも当たらない。

受注生産を英語では、MTO=Make to Orderと呼ぶ。こちらの方が直接的で分かりやすい。注文に応じて生産する。だから超高級スポーツカーはMTOである。あるいは、あなたは海運王で、豪華客船を一隻造ってくれ、と造船会社に注文する。すると2年後に、それは堂々とドックから進水式を挙げるだろう。こちらは、あなたの要求に応じて、生産者が設計したものだ。これも受注生産のはずである。

実は、受注生産は、その設計行為が注文後の作業に含まれるかどうかで、2種類に分かれるのである。すでに出来上がっている設計にもとづいて、単に確定した需要(=注文)に応じて生産に取りかかるタイプを、「繰返し受注生産」とよぶ。超高級スポーツカーは、これである。

一方、顧客の要求仕様にもとづいて、個別に設計してから作る、豪華客船のようなタイプを、「個別受注生産」と呼ぶ。「個別受注生産」を別名、「受注設計生産」とも呼ぶ。英語ではETO=Engineer to Orderである。プラントなどで用いる圧縮機・冷凍機など産業機械類も、多くはこの種類にあたる。

ちなみに自動車部品や電子材料などは、「繰返し受注生産」である。これらは基本的に顧客指定の仕様品である。日本では、自動車産業や電機産業が製造業の花形だと思われており、そのサプライヤーに位置する部品メーカーが多い。JISが受注生産を「顧客が定めた仕様」と規定したのは、おそらくこの影響ではないだろうか。

そもそも、「生産システム」に関する冒頭の定義を思い出してほしい。インプットとしての需要情報の起点は、必ず顧客なのだ。需要情報には、数量や時期のみならず、「どんな仕様で」も含まれる。これを明確に図面でもらうか、暗黙のうちに自分で企画するか、設計主体の差は、その違いでしかない。

だが、この際だからはっきり言っておくが、日本の場合、自動車部品や電子部品メーカーのほとんどは、需要数量に関しても、確定した受注などもらっていない。あるのは「翌月内示」と「引き取りかんばん」なのである。「かんばん」は一種の分納の仕組みであって、発注書ではない。内示の数字と引取量の合計は、一致する保証など無い。だから、自動車部品メーカーというのは、「顧客の定める仕様の製品」を「需要を見込んで」製造し、うっかり作りすぎてしまった分は在庫として自ら抱えるしかない立場なのだ。作ったものは特定顧客用だから、転売もきかない。これを「受注生産」と呼ぶべきなのかどうか、多少疑問さえ感じる。

それでも、顧客指定品の「繰返し受注生産」の場合、需要はかなり見込みが立つ。そこで、生産者側も材料手配などの準備が事前にできる。したがって「繰返し受注生産」では、部品原材料の形で在庫を持っておいて、需要に応じて製造する形態になる。見込生産のように、製品在庫を持つ必要が無い分だけ、過剰在庫のリスクは少ない。ただ、受注から納入までのリードタイムの中に加工組立の製造が入るため、少し納期が長くなる。

「個別受注生産」では、設計自体が事前に済んでいないのだから、もはや在庫は持ちようがない。注文を受けてから魚を釣りに行く、気の長い料理屋の状態である。在庫リスクは最小だが、納入リードタイムは最大となる。

そして、工場を計画する時は、どこにどのような量と種類のストックを置くのかが、非常に大きなポイントとなる。だから、これまでくどくどと、サプライチェーンや在庫や生産形態の話をしてきたのである。

ところで、「見込生産」「繰返し受注生産」「個別受注生産」は、在庫リスクと納入リードタイムのトレードオフ関係が成立していることが分かる。では、ちょうどいい最適なバランス点はないのか、という疑問も出てくるだろう。これに対する一つの答えが、まだ説明していない4番目の生産形態=「受注組立生産」なのである。だが、また例によって長くなりすぎた。「受注組立生産」についてはまた別の機会に取り上げることにしたい。
# by Tomoichi_Sato | 2010-02-09 23:37 | 工場計画論 | Trackback | Comments(0)
計画作業の中心とは
計画の本質は何か--毎日の仕事として計画立案作業にたずさわっている人でも、あらためてこう問われると、なかなか答えにくいものだ。生産計画をはじめ、販売計画・輸送計画・在庫計画・調達計画・外注委託計画・等々、製造業でつくられる計画の種類は非常に多い。製造業とはまさに「計画だらけ」で動いている業種だとも言える。

そんなの製造業でなくても当たり前じゃないか、無計画・なりゆきまかせでいい商売なんてあるわけない、とお思いだろうか。では、免許の代書屋や消防士や漁師が「本日の業務計画」を立てている姿を想像してみるといい。何となくおかしな気がしないだろうか? もう少しふつうの企業の例をあげるならば、たとえば請負の中小土建屋だったらどうだろう。入札の勝敗が分からない時に、どんな計画を立てられるのか。

むろん、こうした職業の人たちだって、仕事の見通しというものは持っているだろうし、その日その時の道具立てや道筋を考えているだろう。漁師だったら、どの程度の水揚げを達成したいか、そのためにはどういう仕掛けを用意してどこの海を回ればいいか、判断しているはずだ。入札だって、どういう業者と組んで、どんな価格で攻めるべきか考えている。ただし、こうした判断はいわば「目標」の設定と「戦略」の選択であって、「計画」という言葉を使うと、なぜかちぐはぐな感じを受ける。

なぜならば、計画とは、ある程度確実に予見される将来にかんする意志決定だからだ。逆にいうと、変動しやすい外部環境に依存するタイプの仕事、その環境の予測に主軸がおかれるような判断は、「計画」という言葉になじみにくい。天気予報のアナウンサーが、『明日の天気の計画は、晴ときどき曇りです』といったら、誰だって変だと思うだろう。消防士は『明日の計画は火事2件です』とは言うまい。

だとすると、製造業はなぜ「計画だらけ」なのかも分かる。製造業には工場がある。製品を持っている。倉庫と、設備と、工員と、資材業者をかかえている。こうしたもの全ては、天気のように毎日くるくると変わるものではない。つまり、とても先が読みやすいのだ。また、意志決定によって変えられる範囲もおのずから定まっている。予見可能性と、意志決定範囲がバランスしているとき、それは「計画」の名にふさわしいものになる。

計画立案作業の中心には、「予測」と「意志決定」の二つの柱がある。私は著書「革新的生産スケジューリング入門―“時間の悩み”を解く手法」の中で、これを表すために、

計画立案=予測+意志決定

という等式風の表現をしてみた。そして、意志決定の範囲(=自由度)が、予測の変動範囲を凌駕するとき、それは「実行可能な計画」となる。(逆の場合、すなわち予見のぶれが大きすぎて、どんな意志決定でも追いつきそうにないとき、その計画は「絵に描いた餅」になる)。

計画を持たず、環境の変動に対して成り行きで追随するような業務形態は、主体性の乏しい、受動的reactiveなやり方だ。こういった無計画な「成り行き管理」を脱して、計画重視の業務形態にかえていくこと。すなわち、受動的な生産管理から能動的proactiveな生産管理へと移行すること。そのために、計画能力を向上させ、必要ならばAPSなどのツールを導入すること。それが今の製造業に必要なことなのだと、私は信じている。
# by Tomoichi_Sato | 2010-02-05 23:41 | サプライチェーン | Trackback | Comments(0)
韓国・中国との競合を考える ~PMAJ新春セミナーの話題から
先週の1月30日、日本プロジェクトマネジメント協会(PMAJ)の『新春セミナー』に招かれ、パネル・ディスカッションに参加した。「プロジェクトマネジメント最前線の状況と近未来」という、自分にとっては大きすぎるテーマでのパネルだったが、一応好評のうちに終えられたと思う。他のパネラー(Panasonic、竹中工務店、富士通など)の方の発表力に負うところも大きかったのだろう。

パネルでは幾人の方から興味深い質問をいただいた。その一つは、「今後、日本のPMはグローバル化が必須だろうが、10年後の成功をかちえるためにこの2、3年でしておくべき課題は何だと思うか」という問いかけだった。こんな問いには他に適任がおられるだろうが、海外売上比率90%以上のエンジニアリング会社勤務だから、私にお鉢が回ってきたのだろう。とっさに思いついた答えはこんなものだった:

「語学力の問題は、心配していません。これは各個人の努力でどうにでもなる問題です。海外ジョブでは異文化摩擦の問題も生じるでしょうが、それもいくつか経験すれば慣れると思います。私が気になるのは、そのもっと奥にある問題、つまり企業対企業の、責任範囲とか権利義務関係とか、そういった事柄に対する感覚・慣習の違いに、マネジメント層が気づいていないらしい点です。これは最近いくつかの企業の例を見聞きして感じたことで、あるいは思い過ごしかもしれませんが。

海外プロジェクトにおける企業間の界面は、いわば透明だが硬い樹脂でできている、『ハードな界面』みたいなものです。これに対して、日本国内の企業間は、半透明で柔らかい『すり合わせ型の界面』で、お互いに長いつきあいと、多少の貸し借りやナニワ節の通じるウェットな関係です。これに慣れた者が、互いを峻別する透明でハードな界面に気づかず正面からぶつかってしまうと、壁に投げられた卵みたいにつぶれやすい。そこで、自分を守るための法務・商務を含めたマネジメント・テクノロジーが必要になってきます(また、ハードな界面は同時に自分を守る盾にもなります)。

これは“リスク・マネジメント”の一部だと言えば言えるのでしょうが、自分が知らないこと、「無知」や「未知」へは対処する方法がありません。日本は'90年代一杯までは輸出型で強い立場でしたが、これからは外需中心で受注型海外ビジネスがメインになってくるはずです。だとしたら、この2、3年のうちに、異質な界面を意識してきちんと仕掛けを作り上げる必要があります。これさえうまくやれば、日本企業は基本的にポテンシャルがありますから、十分海外でも成功できると思います。」--というようなお答えをしたと記憶している。

もう一つ海外プロジェクトに関連して出てきた質問は、(まあ昨今の時勢から見て当然の問題意識だろうが)「韓国企業や中国企業との競合はどの業界でも厳しさを増しているが、彼らの強みは何だと思うか?」との問いだった。私自身は、中国企業とはオフショア開発の形でつき合ったことがあるが、韓国企業とは一緒にやった経験がない。だから、自分の見聞きした範囲内で想像すると、という断りつきでこう申し上げた:

「韓国企業と我々とどこが違うのかは私も十分は承知していない。ウォン安円高のせいで彼らに価格競争力があるのだ、という意見があるが、もはやエンジニア・クラスでは時間単価にはほとんど違いがない(韓国の方が高かったりする)。だから、これは説明になっていないと思う。

もしどこかに差があるとすれば、それは“決断に要する時間が短い”ということかもしれない。彼らは我々より、物事を決めるスピードが速いように見受けられる。少し前に、中国系アメリカ人のコンサルタントに言われた言葉が、『日本企業はStep decisionができない』だった。つまり、すぱっと決断できない。ぐずぐず、ゆっくりとしか変われない。

リスク・マネジメントという概念は普及したが、いつの間にかそれは時間をかけてリスクを回避するためだけの方法論になっていて、リスク・テークするためのリスク・マネジメントはされていないように感じられる。そこが心配な点だ。」--と、こんな感じでお答えした。

なお、あえて話題には出さなかったが、昨年12月に、中東アブダビで2兆円を超す原子力発電所の競争入札があり、韓国勢が日米企業群やフランス勢をおさえて勝利したばかりだった。これを見れば、韓国企業は数年以内にかなり先端的な技術力・マネジメント力でも肩を並べてくるだろう。エンジニア・クラスの「能力」だけではもう差がつかなくなるのは必定である。

これに対して、中国企業は、まだプロジェクト・マネジメントの組織的能力の点で差があるように感じられる。個人個人の力量は、とくに優秀なクラスの技術者は、大したものだ(そして優秀な人材がまたいくらでもいるのである)。しかし、各人が自分のテリトリーの中だけで最大限、力を発揮しても、縦横がきちんとあっていなければプロジェクトは成立しない。この点が、『砂の民』と揶揄される中国人にとっての課題なのかもしれない。

とはいえ、今日、中国でプロジェクト・マネジメントの学科や専攻科を持つ大学・大学院は110校以上ある。これに対し、日本ではいまだわずか1大学のみ(千葉工業大学)である。このままでは、中国にも追いつき追い越される可能性がある。もっと日本の大学にも頑張ってもらいたいところである。

最後に、マトリクス型組織と人材育成に関する質問があった。ジェネラリストとしてのプロジェクト人材をどう育てるか、またそのモチベーションは、という問いかけである。プロジェクトに関する組織形態には、ファンクショナル組織・タスクフォース組織・マトリクス型組織の3種類があるのはよく知られている。エンジニアリング会社はそのうち、「強いマトリクス型組織」をとっている数少ない業界の一つであるから、こうした質問になったのだろう。質問された方は製造業系のIT企業だったので、こんな風にお答えした:

「強いマトリクス型組織というのは、固有技術を専門とした機能部門と、管理技術を主体としたプロジェクト部門という二つの柱を持っています。そして後者の部門は、プロマネ見習い・兼・雑用係であるところの『プロジェクト・エンジニア』という職種の人で成り立っています。彼らはジェネラリストですが、固有技術を全く知らない者が管理だけできるわけはない。だから、必ず一度は設計なり現場なり機能部門にローテーションして、専門性を磨くキャリア・パスを考えます。

それでも、プロジェクト・エンジニア全員がプロマネになれる訳でもありません。だから今、我々はプロジェクト・マネジメントという業務をもう少しWork Breakdownして、コスト・エンジニアリングだとかスケジュール・コントロールといった専門機能に分解し、それぞれ専門家を育成することも取り組んでいます。

そもそもマトリクス型組織は、理想的な点ばかりではありません。一人の人間に上司とプロマネの“二人のボス”ができてしまう。この二人が同じ意見ならokですが、見解が食い違ったら目も当てられません。そのとき、どちらの指示に従うか。私の勤務先をはじめ、エンジ会社というのはだいたい、『プロジェクトに最終的な責任を持つのはプロマネだから、その指示に従う』という風に行動します。自分の意見がプロマネと違っていたら、一応主張はするでしょう。しかしプロマネが「俺が責任とるから、右を向け」と言ったら、とにかく右を向く。これが基本的な態度です。

そういう意味では、私はプロジェクトを方向付け、成り立たせていく上で、従う側の『フォロアーシップ』が非常に大切だと思っています。よく、プロマネの『リーダーシップ』ばかりが強調されるきらいがありますが、私は『フォロアーシップ』との両輪がそろわないと、プロジェクト組織としては機能しないと思っています。製造業では一般に、機能部門長が非常に強い権限を持ちます。その中で『フォロアーシップ』をどう確保するかが、カギになるのではないでしょうか」--とまあ、言葉はこんなに流暢ではなかったかもしれないが、お話ししたように思う。

こう書くと私一人がしゃべっていたみたいに聞こえるが、各講演者とも非常に面白いお話が聞けて、その後の懇親会でもずいぶん勉強させていただいた。こうした業種を超えたイベントを持ち得ることこそ、日本のPMの世界の一番の強みなのかもしれない。
# by Tomoichi_Sato | 2010-02-03 00:20 | プロジェクト・マネジメント | Trackback | Comments(1)
書評:「MBAが会社を滅ぼす」 H・ミンツバーグ著
「MBAが会社を滅ぼす」 --マネジャーの正しい育て方
ヘンリー・ミンツバーグ著 (日経BP社)


カナダ・マギル大教授のミンツバーグは、経営学の大御所であるが、また異端の経営学者でもある。彼を有名にしたのは「マネージャーの仕事」という研究で、実際の企業の管理者のやっているワークは、経営学の教科書が想定していることと大幅に違っている、との事実を明らかにした。

その彼は、現代のMBAのあり方に疑問をもち、ビジネススクールで教えるのをやめ、この数年間は自らが中心になって「IMPM」という新しい企業マネージャー向けの教育カリキュラムを組織実践するようになった。本書はその彼の考えを述べたもので、前半は現代のMBA批判、後半はIMPMの思想を書いている。全体として学術書の体裁をとっているが、後半は自分の発案であり客観的にかくのは難しい、と率直に認めている。

ただしその分、前半の現代MBA論は広範多岐にわたって調査事実をつみ上げ、総合的批判となっている。歴史、教育内容、教育方法、受講者層、受講動機、企業内での処遇にわたって功罪を論じ、問題点多し、と結論する。

ミンツバーグの批判の根幹は、こうである。マネジメントの成功は、アートとクラフトとサイエンスがそろったときに生まれる。アートは構想力、クラフトは職人的スキル、サイエンスは分析力のシンボルである。しかし、実務経験の浅い数年の若い学生の集まるビジネススクールでは、結局サイエンスだけを身につけることになる。ハーバード型のケースメソッド教育も、スタンフォード型の理論中心教育も、実際にマネージャーをつくる役には立たない。その結果、“MBAになってビジネス世界で追越し車線に移りたい”と野心を持つ若い人間を、分析偏重の『計算型』かアーティスト気取りの『ヒーロー型』マネージャーにしてしまう。こうした連中が、米国だけで10年間に100万人も世に出されるのだ。

その結果生まれた現象は何か。米国大企業のトップの4割はMBAだ。しかし経営者としてのMBAたちの成績簿は、決してよくない。その理由は細々とした雑事を切り捨て、現場を無視して、解決策の方程式を振り回しすぎる点にあった、とミンツバーグは事例分析を通して示す。

それでは、良いマネージャーを育てるには、どうしたらよいのか。マネジメントの根幹には「人を動かす」ことがある。本書の後半は、より実務経験の深い受講者を対象にした、分散的かつ多文化的なプログラムによるIMPM教育の思想について述べている。私自身、このコースには非常に興味を持った。これが理想で最善の教育のあり方かどうかはすぐに結論できないが、ミンツバーグらの試みは、あきらかに経営学者が教壇から教えるよりも、ミドルマネージャーたちが相互に触発研鑽しあえる仕組みを作とうとしている点に特徴がある。

訳書のタイトルは攻撃的だが、原題の"Managers not MBA"は、もっと建設的だ。彼の建設的な提案を、我々の社会はどう遇するべきなのか、もっと考える必要があるだろう。日本が、米国流の計算型ビジネスに浸食され尽くす前に。

# by Tomoichi_Sato | 2010-01-29 23:41 | 書評 | Trackback | Comments(0)
読者諸賢! これがマネージャーの仕事だ
1月。誰もがおめでたい正月気分の残る中、マネージャーは多忙な仕事を始める。会社を出て、新年の得意先回りに出かけるのだ。本年もよろしくお願いします。昨年はお世話になり、とくに某の件ではいろいろご迷惑もおかけしましたが、今年は気を引き締めて進めますので、是非またよろしくお願いいたします。営業部員も同行するが、品質トラブルで嫌みを言われるのは技術屋の方だ。いずれにせよこの不況の中、一社でも顧客を逃したら今期の目標達成はあり得ない。もっとも訪問先の2人に1人は、業界の新年会に出かけていて不在だが。それでも名刺を置いてくるのが大事な仕事だ。

2月。昨年から続いていた仕事が製作段階に入って火を吹いた。基本設計にミスがあったのだ。誰が設計書をチェックしたんだ! と叫びたい声をぐっと飲み込む。後ろ向きのことを言っても仕方がない。部下の責任はいずれ自分の責任だ。とにかく人を追加する算段を考えなければならない。といっても人材は慢性的に不足している。別のジョブから引きはがして入れるしかあるまい。そうなるとあちらの納期に影響するが、その時は客先に頭を下げにいくしかないだろうな。

3月。年度決算の締めである。なんとか今期の数字は達成しないと自分のキャリアが危ない。下請けに繰り返し催促の電話を入れて、必要な機材をそろえる必要がある。とにかく31日の深夜12時までに出荷すれば売上は立つのだ。いざとなったら、出荷所の時計を11時55分に止めてでも、今期中の納品を達成したい。事業部内も大忙しなのに、加えて、今期の部下の人事評定をしなければならない。面談する暇さえないというのに。それより自分の評価が心配なのだが。

4月。新入社員が入ってくる。自分の部署にも久しぶりに配属がある。さて、ところで何をどう教育したものか。とにかく仕事の中身が5年前10年前とはすっかり変わっているのだ。今や仕事の大半は外注管理だ。しかし技術を知らないと上手な管理はできない。やはり一から設計を教えないとダメだろうな。とはいえ、その教育資料も作成しなくては。

5月。連休明けからようやくエンジンがフル回転しはじめる。去年の連休はシステム移行のトラブルで半分以上は出社だったが、今年は休めて良かった。ただし新規受注がさっぱりだ。展示会に力を入れて顧客を呼び込むしかあるまい。

6月。株主総会に続く組織改定の人事が気になる。でも自分の足下ではジョブの納期遅延が発生しそうだ。やはり2月に人を抜いたのがきいたらしい。おまけに海外の外注工程のトラブルで、納入されても使い物にならない。至急作り直させるか、あるいはこちらで引き取って改造するか。検討の結果引き取ることにしたが、また人を追加投入することになる。それでも足りずに、自分でも久しぶりに詳細設計書を書くハメになった。おお、でもまだ腕前は衰えていないな。

7月。トラブル解決に大勢の部下を投入したおかげで、新規受注活動に手が回らなくなった。このままでは上期の受注高を確保できない。仕方なく、自分が営業活動を手伝うことになる。しかし、そうなると外出や出張が増えて、ますます受注ジョブの遂行管理が手薄になるのだが、電子メールでなんとか報告を出させてしのぐしかない。

8月。・・・いや、もうよそう。この調子で1年書いてみても、たぶん同じパターンの繰り返しになる。トラブルの火消し→人の投入→新規活動の停滞→四半期毎の管理事務→チェックの手薄化→トラブルの発生、というダウン・スパイラルの繰り返しだ。マネージャー本人は、必死で働いている。たぶん、残業代のつく部下よりも、時間的にはずっと働いているかもしれない。ということは、マネージャーの時間単価は、じつは実務担当者よりもずっと安いのだろう。

だが、このマネージャーはマネジメントなど何もしていないことに注意してほしい。マネジメントとは何か? それは人を動かして目標を達成することだ。字義通り読めば、たしかに部下を動かして受注した仕事をこなしているから、マネジメントしていると言えるように思える。しかし、マネジメントの仕事とは、先読みと組織化とリスクテークにあるのだ。このマネージャーは、いつ仕事の、技術の、あるいは業界の先読みをしただろうか。ひたすら外的事象に追われて、それに対応していただけではないのか?

マネジメントの仕事とは、変化する内部外部の環境に応じて、能動的に、自分と部下達の目標を作ったり、仕事のやり方を変えたりすることにある。それはちょうど、動物におけるの機能のようなものだ。自分から動いて、食物を探してとったり、外敵を避けたり、より良い環境を目指して移動したりする。その推測や判断や指示をするために脳はある。受動的に環境に適応するだけなら植物と同じだ。植物には脳はいらない。だから外的事象に対応するだけなら、植物的マネージャーだということになる。草食系ですらない。

「トラブルの火消し→人の投入→」にはじまるダウン・スパイラルのかわりに、マネージャーが作るべきサイクルはどのようなものか。それは、「環境変化の先読み→仮説を立てて計画→受注ジョブは無事に進行→人を新規活動に投入できる→新しい仕事が増える→人が増やせる→自分が火消しに飛び回らずに済むので考える時間ができる→環境変化の先読み」・・・という上昇のスパイラルである。

むろん、上述のマネージャー氏にだって、同情すべき点が無いわけではない。人をぎりぎりまで減らされているのも、やたら外注せざるを得ないのも、海外サプライヤーをつかうのも、自分が決めたと言うより「コストダウン第一優先」の会社方針がさせた事なのだろう。これは近年の日本の製造業では広く見られる現象だ。

それでも、このマネージャーは「自分はマネジメントしている」ときっと信じているだろう。なぜか? だって、名刺にマネージャーだとか課長だとか、そう肩書きがあるじゃないか。中間管理職の仕事がマネジメントでないとすれば、いったい誰がマネジメントしているのか? 部長だって、事業部長だって、火消しと定期的管理事務と営業支援活動が仕事の殆どじゃないのか。いや、常務だって、社長だって、どこが違うというのだ。

そう。だとすれば、そもそもその会社にはマネジメントは存在していないのである。マネジメントが存在しなくても、会社はいちおう(しばらくは)存続していける。それが機能部門から成り立つ組織というものなのだ。「しばらく」というのは、つまり、外部環境に変化がない間は、という意味だ。あるいは、変化があったとしても、それまでの蓄積があれば、累積損失が資産総額を上回らない間は、という意味である。なんだか業績が思わしくない、と思ってふたを開けてみたら、もう債務超過でした、という大企業の例を私たちはつい最近も見ている。その会社の人たちが働いてなかった、などという事はけっしてあり得ない。みな必死で働いていたのだ。だが、マネジメントが存在しない組織では、どんなに働いても、それはみな経済のエントロピーの中に消えていってしまうのである。
# by Tomoichi_Sato | 2010-01-26 03:38 | ビジネス | Trackback | Comments(0)
書評 「旭山動物園の奇跡」
旭山動物園の奇跡


旭山動物園は、北海道旭川市にある動物園である。近年、急速に有名になり、首都圏からもツアーの目的地になっている。私も札幌から行って見たことがあるが、たしかに工夫があって、面白い。あまりお金はかけていないが、しかし動物をいかに興味深く見せるかについて、皆が知恵を出し合ってつくりあげた動物園という感じが受け取れる。

たとえば、ヒョウのようなネコ科の肉食獣は、半夜行性のため昼間はほとんど寝ているだけのことが多い。そこで、檻の下から寝ている姿を見上げることができるケージを作って、普段は見られない角度から見せるように工夫している。有名なホッキョクグマのケージそのほか、『見せる化』の知恵と工夫が素晴らしいのである。

本書は、この旭山動物園が、平凡な地方の小動物園からいかに変革を遂げて、今日の姿になったかをつづったドキュメンタリーである。とはいえ、その変革に至る道は平凡ではなかった。とくに平成に入ってからは、風評被害もあわせて入場者が激減し、10年近くもつづく「長い冬の時代」を経験する。

そもそも旭山動物園は日本最北で気候は厳しく、また本州から遠いため人口圏が小さい。赤字続きだから低予算でスター的な動物もいない。白クマ、ペンギン、アザラシ、チンパンジー、ニホンザルなど地味な動物がほとんどだ。もしも全国の動物園が一つのチェーン会社だったら、本社の経営企画部は真っ先に廃止売却を決めるだろう。マーケティングのプロの目から見たら、どう考えても「負け犬」の領分としか見えないからだ。

それが今や入場者数は上野動物園を抜いて、日本一になった。それは数々のアイデアの功績で、その内容は本書に詳しく書いてある。しかし、こうしたアイデアはいつ、どうして生まれたのか。それは、「長い冬の時代」に、“でも、動物園はこうあるべきだ”という『あるべき論』の哲学を従業員全員が練り上げ、あたため続けたことで生まれたのだ。

だから、きびしい逆境の時こそ、知恵と希望を捨ててはいけない、という教訓がここにはある。ひどく守りにくい教訓ではある。だが、哲学をもつ組織には、未来は必ずやってくる。この動物園が見せてくれた一番の展示物は、そうした人間たちの姿なのである。
# by Tomoichi_Sato | 2010-01-23 23:56 | 書評 | Trackback | Comments(0)
ワーク・パッケージとは何か
WBSの最下位のアクティビティを、「ワーク・パッケージ」とよぶことは、プロジェクト・マネジメントをちょっとでも勉強した人は知っていると思う。いうまでもないが、WBSとは、プロジェクトのスコープ(仕事の範囲)を、アクティビティに階層的に分解し、それに整理番号を付番したものである。

『プロジェクト』という業務は、それ自体では大きくて漠然として理解もハンドリングもしにくい。そこで、それをコントロール可能な小単位まで分解するのである。“大きすぎる問題は、小さな部分問題に分解して片付けろ”というのは、欧米人の得意とする発想であり戦略である。非常に分析的なアプローチと言えよう。

プロジェクトを、複数のアクティビティに分解する作業は、ある意味で、地図の上のぼんやりした領域を、そのカバーする市区町村によって数え上げる作業にも似ている。「この病院のサービスする地域」と問われて、○○区、××区、△△市某町・・とリストアップしてみると、だいたいのその姿が見えてくる。同様に、プロジェクトがカバーすべき活動範囲を、アクティビティ・リストに作ってみる。それが、プロジェクトの姿(スコープ)の『可視化』の第一歩である。

アクティビティ・リストは、ふつう、次のような表になる。

(1) アクティビティ1、(作業内容の説明)、担当者=誰々、期日=○月×日
(2) アクティビティ2、(作業内容の説明)、担当者=某々、期日=○月△日
  ・・・・・・・   ・・・     ・・・     ・・・

このようなアクティビティ・リストを作成して、その表をもとに各作業の分担を決め進捗を追いかける--これは、もっとも原始的なプロジェクト・マネジメントのあり方である。まさに、イロハのイだろう。アクティビティ・リストも作らない(作れない)ようでは、「プロジェクトをマネジメントしている」とは言えまい。

さて、ところでこのようなフラットなリストのままでは、いろいろと運用上の不便が生じる。たとえば、「基本設計」というアクティビティを進めていくうちに、「移行段階の運用設計」というような、より細かな作業の必要性が急に浮かび上がってきたりする。この両者は、並列にならべるのは何だか落ち着かない。一種の包含関係にあるからだ。では、どうすべきか?

答えは、アクティビティを階層化すればいいのである。アクティビティの下位概念として、サブ・アクティビティを考える。「移行段階の運用設計」は「基本設計」の下位にあたるアクティビティである、といった風にである。言いかえるならば、アクティビティというのはプロジェクトと同様に、さらにアクティビティに分解できると考えるのである。アクティビティは自己相似的だ、とも解釈できよう。

こうして、プロジェクトの全体範囲を表すための階層的アクティビティの構造が定義できる。これがWBSである。ちょうど、「当病院のサービス・エリア」をより明確に示すために、市よりも下の町丁目レベルで数え上げをするようなものである。

ついでにいうと、このとき、アクティビティの整理番号は必須である。社員に従業員番号があるように、プロジェクトにおけるコントロールの対象は、何であれ重複のない整理番号をつける。こんな事はある意味、英米においては常識以前の問題であって、だから誰もわざわざPMBOK Guideになんか明記しないのである。

さて、そのようにプロジェクトを階層的にアクティビティに分解した結果を見た時、その最下位のレベルをワーク・パッケージと呼ぶわけである。地図が市町村・町丁目によって空白も重複もなく敷き詰められているように、プロジェクトの範囲は、ワーク・パッケージの総計になっている。

そして、各ワーク・パッケージにはそれぞれ、コストと、所要期間と、必要なリソースの情報が付随しているはずである。ワーク・パッケージのコストを集計すると、プロジェクト全体のコストになる。そしてコスト情報には、予定のコスト(予算)と実際のコスト(実績)が存在する。すなわち、ワーク・パッケージの意義とは、コスト・期間・リソースを集計し予実対比するためのアトムなのである。

このように考えると、ワーク・パッケージの『粒度』=大きさが重要であることが分かってくる。あるアクティビティは3ヶ月かかり、別のアクティビティは1日で終わる、というようなばらつきがある場合は、「粒度がそろっていない」と考えられる。粒度を適当にそろえる努力をしないと、コストや時間をコントロールしていく時の、集計の精度や意義が落ちていくのである。

じつは、ここがワーク・パッケージ作成の一番のポイントだと言っていい。というのは、アクティビティは(やろうとおもえば)いくらでも再分割していけるからだ。技術者は妙に律儀なところがあって、細かくすればするほど、“管理の精度が上がる”と信じたがる傾向がある。しかし、細かくしすぎると、むしろモニタリングやレポーティングの手間ばかりが増えて、管理のための管理に陥ってしまう。

たとえば、以前あるERPプロジェクトのWBSを見せてもらったことがあるのだが、全体納期は1年以上かかる大事業なのに、半日で終わりそうなアクティビティをたくさんWBSに書き込んでいる。そんなレベルまで、ほんとにプロマネさんはいちいち追いかけるんですか、と問いただしたくなる。私から見ると、それはワーク・パッケージというよりも、実装チェックリストの各項目のように思えたからである。

アクティビティ分解は、ある適切なレベルまでにとどめておく。そして、それ以下については、『デイリー・タスク』と見なして、各担当者にコントロールを委任しておく。これが、本来のあり方である。

そう考えてみると、ワーク・パッケージとは、「固有技術」と「プロジェクト・マネジメント」の境界面を示す、とも解釈できる。ワーク・パッケージよりも下部(内部)には、プロマネはもはや立ち入らない。そこはもはや、担当者による固有技術の世界なのである。PMの仕事とは、そこよりも上位の領域、すなわちプロジェクトのワーク・パッケージへの切り分け、その論理的な順序関係づけ、予算や所要期間の設定、リワークやフォールバックへの準備、そしてコンティンジェンシー・リザーブやプロジェクト・バッファーの設定などであろう。そここそが、管理技術としての「マネジメント」の範囲だと考えられるのである。

# by Tomoichi_Sato | 2010-01-20 23:56 | プロジェクト・マネジメント | Trackback | Comments(0)
「英語」の向こう側
先日、あるメーカーの方から、「エンジニアリング会社では英語能力の問題にどう取り組んでいるのか」という質問を頂戴した。指示と情報のやりとりだけで品質を管理しなければならないエンジニアリング業界においては、品質問題は技術者の教育と切り離すことができない、という話題に関連してでてきた質問だった。

日本のメーカーは、製造を海外に委託したり、工場を別会社化したりして、しだいにファブレス化・商社化の道を歩んでいる。必然的に海外とのやりとりが多くなって、外国語のコミュニケーションの問題に直面しているのだろう。そして現代においてはたいていの国で、便宜上の道具として英語が幅をきかせている。

私の勤務先自体では、TOEICの試験制度を利用して、研修の奨励や人事評価に結びつけている。TOEICがある点数以上になるまでは毎年の受験が義務づけられるし、また中間管理職のある等級に昇格するための条件にもTOEICの点数が用いられる。実際のところ国内の仕事しかしていない人にまで、この条件を押しつけるのは酷ではないかと個人的には思うのだが、会社の人事ルールというのは例外をあまりつくりたがらない。

しかし、外国人とのコミュニケーションで本当に大事なことは、TOEICの試験ではかれる能力よりも、一つ先の次元に横たわっている、と私は思う。それは、異文化への理解という能力だ--そんな風に、その方には答えた。

これだけでは少しわかりにくいと思うので、例をあげよう。数年前のことだが、米国のオイル・メジャーとのプロジェクトが始まったばかりのことだった。ある基本設計に関する技術的議論の中で、我々の側のだれかが、"Yes, but it is difficult."と答えた。すると、客先の米国人の一人が、こう言うのだ:「ぼくは前のプロジェクトでも日本企業と仕事をしたから判るんだが、日本人が"it is difficult"というときは、『それは出来ません』という意味なんだよな。」

打合はおかげで暗礁に乗り上げることなく、先に進むことが出来た。客先の米国人の一人が、異文化を理解する能力を、少しばかり持ち合わせていてくれたからだ。しかし、逆にいうならば、そういうシチュエーションでは、わが同僚は

"No. It is impossible."

と言うべきだったのだ。

NO と言えない日本、じゃないけれど、日本人は"Yes but" peopleだ。つねに"Yes, but..."と言ってしまう。日本のコミュニケーションのルールでは、何かを頼まれて「いえ、そんなことは出来ません」というと角が立ってしまう。「はあ、でもそれはちょっと難しいですね・・」と言って、相手の察しを待つ。しかし、英米人の世界は理がまさっている。Yesはyes、noはnoで、先に進んでいく。対話で感情的になってはいけないのだし、それで気を悪くするからうんぬんで、論理の道筋を曲げてはいけない、と彼らは考えている。

残念ながら、こうした事柄に対する理解は、かならずしもTOEICだけではうまく計れない。それに、外人相手はいつも同じとは限らないのだ。たとえば、フランス人と議論するときには、これではうまくない。"No, but you can work around this way.."と説明する方がよい。フランス人は、"no but" peopleだからだ。彼らは、『相手にも感情がある』ということを常に前提して会話をしている。おまけにラテン系の文化では、お互いのプライドを尊重し、相手のメンツをつぶさぬよう気をつけるからだ。

英語は英会話学校で学ぶことができる。英語は道具としてトレーニングで身につけることができるはずだ、と多くの人が信じている。それに反対はしない。しかし、他者の文化を理解し尊重することの方が、もっと重要なのだ。その相手が欧米であろうとアジアであろうと同じことだ。あいにく、エンジニアの教育の中には、そうした『異文化理解』の訓練が全く欠けている。したがって、自分の中に、そうした欠落があることを意識することが、まず外国人とのコミュニケーション能力を向上させる、最も重要な第一歩なのだ。
# by Tomoichi_Sato | 2010-01-15 22:45 | 考えるヒント | Trackback | Comments(0)
工場計画論(3) 製品をどこに置くか
製造業とは、『ものづくり』をビジネスとする企業である。たいていの人は、そう信じている。そして、“ものづくりこそ日本の産業の真髄だ”、“製造業よ甦れ”みたいなスローガンがこの10年来、叫ばれてきた。日本経済が再び成長力を取り戻すには、やはりものづくりの生産性を上げることが重要だ、そんな主張を経済通から聞くことも多い。

でも、はたして本当なのだろうか。知人の経営コンサルタントから来た年初の挨拶メールの中に、「商社化しつつある日本の製造業を・・」という興味深い表現があった。たしかに、この10年間で、日本の製造業の姿は(その看板や見かけとは違い)ずいぶん変化してしまったと感じることがある。

その変化は、製品在庫をどこに置くか、という問題に端的に表れている。一般消費財を例に取ろうか。たとえば、あなたが衣料品を通販で注文するとする。その製品は、どこから送られてくると思われるだろうか? 多くの場合、静岡とか、あるいは北陸などから発送されてくるにちがいない。--そこが繊維製品の産地だから? 違う。そこに、製品在庫を置いてあるからだ。なぜなら、荷揚げに適した港があるからである。

国内で一般消費財を作っている場合、人口の多い大都市圏が、主要な流通販売先となる。したがって、メーカーの製品在庫は、大都市圏に近い工場で作ってせっせと販社に回すか、あるいは工場が遠隔地の場合は、大都市の物流倉庫に積み上げておくことになる。さらに日本製品の輸出が好調だった時代は、工業地帯に付属する港湾、つまり東京港や大阪港などから貨物を出荷する。こうして、大都市圏と、工業地帯と、陸運・海運の拠点は、ほぼ一致することになる。だから日本は都市に人口も何もかもが集中していったのである。

ところが今や日本は、部品材料も最終消費財も、アジア各国から大量に輸入する国になっている。では輸入貨物はどこに陸揚げするのがよいだろうか。まさか全国の大都市に順に寄港して、少しずつ荷揚げする、などという非効率なことはできまい。どこか一ヶ所に陸揚げして、いったん物流センターに保管し、必要に応じて配送する方が合理的である。

そこで浮上してきたのが(たとえば)静岡県西部だ。清水港という24時間対応の国際貨物港がある。東名高速など陸路も充実している。そして土地代も人件費も安い(いまどき誰が土地代の高い大都市に倉庫を借りたがるだろうか?)。本州の中央に位置して、東京・名古屋・大阪など工業地帯・消費地への配送にも便利である。

こうして、新幹線に乗っていると、新富士から静岡・掛川・浜松までの沿線で、のどかで風光明媚な田園地帯に並ぶ近代的な物流センターや流通加工施設を見ることができる。この地域は今や、実は日本の製品在庫のメッカであり、サプライチェーンの一大ハブなのである。そしてそれは、日本の製造業が海外生産に大幅に頼っていることと関係がある。

そもそも、ご存じかもしれないが、「アパレルメーカー」と呼ばれる会社は、製造業と思われているかもしれないが、実質は流通業であって『ものづくり企業』ではない。こうした企業は、製品のデザインと、販売と、(場合に応じて)材料生地等の購入支給を行う。誰に支給するのかって? 「縫製工場」に対してである。実際の縫い物仕事(つまり組立加工と同等の「ものづくり」)は、中小零細の縫製業者に下請けで作らせる、これが衣料品世界の構造である。

そして縫製工程は、極めて労働集約型の産業である。だから早くから、人件費の安い東アジアに外注先をシフトさせていった。台湾、香港、中国、ベトナム・・・といった国々である。まあ日本国内より縫製の仕上がりが多少野暮ったく、雑になるが、仕方がない。それより「安さが大事だ」と流通側は考えたのである。かくして、今やスーパーの衣料品から高級ブランドの製品まで、のきなみタグに「中国製」と書いてある時代が出現した。

つまりアパレルメーカーは早い話が、製品企画と仕入れ販売のみを行っている「商社」なのだ。そしてこの構造は、他の業界にも急速に広がっている。あなたが手にして飲んでいる飲料、それも東南アジアで製造充填されたものかもしれない。あなたが読んでいる文庫本、それもアジアで組み版され印刷されたものだろう。かりにそれらが国内で製造されたものだとしても、もう製品在庫は静岡や北陸の物流センターに送られ、集中管理されるのだ。だったら、工場をわざわざ大都市圏の近くに持つ必要はないではないか?

こういう訳で、日本の工場立地はある意味、二極分化を起こしつつあるように思われる。製品が複雑で研究開発のスピードが重要な場合は、「研究開発型工場」として大都市圏に戻りつつあり、一方、製品が単純で製造技術が確立してしまったものは、どんどんと都市圏から離れていく。無論、それは製品の数量や、重量あたりの単価によっても異なる。いずれにせよ、今日の工場計画は、サプライチェーン(物流拠点)の配置論をはずしては、考えられない段階に突入したのである。

# by Tomoichi_Sato | 2010-01-12 22:46 | 工場計画論 | Trackback | Comments(0)
パネルディスカッション「プロジェクトマネジメント最前線」出席のお知らせ
お知らせ:

来る1月30日(土)全電通ホールで開催される、日本プロジェクトマネジメント協会主催の『新春セミナー』において、
 パネルディスカッション 「プロジェクトマネジメント最前線の状況と近未来」
にパネラーとして出席します。

ご興味のある方は、よろしくご来聴ください。
# by Tomoichi_Sato | 2010-01-11 23:20 | Trackback | Comments(0)
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