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英国史上、最も偉大な技術リーダーに学ぶべきこと

イザムバード・ブルーネルIsambard Brunel(1806-1859)の名前をご存じだろうか? 19世紀前半の英国を生きたエンジニアだ。生まれは今から210年前。その時代、英国は産業革命の成功を背景に、猛烈な勢いで勢力を伸ばし、北西ヨーロッパの島国から、世界最大の強国に成長しつつある時代だった。

BBC放送は2002年、「歴史上最も偉大な英国人」100人を選出した。1位はウィンストン・チャーチル。そして第2位がイザムバード・キングダム・ブルーネルだった(日本では「ブルネル」と表記されることも多い)。ちなみに、3位はダイアナ妃、4位がチャールズ・ダーウィン、5位シェークスピア、6位アイザック・ニュートン、7位エリザベス一世・・という具合だ。偉大な科学者や文芸家たちをおさえて、第2位の地位を占めた技術者ブルーネルとは、どんな人物だったのか?

1835年、首都ロンドンと、大西洋に面する英国西海岸の港町ブリストルをつなぐ、「グレート・ウェスタン鉄道」の建設事業が始まる。ブルーネルはその主任技師だった。当時まだ29歳。彼は路線候補地を自分で調査した上で、高低差や急カーブの極力ないルートを選び、さらに走行安定性と乗り心地を保証するため7フィートという広軌の鉄道を設計・建設する。建設ルートの中には世界最長のボックス・トンネルも含まれていたが、見事にこれをやり通す。さらに彼は自ら蒸気機関車の仕様を決めて作らせ、当時世界最高速の時速100kmの走行を実現する。

しかしブルーネルの構想はこれにとどまらなかった。彼は、ブリストル港から米国へ汽船航路をつくり、ロンドンからニューヨークまでをつなぐ、文字通り"Great Western"な輸送実現を考えていた。この当時、まだ蒸気船で大西洋航路を渡った実績はなかったし、船のサイズと必要な石炭や水の量から考えて、そんなことは不可能だと信じる人も多かった。しかし彼は周到な計算の上、船体を大きくする方が相対的に抵抗が少なくなることを示し、世界最大となる72m長の蒸気船「グレート・ウェスタン号」を作る。木造船だったが、骨格を鉄で補強した船だった。蒸気機関には最新鋭の復水器を装備し、高効率と水の消費量の削減を実現。そして1839年、見事に大西洋航路横断に成功するのである。

ただしこの船は、まだ船体の横に外輪をつけたパドル型だった(ペリー総督が乗ってきた黒船のタイプである)。ブルーネルはこの構造を刷新し、1843年には「グレート・ブリテン号」を就航させる。これは98m長、3,400トンの鋼鉄船で、推進力は外輪ではなくプロペラだった。今日の近代船舶の祖型となった船である。これによって、英国は北大西洋航路における独占的な地位を築く。
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ブルーネルはさらに1852年には、210m長・2万2500トンという途方もなく巨大なGreat Easter号をつくる。構造的には二重底や防水隔壁をそなえた画期的なもので、これらの原理は今日の造船工学の常識となっている。この船は客船としては商業的に成功しなかったかわりに、特殊船として大西洋ケーブルの敷設に使われ、これによって欧州と米国は電気通信がはじめて可能となった

ところで今日の英国では、ブルーネルの名声はむしろ橋の設計と建設で記憶されているようだ。これも当時世界最長となった192m長の「クリフトン吊り橋」。ブリストルの西部を流れるエイボン川に架橋されており、今でも現役で使われており観光名所となっている。彼は設計において自重や応力分布を細かく計算し、鋼材の負荷状態を知ることができるようにしていた。

そして1859年完成の「ロイヤルアルバート橋」。機能と形状が美しく調和した設計の橋である。ただし、まだクレーンのないこの時代、河の中央部に設置する橋桁の工事が最大の難関だった。ブルーネルはここで『ニューマチックケーソン工法』を採用する。大きな鉄管を沈めて圧縮空気を送り、中で作業員がセメント等で補強し固定する工法だ。
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彼はまた、英国のクリミア戦争のとき、戦地に赴いたフローレンス・ナイチンゲールの要請に応えて、木造プレハブ工法によりレンキオイ病院をわずか5ヶ月間で建設する。今日の衛生・消毒・換気・室温コントロールの原理をといいれた換気装置付きの画期的建築設計で、感染症を抑えたおかげで、他の野戦病院での死亡率が40%だったのに比べ、この病院はわずか3%にとどまった。

ブルーネルは1959年、わずか53歳で亡くなる。彼は大学を出ておらず、たたき上げだった(父親はフランスに留学させたのだが、国籍の問題で入学を拒否されたのである)。帰国後間もない若い頃、父親と協力してテムズ川の川底を通るテムズ・トンネルの施工に従事する。当時はまだ人力掘削の時代であったが、側壁を支えながら掘削していく一種のシールド工法を用いて建設され、鉱山以外では例をみない新しい方式であった。このトンネルは現在でも地下鉄East London線で使われ続けている。

彼ら親子は自ら先頭に立って工事現場で指揮し、崩落事故で労働者が取り残された時、一人戻って救出にあたったのも、若きブルーネルだった。こうした点も、彼が英国史上10傑も選ばれた理由なのだろう。理論だけでもなく、設計だけでもなく、施工だけでもない。その全てを率先してこなした点に、ブルーネルの偉大さがある。

BBCによる説明からの孫引きになるが、ブルーネルは「エンジニアという、閃きが不可欠であるけれど も、それと同時に投資家や事業家を惹き付け、製造・建設に従事する労働者達の士気を高め、なおかつ安全確保等の観点から細部へのこだわりも持っていなければならないという、困難な職業を完璧なまでにこなした、 バランス感覚に優れたタフな人物だった」。

ここには一つの、完成されたエンジニア像がある。彼は(むろん彼女でもいいけど)、
・発想のひらめき、創造性がある
・事業家や投資家の関心を引きつける
・実際の作業に携わる人々の士気を高められる
・細部へのこだわりと、安全確保の心構えがある
という4本柱が必要なのだ。どれか一つでも欠けると、大きな仕事はできない。

世の中には技術者が尊敬される国、尊敬されない国がある。たとえば、フランスではエンジニアの地位が高い。これは歴史的な理由により、工学部がグランゼコールとよばれるエリート大学に設置されてきたかららしい。ドイツやイタリアでも、マイスター制度などの職人手仕事への敬意と、長い科学研究の伝統があって、それなりのようである。逆にわたしはずっと、英国ではエンジニアは中流階級の仕事であり、地位はあまり高くないと思い込んでいた。しかしBBCのランキングを見ると、間違いだったようだ。かの国でもちゃんと、優れた仕事をした技術者は評価されるのだ。

正直にいうと、わたしがブルーネルの名前を知ったのはつい3年ほど前のことだった。アルジェリアのテロ事件で亡くなった、故・新谷正法氏(前副社長)が社内で行った、安全に関する短い講演資料で知ったのだ。その内容は、「ハイボールと、本質的安全設計の教え」(2014-01-19)で紹介したとおりだ。じつは、飲料「ハイボール」の語源となったあのボール信号機は、ブルーネルがグレートウェスタン鉄道で採用した工夫の一つだった。シンプルだが、故障すると安全側に動き、本質的に安全な設計である。ああしたところに、傑出した技術者の精神が現れるのだ。

では日本で同じようなランキングを作ったら、上位に入る技術者はいるだろうか? あなたは誰の名前を書くだろうか。島安次郎? 本田宗一郎? 技術者は芸術家と違って、個人で名前を残すつもりで仕事をしているのではない。つくったものが、長く人々に使われることが、技術者には一番の幸せなのだ。石碑や銅像を建ててほしくて働くのではない。そしてもちろん、管理職として大企業で出世するか、さもなくば起業家になってIPOで金持ちになる事が、エンジニアとしての理想像だという今日の通念も、間違っているとわたしは思う。しかし、偉大な仕事をした人は、わたし達の社会にもたくさんいたはずだ。では、わたし達はなぜ、彼らの名前や、業績や、その理想と心意気を知らないのだろうか。

傑出した鉄道技術を表彰するために、1985年に「ブルネル賞」が創立された。だが、ブルーネルは、機械工学の仕事も、土木工学の仕事も、建築の仕事もやった。そして、どれも傑出していた。彼は何か一つの専門分野に立てこもった「専門家」ではない。科学研究の世界は、どんどん専門分化していく傾向にある。だが、技術は総合化していく必要がある。とくに「大きい仕事」「先端的な仕事」をしたければ、隣接する多くの技術を束ねていく力=インテグレーション能力がなくてはならない。
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(ブルーネルの設計によるパディントン駅)

それと同時に、エンジニアは技術の歴史を学ぶべきである。技術は単体では生まれてこない。社会のニーズ、周辺を支える別の技術、最新の科学法則、そして事業を支える経済力など。こうした文脈をすべて見通した上で、はじめて優れた仕事が生まれるのである。愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ、という金言がある。ならば、わたし達も、広く技術の歴史を学ぶべきではないか?


<関連エントリ>
 (なお、写真3点はいずれもWikipedia英語版からの引用による)

# by Tomoichi_Sato | 2016-08-28 18:18 | ビジネス | Trackback | Comments(0)

職人的であること、エンジニアであること

ちょっと贅沢をして家族3人でお寿司を食べに行った。ネタの新鮮さでは界隈で一番という店である。期待通りの、いや期待を超えた美味だったし、いつもは寡黙なメインの寿司職人さんが、珍しくいろいろ話をしてくれた。包丁の入れ方だけでイカはどれほど旨みが変わるか、雲丹は塩水保存とミョウバンを使ったものでは口どけが全く異なること、などなど。サンプルと実演を混ぜて教えてくれた。寿司職人の勤務時間や修業時代についても、語ってくれた。お盆の連休前で、リラックスしていたのかもしれない。

帰り道に、息子が感心したようにつぶやいた。「寿司職人て、なるのはやっぱり大変なんだね。時間も仕事もきつそうだし。でも、それだけ修行したら、あの人みたいな腕になるんだ。」就活が一段落したばかりの息子は、たぶん来年からの自分自身も重ね合わせて、感じ入ったらしい。「それに、あのイカの味の差! すごい技術だよね。」

——技術じゃなくて、技能だな。
わたしは、軽く訂正した。

「技術と技能って、何か違うの?」

——違うよ。技能ってのは、あの板さんみたいに、その人の目や腕にいわば染み込んだ能力のことをいう。これは人についていて、他人にすぐには伝えられない。『属人的』な能力といえるだろう。

「ふうん。」

——ところが、技術というのは違う。技術ってのは、基本的に人に移転可能なんだ。技術の基礎は科学法則とか、経験知だけれど、それは言葉や数式や道具にして、人に伝えることができる。ここが大きな違いだ。

「そうなんだ。」

息子は再生可能エネルギーに関係した仕事を志望している。一応理系の学部を出て修士課程で学んでいるが、工学部ではないのでエンジニアの教育は受けていない。かといって営業とか経理など、事務屋になる訳でもない。では、どういう職種になるのか。どういう風に、腕を磨くべきなのか。そこが関心事なのだろう。そこで、わたしは続けた(誰かにものをたずねられると、いい気になってしゃべり続けるのが、わたしのいつもの癖である^^;)

——職人技と技術の違いを分かっていない人は、世の中に珍しくない。もちろん、どちらも大切なものだ。だけど、自分たちの会社の強みが、どっちで成り立っているか自覚していない企業も多いんだ。たとえば、精密な加工で、高性能な製品を作っている会社がある。そこの技術者たちは、自分たちの設計が良いから、高性能だと思っている。だけど、その精密加工は、じつは現場の職人の技能が支えているんだ。彼らが退職してしまったら、もう設計図どおりに製品を作れない。たとえ作っても、元の性能は出ない。だったら、その会社が大事にするべきなのは誰か。分かるよね。

「現場の人でしょ?」

——うん。あるいは、こういう例もある。超高圧に耐える製品を出している会社だ。微細なずれも許されない。だけど、その中核となる部品は外注先の中小企業が製造していた。その外注先がつぶれたら、あるいは経営者が高齢化で会社をたたむことにしたら、どうやってその製品を作り続けるのか。たずねてもはっきりした答えはなかった。不思議だと思わないか。技術というのは再現性のある結果を出せるから、技術なんだ。生産の継続性が保証できないのに、技術と言えるだろうか。図面を引くだけが、技術じゃないんだ。

「職人の仕事は、再現性がないの?」

——人によって違うだろ。さっきの板さんと、下っ端じゃ、同じ材料の刺身を切っても味が違う。

「なるほど。」

——まあ、大学を出た知的職業の中にも、職人的な仕事はいくらでもある。弁護士だとか、外科医だとか、音楽家とかは、同じケースを扱っても人によって結果が全然違う。だから、職人仕事が低級だとか、まずいとかいってるんじゃないよ。ただね、技術者はそうであってはいけない。同じ条件で設計したのに、材料の量が人によって3倍も違う、というのは技術になっていないんだ。

「設計の上手・下手っていうのはないの?」

——それは確かにあるよ。設計は与えられた条件の中で、科学法則に従いながら、問題を解決できる構造や形や機能を与える仕事だ。手際のよしあし、できばえの美しさや効率の良さ、というのは違いがある。とくに設計上の自由度が大きい、白紙のキャンバスに絵を描くような種類の仕事ではね。それでも、技術者はいつも普遍性を意識していなくちゃいけない。どんなときにも、一定のレベルで結果を出せなきゃプロとは言えないだろ? 経験知は言葉や式や道具にして他人に伝え、後輩の設計が下手なら、育成指導しなきゃいけない。そこまでやって、はじめてエンジニアの仕事は完結したといえる。

「ふうん。」

——ただ、一番良くないのはね、自己認識と、実際に自分がやっていることが、ずれている場合だ。たとえば、『自分はエンジニアだ』と信じながら、仕事のやり方はじつは職人的だ、という人がいる。職人は客観的な数字より、自分の五感を信じる。個人主義で、弟子以外の人に技を伝えるのを嫌う。原理や法則化も志向しない。だから、そういう自己認識のずれがあると、組織がだんだん歪んでいく。

・・そう説明しながら、わたしは職人的であることと、技術者であることの特徴的な違いを、頭の中で拾い出してみた。いろいろな類型化が可能だが、わたしがすぐに思いついた違いは、次のようなことだった:

「職人」
・五感を大切にする
・言葉による教育はしない
・自分が納得できる仕事がしたい(一に自負、二に報酬)

「エンジニア」
・科学的原理と経験知を大切にする
・知識と数式で教育する
・大きい仕事がしたい(組織人であることに抵抗がない)

わたしの連れ合いの父、つまり息子から見ると父方の祖父は、職人あがりだった。だからイメージがつかみやすい。職人は、自分の目で見、鼻で嗅ぎ、手触りによる判断を大事にする。自分の五感を最も信じるのだ。また、職人は徒弟制度の中で育つが、その基本は実地教育であり、懇切丁寧に教えたりはあまりしない。むしろ「親方から盗むこと」「先輩の背中を見て育つこと」を期待される。

そして、職人的であることの何よりの特徴は、仕事に対する態度だ。それは、「自分が納得できる良い仕事がしたい」と強く思うことだろう。職人はもちろん、報酬のために働く。昔は出来高制だったから、たくさん働けば、それだけ良い収入を得られた。しかし、お金より大事なのは、「納得できる、良い仕事」なのだ。職人にとっては仕事の成果が自分にとっての最大の報酬である。逆に、お金は二の次で、自分の興味ある仕事に打ち込んでいくのが、職人的な態度だ。

ところで、わたしの父親は技術者だった。父は早く亡くなったが、それでも大きな影響を受けた(エンジニアリング会社などというところで働いているのも、その影響の一つである)。父は数学や科学的原理を大切にしており、またよく勉強していた。ただ、自分もエンジニアになって分かったことは、科学が十分に説明できない経験知も、非常に大きな比重をしめていることだ。ただ、そうした知識と数式が、技術者教育の基本にある。「移転可能であること」が技術だからだ。

もう一つの技術者の特徴は、「大きい仕事がしたい」と考える人が多いことだ。大きい、は一種の比喩であって、物理的には「世界最小の製品」だって、意味的には「大きな仕事」である。とにかく、先端的な仕事で実績を上げ、名を上げたいという欲求が強い。そこは一種の競争心である。そして、大きな仕事をするに当たっては、技術的な分業体制が必要になる。そのため、組織人であることに抵抗がない点も、エンジニア達の特徴だろう。組織に属し、組織のルールや制約にも黙って従う。そこは、自立心の強い職人たちとは、少し違っている。

では、ものづくりの仕事に携わる人は、職人と技術者の2類型に分けていいのだろうか。なんだか足りないものがあるな・・と考えて、気づいたことがあった。連れ合いの父も、わたしの父も、後年は人の上に立ち、人をリードする立場になっていた。つまり単なる職人や技術者ではない、別の職種になったのだ。人を束ねて、ものづくりを進める。経営者というと身分の話になってしまうから、ここではあえて「技術リーダー」という言葉を使うことにしよう。そう、以前紹介した、ワインバーグの使った用語である。では、技術リーダーとはどういう人たちか?

「技術リーダー」
・直感と協調性を大切にする
・リーダーは教育と実地訓練で育てられると思っている
・価値がありお金も儲かる仕事がしたい

技術リーダーはとても実際的な人たちである。彼らは現実感覚、もっといえば自分の直感や見通しを大切にする。同時に、人を束ねる仕事だから、協調性も大事だ。協調性とはいいかえると、「感情やパッションを共有すること」である。また、彼らは後輩の育成指導も大事な仕事と心得ている。こういったリーダーは、たんに素質を見いだすだけではなく、言葉でも教育し、かつ実地訓練で育つと考えられている。

技術リーダーたちが望む仕事は、価値があり、かつ、ちゃんとお金も儲かる仕事である。価値がなければ人々はパッションを失ってしまい、ついてこなくなる。しかしお金が儲からなければ、人を養うことができない。人を大切にし、かつマネーにもこだわる。これが技術リーダーだ。(なお、わたしはこういう人たちを『プロマネ』という言葉でよびたい欲求もあるのだが、そうよんでしまうとかえって狭く受け取られかねないので、このままにしておく)。

こう考えると、ものづくりに携わる人たちには、三つの類型があるように思える。職人と、エンジニアと、技術リーダーだ。三つの頂点が作る三角形の中に、自分を付置してみるのも面白い。そして自分の目指す方向も描いてみる。たいていの理系大卒の人間は、右下隅のエンジニアの卵としてキャリアをはじめる(わたしもそうだった)。その後、エンジニアであり続ける人もいるが、科学原理は脇に置いて、リーダーとして人を動かし、世に認められる(商業的にも)仕事を目指していく者もいる。また科学原理を離れ、職人的になって自分の感覚を頼りに、守備範囲を孤独に掘り下げていく人もいる。どれを選ぶかは上等下等というより、価値観の問題だ。
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・・というようなことを考えつつ、さて、こういったややこしい図式を、ほろ酔い機嫌の帰り道で説明するのはなかなか至難だな、と思っていたら、しばらく黙っていた息子から質問があった。

「エンジニアに向いているか職人に向いているかって、会社ではどうやって決めるてるの?」

——それはね、本当はその人の資質で決めるべきなんだけど、たいていの会社ではいわゆる学歴で最初から振り分けているのさ。『技術員』と『技能員』という言葉で呼び分けている会社もある。技術員は大卒で、事務所で計算や図面引き、技能員は高卒で、現場で一生、力仕事、と。昭和時代には、大卒は「人事部」が管理して、高卒は「労務部」が相手する、という風に管理組織まで分けている会社があったくらいだ。

「え、人事と労務って、そういう違いだったの?」

——かつて、一部の会社ではね。そして、大卒はホワイトカラーとしてどんどん上がっていけるけれど、高卒は良くても課長止まり、という会社がほとんどだった。給料も全然違う。あんまりバカバカしいから、みんな子どもは大学に行かせるようになった。日本では90年代の初めに、高卒より大学進学者の方が多くなる逆転現象がおきた。結果として、現場で働く職人はだんだん減って、現場仕事の質は残念ながら、どんどん下がってしまった。その一方で、ホワイトカラーや営業職種は水ぶくれになって、生産性が上がらないことおびただしい。品質問題と生産性低下。これが平成不況の症状だ。明らかに、間違ってるだろ?

「何でそんな事になっちゃったのかな。」

——それはね、人間の職種を上下に分けて、それを学歴で振り分けたことだ。職人は肉体労働として卑しんだ。誰でもできて、代わりはいくらでもいると、高をくくった。自分たちの産業が、どれほど職人仕事に依存しているかも理解せずにね。そのくせ高学歴の自分たちは、無意識に職人的な仕事ぶりになって発展力を失っていった。

「技術の進歩で、職人仕事は減らないの。」

——ある種の単純な力仕事は、たしかに減ったさ。だけど確実に残る部分はある。さっきの板さんの仕事を、ロボットで代替できるかな? ああいう手先の細かな技能こそ、日本の宝なんじゃないかな。あの板前さんは大学どころか高校も出なかったみたいな話しだったけど、立派な技量を持っている。日本は学歴社会っていうけれど、じつは「入学歴」にすぎないだろ。

「そうだね。」

——18歳のある日の試験で、人よりたくさん正解を言えたからって、一生優遇されるなんて馬鹿げてる。お父さんの会社はさ、いろいろ問題はあるけれど、一つだけ自慢していいことがあるんだ。それは、大学を出ていなくても社長になれることさ。

「そうなの?」

——そうだよ。俺が入社したときの社長は、高専卒だった。それに、今から10年くらい前の社長も、たしか高専卒だったはずだ。それでいいんだよ、エンジニアリング会社なんだから。エンジニアは技術力がすべてだ。それは、その人が仕事でどれだけ学んできたかってことを示してる。さっきの板前さんの修行も同じさ。学歴ってのは、本当は『学んできた歴史』のことを言うべきだ。社会に出てから、どれだけ学んだかが、その人の本当の価値なのさ。


<関連エントリ>
 →「スペシャリストか、ジェネラリストか?」 (2016-04-18)
 →「組織のピラミッドはなぜ崩壊したか(2) 学歴社会の矛盾」 (2010-09-19)
# by Tomoichi_Sato | 2016-08-21 03:40 | 考えるヒント | Trackback | Comments(1)

マネジメントの仕事・地位・パワーを混同してはいけない

ある朝、目が覚めると、あなたはノルウェー国王になっていた。いったいどうしてこんな事になったのか。あなたは自分の名前も、生まれ育った日本の町も経歴も、全部ちゃんと覚えている。なのに、ノルウェー国王になったつい最近のいきさつだけは、すっぽりと記憶から落ちている。

呆然としながらも身支度を終え、質素ながらも立派な朝食を食べて人心地ついたあなたの前に、宰相がやってくる。彼は礼儀正しくあなたに挨拶をすると、いくつかの紙の束を取り出して、あなたの前に置く。「国王陛下。これが本日、発布いただきたい法律と政令です。どうか、ご署名ください。」

念のために言っておくと、北欧の国ノルウェーは、完全な民主主義国家である。法律は国民の選出した議員が国会で決める。だが、すべての法令は、国王の名前で公布するしきたりになっているときく。宰相があなたにサインを求めてきたのは、そのためである。あなたの前には、法令書類一式と、国王用の立派なペンが置かれている。

さて、ここで問題である。あなたは、法案にサインして交付することにした。あなたのしている事は、マネジメントだろうか?

・・これは、わたしが大学の授業でプロジェクト・マネジメントを教える際に、学生に問いかける質問の一つである。プロジェクト・マネジメントの講義であるから、最初はまず、プロジェクトとは何か、そしてマネジメントとは何か、について、簡単にレクチャーするところからはじめる。プロジェクトとは、(1)終わりのある仕事であり、(2)複数の人間が協力する必要があり、(3)失敗のリスクがともなうような種類の仕事である、とまず説明する(これはPMBOK Guideの”A project is an endeavoir …"という抽象的な定義を、わかりやすく言いかえたものだ)。

ついで、マネジメントとは多義語だが、その中核にある原義は、

 「人に働いてもらって、目的を達成する事」

だと教える。人を動かすことがマネジメントであって、自分の手を動かして何かを産出することは、(それ自体は尊い仕事だが)マネジメントとはよばない。

他に二つ、マネジメントとして大事な要件がある。それは、先読みとリスクテークを含む「決断」を必要とすることだ。不確実な状況下で決断しない人、決断できない人、先延ばしにする人は、マネジメントに向かない。また、計画を立て、現実との差異から学ぶことも、マネジメントに必須の仕事だ。 計画立案と現実の統率は「マネジメント」の車の両輪である 。だから、

「人を動かせない・決めない・見通せない・学ばない上司やボスに、皆さん方は将来、出会うかもしれません。だが、その人がたとえ立派な役職についていようとも、そういう人の仕事ぶりは『マネジメント』からはほど遠いというべきです」

という話をしてから、上記の質問をするのである。ある朝気がつくと、あなたはノルウェー国王になっていた。さて、法案にサインし交付するあなたの仕事は、マネジメントか? と。

こういう聞き方をすると、マネジメントではないと思います、と答える学生がほとんどだ。なぜ? とわたしは聞き返してみる。たいがいは、こう答える。
「だって、人を動かしている訳でもないし、自分で決断している訳でもないでしょう。」

でも念のため、わたしは意地悪く質問を重ねる。・・そうかなあ。法律を定めたっていうことは、ノルウェーのすべての人がそれにしたがって動くということじゃない? つまり、人を動かしている訳だ。それにあなたは、自分の意志でペンを取って、サインすると決めたんでしょ?

「でも、法案にサインしない、っていう選択肢はないんだとしたら、それは決断とは言えないと思います」

その通りだ。ノルウェー国王には、こんな法案は気に入らないから、別のものを持ってこい、と議会に命じる権限はない。拒否権はないのだ。それに、法律が人を動かすのは事実としても、それは国王が意図した目的のために作られる訳でもない。だから「人を動かして目的を達する」ことにはならない。

念のためにいうと、ノルウェー国王は、元首である。国内で、彼(彼女)よりも偉い人はいない。人々の上に立つ、トップリーダーだ。だが、人の上に立つということと、マネジメントをする事とは、まったく別である。この単純な事実を理解してもらいたくて、わたしはこんな変な質問を学生にするのだ。

というのは、「管理職の地位に就く」ことと、「マネジメントの仕事をしている」ことを、人はしばしば混同するからだ。何らかの地位にあるのは、英語で言えば to be 〜である。しかし、マネジメントをするのは、英語なら to do 〜だ。イコールにはならない。

さらにいうなら、マネジメントは、管理職になるよりずっと前から、たいていの人に必要となる仕事なのである。「人に働いてもらって目的を達成すること」である以上、入社後まださほど年数もたたない若手技術者が、仕様書を書いて外注先に発注し、仕事をしてもらったら、明らかにこの人はマネジメントをしている訳である。あるいは、同僚や先輩の協力を得て店を決め、得意先との楽しい飲み会をセットし幹事の仕事を全うできたら、マネジメントの初歩をしているのだ。いや極端に言えば、朝の食卓でお母さんに「そこのお塩とって」と頼んで、お塩をとってもらったら、その瞬間は母親をマネジメントしたのだ。

もっとも、「立っている者は親でも使え」の諺にしたがって、母親にお塩とってと頼んだら、「何いってるの、あんたが自分でとりなさいよ、この不精者!」と逆襲される可能性は多々ある。あなたには、母親を動かす『強制力』がないからである。上長はふつう、部下に命じて動かす強制力を持っている。なぜなら上司には、部下の査定と予算承認の権限があるからだ。部下が著しく不従順ならば、査定で給料を抑えたり他部門に飛ばしたりすることも可能だ。発注書だって管理職の判子がなければ普通は効力を持たない。

こうした強制力のことを、英語ではパワー(Power)とよぶ。いいかえれば、『権力』である。管理職は部下に対する権力を持っている。とくにアメリカ英語は簡潔かつ即物的だから、権力を持つ人のことをパワフル(Powerful)だと表現する。かつて黒人女性としてはじめて国務長官の地位に就いたライス女史のことを、有名誌が「世界で最もパワフルな女性」と表現したが、これは単に彼女がエネルギッシュであることを述べただけではない。実際に世界で(米国大統領を除けば)もっとも権力を持っていて、他国を否が応でも動かせる立場にいることを意味したのである。

さて、世の中のたいていの組織は、地位についてピラミッド型の階層構造を持っている。どうしてこういう形の組織が生まれるのか、本当にこうした位階秩序は合理的なのか。この問題については、ノーベル賞を受賞した経営学者ハーバート・サイモンをはじめ、多くの研究と説明があるが、ここでは省こう。ともかく、上に行けば行くほど椅子の数は少なく、職位が上の方が名誉も大きいとされている。人間には生まれ持った競争心があるから、組織人はつねに、上に行きたいという気持ちを抱いて働くことになる。

昇進への欲望をモチベーションにして、人を働かせるという方策は、たいへん良くできた仕掛けであって、これまで十分な効果をあちこちで示してきた。昇進もなく、将来への希望も全くない職場だと、どれくらい仕事の質や効率が落ちるか、容易に想像できると思う。

しかし、このような仕掛けには、まずい点が一つある。それは、地位・権力(=パワー)と、「人を動かし、見通しを持って計画し決断して、目的を達成していく」仕事(=マネジメント)とが、混同されやすい点である。くどいようだが、地位・権力は、"to be" とか "to have” で表現するもので、マネジメントは “to do”で語るべきものだ。

だが、管理職という地位・権限と、マネジメントという職能を等号で結びつけてしまったがゆえに、
「マネジメントは管理職がするもの」
「管理職だからマネジメントしているはず」
「自分は技術者だから(管理職じゃないから)マネジメントは関係ない」
といった誤解と錯覚が、あちこちで無限に増殖していく。

マネジメントは一種の専門的な技量であり、それをきちんと行うためには専門的技術(「管理技術」)を学ぶ必要がある、というような認識は、出世街道とピラミッドからなる組織図からは生まれにくい。まして、「プロジェクト・マネージャーとは、マネジメントという仕事を専任で引き受ける、一種の『役割』(Role)である」という概念など、非常に縁遠くなる。

プロマネとは一時的な(=有期性の)役割である、というのは、現代PM理論の世界では常識的な概念だ。ちょうど演劇で、今回の芝居ではこの人が国王役、と決めるように、そのたびごとに決める役割である。そして、いったん役割が決まったら、たとえそのプロマネが自分より年下であろうが、技術的には自分の方がずっと知識があろうが、最終的にはプロマネの計画や判断に従って動いていく(むろん、途中で意見のやりとりはあるだろう、当然だが)。なんとなれば、プロジェクトの最終的成果、価値への責任はプロマネが負っているからだ。責任を負うから、権限も委ねる。「権限=責任」の等式の両辺は一致させる。そのかわり、マネジメントのための管理技術の体系を学ばせる。これがまあ、現代流の(あるいは西洋流の)PM理論の考え方である。

ここでは、マネジメントをする「個人」と「ポジション」と「管理技術」が、それぞれ独立している(DB技術風にいうと、独立したエンティティになっている)。ところが、出世街道ピラミッド型の組織論で、すべてのマネジメントをまわそうとすると、
「優秀な個人」←→「上の立場・権力」←→「マネジメントの仕事」
という風に、ひとつながりになってしまう。

ここからさらに派生して、「部下を動かすのが上司の権限」=部下を不合理にいじめて上司風を吹かせるのも有能なる自分の特権の一部、と合点するパワハラ不心得者さえ、一定数、出現する。

ピラミッド型組織で、このような不都合を防ぐには、どうしたら良いのか。解決策は、二つある。一つは、管理職位ごとに、きちんと細かくルールを設定することだ。どういう人間ならばその職位につけるのかという、能力による品質基準(Qualification)。その職位がなすべき機能と権限の範囲。そして機能が要求する技術・知識・スキル。こうしたことを、個別に設定する。これを、ガバナンスとよぶ。

ただし、この処方箋の困難な点は、社内ルールを制定する権限もまた、上位職者が握っていることだ。だから「マネジメントには独立した管理技術がある」なんて意識がこれっぽっちもない方々が経営層に多い場合、こうしたルール制定は不可能だろう(そんなルールを敷いたら、まず自分たちが真っ先に不適格になってしまう)。本当は株主がガバナンスを要求すべきなのだ。だが、利益が出て株価が高ければ、あとは興味のない株主も多い。

もう一つの方策は? それは、「外を見る」ことである。自社のありようは自社のありようとして、外ではどうなっているのか。目前のライバルだけでなく、広く視野を世界に求めて、世の中ではどうしているのかを、学ぶ。これは日本企業が、これまで以上に海外と接するようになった今日、むしろ日々得られる体験でもある。

その昔、咸臨丸にのって米国を視察してきた勝海舟に、江戸城で幕府の重役がたずねた。かの米国と我が国の違いは何かと。海舟は、人間のすること古今東西同じもので、アメリカとて別に変わったことはありません、と答える。しかしそれでも何かの違いはあるであろう、と繰り返したずねた重役に対し、
「さよう、少し眼につきましたのはアメリカでは、政府でも民間でも、およそ人の上に立つものは、皆その地位相応に利口でございます。この点ばかりは、全くわが国と反対のように思いまする」
と答えた。するとご老中が目を丸くして、「この無礼もの。控えおろう!」と怒鳴ったという(「氷川清話」による)。

わたし達は勝海舟ほど剛胆ではあるまい。だが、米国の実情が彼のいう通りかどうかはともかく、他者を見て改めて我を振り返る、というのはわたし達に共通した特性である。勝自身、さまざまな身分の浮沈をくりかえし経験した人間であった。だからこそ彼には、地位と職務の違いが見えていたのである。

追記:
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ネットで検索すると、現在のノルウェー国王ハーラル5世は、この方である。Wikipediaによれば、なんでもノルウェー生まれの国王は、500年ぶりらしい。ときには自国の言葉もしゃべれない他所者を国王に招いたりするヨーロッパの人たちの王室感覚というのは、よく分からないものである。国王というのも、あるいは一種の『役割』なのだろうか・・?
# by Tomoichi_Sato | 2016-08-11 18:21 | プロジェクト・マネジメント | Trackback | Comments(0)

書評:「アルベマス」 フィリップ・K・ディック著

アルベマス (創元SF文庫)」大滝 啓裕・訳 (Amazon.com)

カリフォルニア州バークレイの街の住民ニコラス・ブレイディは、やや気むずかしい妻と小さな息子、それに猫と一緒につつましく暮らしていた。市内の大学にも通ったのだが中退し、レコード店の店員として平凡に過ごす彼の日常は、ある日、奇妙な神秘体験とともに激変することになった。啓示のように下った指示に従い、彼は住み慣れたバークレイの街を離れ、南カリフォルニアのオレンジ郡にうつって「プログレッシブ・レコード」社に上級職を得たばかりか、6歳の息子に先天的疾患があることを見抜いて治療を受けさせる。こうした一連の神のような啓示を与える主体を、ニコラスは「巨大にして能動的な生ける情報システム」Vast Active Live Intelligence System = VALISと名付け、人工衛星を中継した星からの通信であると信じるに至る。(「情報」はInformationではなく、Intelligenceである点に注意)

その頃、南カリフォルニア出身の上院議員フレマントは、政敵たちを巧みに葬り去り、反共主義をバックにして、大統領の座に上りつめる。トップの地位に就いた彼は、「アラムチェック」という地下組織がアメリカ国家をおびやかす重大な脅威になっていると宣言する。そして、右翼の青年グループを組織して、「アメリカの友」FAPという、武装して制服を身につけた若者たちの集団を作り上げる。彼らは警察の別働隊として、警察の黙認のもと、疑わしい人物を召喚尋問したり襲撃したりするようになる。

ニコラスもある日、FAPのメンバーにオフィスを訪問され、プログレッシブ・レコード社を訪れる反体制傾向のある歌手志望者を密告するよう要請される。だが、彼らの口ぶりから、真の狙いがVALISの把握と破壊にあると察知したニコラスは、友人の作家フィルに相談する。しかしフィルもまた、麻薬常習者の疑いをかけられ、FAPによる尋問や秘密の家宅捜査をうけているところだった。彼は麻薬は一切手を出していないのだが、仲間のハーラン・エリスンが序文で不用意にも彼の作品を、「マリファナの影響下で書かれた小説」などと紹介したために、FAPのブラックリストに載ってしまったのだった。その彼はまさにSF小説を一本、書き上げたところであった。ソヴィエトの強制労働収容所をモデルに、アメリカが警察国家になってしまう話だ。題名は『流れよ我が涙、と警官は言った』だった・・

本書は、フィリップ・K・ディックの遺作となった『ヴァリス』に先立ち、その数年前に書かれた姉妹作品である。同じテーマ・同じ登場人物名を持つけれど、生前は発表されなかった曰く付きの作品だ。彼がなぜこの小説をお蔵入りにしたのかは分からない。たしかに第二部の最初の部分はややだれるし、ディックお得意の現実崩壊感覚には乏しいが、後半のサスペンスの盛り上がりと緊迫感は、さすがストーリーテラーである。ディックの小説を読むのは本当に久しぶりだけれど、なかなか面白かった。

この小説は、(視点は一般市民の側から書かれているが)「独裁国家の作り方マニュアル」という点でも一級品だろう。フレマントは動乱の’60年代を生き延び、ケネディ大統領や弟ロバートの暗殺の後の政治的空白をついて、選挙で合法的に大統領の地位に就く。同時に、仮想的な地下組織という国家の敵を設定する。そして武装した若者による親衛隊的組織を作り上げ、警察や諜報部門からの情報を与えて、反体制活動家たちを襲撃・無力化していく。

彼らは教育・メディア・宗教・司法を影響下におき、さらに国民の間に相互監視と密告のためのシステムを作り上げて、国民がお互いに対して疑心暗鬼になり、団結できないような社会的素地を生んでいく。これは皆、20世紀のファシスト党やポルトガルのサラザール政権が、巧みに実践したことだ。その時代、もはや企業も役所も、支配するのは名義上の経営者や署長ではなく、党であった。ここまで行けば、あとは党内反対派の粛正、そして非服従民族の強制移住による絶滅策に進むだけで、これはナチス党やスターリンの共産党が邁進した政策だ。文化やイデオロギーの違いにかかわらず、独裁国家のやることが似ている点は、不気味である。

ディックが晩年抱いた「ヴァリス」VALISというイマジネーションは、こうした恐怖社会を中和し解体するための「神の助言」システムであるらしい。本書のニコラスの生い立ちや、神秘体験で息子の疾病を予言したことなどは、じつはディック自身の体験である。それをきっかけに、彼は初期キリスト教、とくにグノーシス主義(極端な禁欲主義と二元論を奉じる一派で、後に異端と断じられた)のシンパになっていく。本書にも「魚のシンボルをつけてギリシャ語を話す若い女性」など、随所にその影響を感じることができる。だから本書でも後半、ニコラスと友人フィルは、VALISからフレマント大統領の意外な正体について、啓示を得ることになる。

結局、ディックはこの小説を下敷きにしながら、ほぼ同じ登場人物とプロットで、あの哲学的で難解な『ヴァリス』を創作する。それはまあ、本書の変奏だといえよう。だが彼は続いて、遺作となった『聖なる侵入』を書く。これは邪悪な社会システムに支配される地球に、再度、神性が侵入し救済しようとするストーリーだ。わたしが今のところディックで一番好きな作品だが、ある意味SFとしては、本書の真の意味での「転生」だといえるだろう。

本書はサンリオSF文庫の最後の一冊でもあった。奥付を見ると、87年刊行となっている。この後、サンリオSF文庫はすべて絶版となった。わたしが買ったのがいつだったかは覚えていないが、買ってからたぶん20年以上、積ん読状態だったと思う。本はワインのように熟成する訳ではない。だが、読む時機を得ると、ある種の小説は迫真性を増すのだと、あえて付け加えておこう。
# by Tomoichi_Sato | 2016-08-07 18:18 | 書評 | Trackback | Comments(0)

全体像を見るために 〜 インテグレートされた工場の作り方

前回、『最適解を組み合わせても、良い生産システムは作れない』というテーマの話を書いたら、知り合いの方から「専門じゃないので理解しにくいが、面白そうなので簡単にわかりやすく教えてほしいい」という主旨の質問をいただいた。その方は音楽好きなので、わたしはこうお答えした。

「例えば音楽にたとえてみます。合唱では、あるパートが最初から最後までずっと全力で歌ってもダメですよね。休むところは休み、手を抜くところは上手に手を抜く。それで全体としては、流れのある良い音楽になるのです。」

合唱では(オーケストラなどでも同じだと思うが)、すべてのパートが常に全力で歌っていたら、やかましくて音楽としては聞くに堪えない。「全力で」のところを、「ピアノ・フォルテの強弱はつけるが、一つひとつの音符にすべてきっちり気合いを込めて」にかえても、結果は似たり寄ったりであろう。やはり全体としては、力んだだけで陰影に乏しい演奏になる。強弱だけでなく、間合い、リズム、音程、音質など、すべてが各声部の間でちゃんと調和して、はじめて美しい音楽が生まれるのである。

だから、よく素人が錯覚するように、「才能ある上手な歌い手が集まれば、良い演奏ができる」という訳にはいかない。曲の全体像を見て、ここはソプラノが主役だから中声部は和声の支えに回るべし、とか、テナーがテーマの旋律を歌い始めたら女声は動きを目立たせるな、といった協力関係が必要になるのだ。こうした指示を与えるのが指揮者の役割なのである。指揮者の仕事とは、全体の中で部分を位置づけ、部分のできることを見て全体を構築していくことにある。これをインテグレーションの能力とよぶ。アンサンブルが小さければ、あるいは皆が知っている短い曲ならば、指揮者なしでもなんとか音楽をまとめることはできる。だが楽曲が大きくなり、メンバーが多くなると指揮者が必要になる。

ただ、ここで素人にはしばしば、第二の誤解が生まれる。それは、「全体の構想は指揮者だけが分かっていれば良い。あとの大勢は、指揮棒にしたがって動けば十分だ」という誤解である。誰かスーパーマン的なリーダーがいて、その指示と命令のもと、大きな組織が機敏に動く。これが組織の理想像だ、という思い込みは結構根強い。こうした組織の動かし方を、”Command and Control”という。軍隊的な組織はその典型である。

しかし、こういうモデルは現実にはうまく機能しない。それは別にリーダーの能力不足のためではない。そもそも「指示と命令」型の組織では、“指示されない限り自分では何も動かない・考えない”タイプの人間が量産される傾向が強い。現場の末端が先を読んで行動しないので、問題はすべてリーダーが対処することになる。しかしリーダーが強烈であればあるほど、その周辺にはイエスマンばかりが集まり、都合の悪い情報は上がらなくなる。だから問題の数がある臨界値を超えてしまうと、組織は急激に機能不全に陥っていく。普段は良くても、大変なときに限ってぽっきり折れやすい、レジリエンシーの低い組織モデルなのだ。

だから実際には、組織の構成員が、皆ちゃんと全体を理解した上で、自分の役割を果たすべきだということになる。合唱のたとえに戻すと、一人一人が、楽曲全体の構造を分かった上で、自分のパートを歌うのが望ましい、ということになる。全体像を示し、各人に伝えるのは、指揮者の役目である。また逆に、歌い手側の中にも、全体像に対する独自の意見を持つ者がいるだろう。中には、指揮者が気がつかなかった提案だってあるかもしれない。だからそうした意見を聞くことも大事である。採用するかは、最終的には指揮者の判断になるだろうが。

こうした点を踏まえた上で、前回紹介した、典型的な(下手な)工場の作り方を見ると、「指揮者のいない演奏会」のような状態になっていることに気がつく。製造機械と、周辺設備と、建築の三つのパートが、全体像を見ないまま並行して進んでいく。だから途中で手戻りが多くなりがちだし、できた者に一貫性が欠けているため、見えない非効率の温床になりがちなのだ。

どうしてこういう仕事の進め方になるかというと、「工場という名の生産システム」の全体像を見て、それを最適化しようという視点が足りないからだ。工場を、システムではなく、「機械」と「周辺設備」と「建屋」の単なる集合体としてとらえている。各部分を別の部署で担当し、足し算の論理で作り上げようとしている。

では、より良い工場の作り方は、どうすすめられるのか? ここで、エンジニアリング会社が得意とする、石油や化学といったプロセス産業でのやり方を、参考までにご紹介しよう。それはこんな風に進む:
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(0) まず、工場要件の概要から出発する。ここは前回紹介したディスクリート型工場とほぼ同様である。ただ海外企業の場合、ここに「デザイン・フィロソフィー」文書が加わることが多い
(1) 次に、プロセス設計部門のエンジニアが、工場全体の『プロセスシステム』の基本設計を行う

プロセスシステムの基本設計を担当する専門職を、「プロセス・エンジニア」とよぶ。この業界では世界共通の用語であり、わたしの勤務先にも100人単位で技術者がいる。このプロセスシステム設計は、もう少し詳しく言うと、二段階からなっている

 (1-1) 工場内を流れる物質の流量バランス(物質収支)と熱エネルギー収支の最適化
 (1-2) 制御方式の設計(測定点の決定と制御ロジックの決定)

さて、このようにシステム全体の機能と流れが確定すると、次にシステムの構成要素の設計に進む。

(2) 機械設計部門が、要素機器の詳細設計を進める

システムの機能構成と要素が決まったら、そのつながりにしたがって空間的配置を設計しなければならない。そこはさらに二段階に分かれる:

(3) 配管・建築・シビル設計の各部門が、空間設計を順に協力して進める(通常、3D-CADを利用する)
 (3-1) まず、機械エンジニアが配管レイアウトの最適化を行う
 (3-2) ついで、架構・建築・基礎設計などの構造設計が上物→基礎の順に行われる

そして、設計から具体的なものづくり段階へと進んでいく。

(4) 調達部門・工事管理部門が、資機材の調達と建設・試運転 を行う(時間的にはこの段階が一番長い)

おわかりだろうか。(0)〜(4)まで、仕事は「要件→システム→構成要素→空間配置→調達→建設→試運転」という風に、一本の線として順に進む。そして、こうした全体の流れに齟齬がないよう、リサイクル・ワークが発生しないように管制塔の役割を果たす存在がいる。

(5) プロジェクト・マネジメント部門のプロマネとそのスタッフからなるチームが、全体の流れを統括する

管制塔機能とはすなわち、指揮者であり、インテグレーションの仕事である。プロマネ配下でプロジェクト・マネジメントに専門的に関わるチームを、Project Management Team = PMTとよぶ。小さな工場案件では、プロマネが一人で面倒を見るケースもあるが、大規模案件では複数人が必要になるからだ。

前回紹介した工場づくりのワークフローとの最大の違いは、工場全体が「システム」であるという概念が存在すること、そして「プロジェクト・マネジメント」という管制塔機能が存在することである。

まあ、上で示した流れは、実際には1,000以上のWBSアクティビティからなる流れをかなり簡略化したもので、現実にはもっと複雑だし、リサイクル・ワークも発生しがちだ。だが、全体の流れを統括して、妙な手戻りは極力無くそうと最初から努力はしている。そのためにPMTのメンバーは、設計上しばしば発生する小さな変更が、他の設計・調達・建設を通じて、どのような影響を及ぼし、コスト・スケジュールでどれほどインパクトを生じるかを、つねに予測しながら判断を行う。

そして、このような流れは、わたしの勤務先だけではなく、世界的なプロセス産業全体での共通理解になっている。発注者側も、これを求めるし、これを実現するために、エンジニアリング会社という業種が存在する。そして、そこにはプロセス・エンジニアや、プロジェクト・マネジメントの専門家が多数いる。こうした人材を、工場のオーナー企業が雇っても、数年に一度しかないプラントの新設・拡張だけに従事させるのでは非効率だから、アウトソースするのだ。

もちろん、こういう仕組みだから、すべてのプロジェクトがうまくいく、などと言うつもりはない。我々も正直、手痛い失敗をいくつも経験している。ただ、プロジェクトにとって最大の失敗は、コスト超過でもスケジュール遅延でもない。使い物になる成果物が生み出せないことである。そして、少なくともプロセス産業では、「非効率で使い物にならない工場ができあがった」という失敗はない。全体システムの最適設計を最初に行うからだ。

こういう手順を踏むため、プロセスプラント系の工場の作り方は、必然的にウォーターフォール型になる。最初にとにかく、全体像を決める。今回は反応系、次は回収系、という風に、部分部分を計画しては継ぎ足していくようなやり方はできないのだ。プラント系のプロジェクトにアジャイル型が不向きなのは、決して実物の工事があるためではない。プラントが単なる機械装置の集合体ではなく、インテグレーションされた密結合のシステムだからだ。

わたしがこのところ、ずっと「仕組み」だとか「システムズ・アプローチ」だとかにしつこくこだわっているのも、結局のところ、わたしのキャリアの出発点がプロセス・エンジニアだったことに由来しているのかもしれない。わたしの入社した頃の仕事は、石油リファイナリーの工場全体を、線形計画法を使って最適化設計し、経済性評価する仕事だった。その後いろいろなキャリアの紆余曲折はあったが、どの分野の仕事でも「システムの全体像」にこだわり続けているのは、その影響なのだろう。

ただ、そうだとしても、これまでずっと専門分野を深掘りしてきた中堅エンジニアが、「全体像を見る」ためには、どうしたら良いだろうか? いまさら畑違いのプロセスシステム工学など、学んでいる暇もあるまい。

わたしがおすすめするのは、二種類の『見方の練習』である。最初の練習はまず、「上司の上司の立場になって仕事のあり方を考えてみる」ことである。自分の上司の立場を想像することは、それほど難しくない。居酒屋談義でサラリーマンが「俺が課長だったら・・」みたいなセリフを吐くシーンは、珍しくあるまいし、ある程度は正鵠を得ているものだ。だが上司の上司となると、難しい。あなたが主任だったら、課長ではなく、部長になったつもりで、仕事をどう変えるべきか、考えてみる。あなたが課長だったら、本部長の立場で、どう仕事の仕組みをつくるか、考える。これは簡単ではない。かなり視点を背伸びして、高い位置から関連する仕事の全体を見なければならないからだ。

そしてもう一つの練習は、「顧客の顧客の要求を考えてみる」である。自分の目の前の顧客の要求は、毎日接しているし、闘ったりもしているので、良く知っている(つもりになりやすい)。ところが、その顧客だって、じつはさらに顧客がいるのだ。そして彼らだって、顧客の要求に悩まされている。たとえばあなたが部品メーカーで、顧客はセットメーカーだとしよう。顧客はあなたに、つねに無理なコストダウンやJIT納品を要求してくる。

だが、その顧客だって、じつは流通側のチェーンストアや量販店から、めまぐるしい需要変動への対応を要求されているのかもしれない。だから、あなたは「顧客が要求して言ってくること」の背後に、顧客自身が悩んでいる「隠れたペイン」を見通すべきなのである。それはいいかえると、「サプライチェーンの中で、自社の位置を理解する」ことにも通じる。そういう視点を獲得できれば、あなたが日々直面している問題に対しても、別の見方、別の解決策が見えてくるかもしれない。たとえ見えてこなくても、感情的なフラストレーションは、少しは薄まるはずだ。相手を、同じ手足のついた人間として見ることが、相互リスペクトの第一歩ではないか。

こうした二種類の見方を、折に触れて練習してみること。これが「全体を見る」能力を育てるための方法だと、わたしは信じている。そうした能力は、今すぐには無用に見えても、長いキャリアの中では、きっと役立つときが来るはずなのだ。


<関連エントリ>

 →「設計思想(Design Philosophy)とは何か」 (2012-03-26)
 →「最適解を組み合わせても、良い生産システムは作れない」 (2016-07-25)
# by Tomoichi_Sato | 2016-08-02 22:24 | 工場計画論 | Trackback | Comments(0)

最適解を組み合わせても、良い生産システムは作れない

先週の7月20日に「生産革新フォーラム」で行った講演『上手な工場見学の見方・歩き方 〜エンジニアリング会社の視点から〜』には、幸い大勢の方が来場され、このテーマに対する関心の高さをうかがうことができた。そして同時に、「工場設計」という重要な仕事に関する、世間での情報源の少なさも、あらためて再認識することになった。工場づくりのポイントを学びたいと思っても、世の中には殆ど教科書・参考書の類いがないのだ。

たとえば、前回も書いたとおり、機械組立加工系の工場レイアウトには、やっかいな典型的問題がある。それは上下動線の錯綜と分断の問題である。「材料受入→部品加工→組立→検査→梱包出荷」という工程の順序のうち、前半の部品加工はしばしば大型で重い機械設備が必要になり、後半の組立検査は人手中心の作業である。だから、敷地の制約で二階建て以上の工場を計画する場合、重い機械を要する部品加工工程を1階におき、組立検査工程を上階に配置することが普通だ。重たい機械を2階以上に設置するには、床の耐荷重を上げなければならず、建築コストが上昇するからだ。

ところが、原材料搬入も製品出荷も普通はトラックで行うから、搬入搬出口は1階に設置する。そして倉庫も、(それが材料倉庫・中間部品倉庫・製品倉庫のどれであっても)重たいので1階におく。かくして、工場の中には、1階→2階→1階→2階→1階というような縦の物流動線が複数必要になる。そればかりでなく、生産の流れが複数フロアにまたがって分散すると、全体としてどこに滞留が生じているか分かりにくくなるし、どこかで問題が生じても、他のフロアは気づかずに操業を続け、結果として仕掛品の山とワークロードの不均衡を生み出してしまう。「流れをつくる・流れを見せる」が工場レイアウトの基本なのに、それにそむくことになるのだ。

この問題の一つの解決法は、前回ご紹介したN社の事例のように、製品搬出口を2階に持って行く方法である。1階から搬入した材料は1階で部品に加工する。そして2階で組み立てた製品は、2階から梱包出荷する。N社の場合、上流側の部品加工はNCを用いたロット加工であり、下流側は個別受注生産になるため、必ず中間部品在庫が生じる。そこで中間部品在庫用の立体自動倉庫を置き、自動倉庫に縦搬送機能を持たせることによって、工場全体の中に1階→2階という明確な流れをつくったのである。「入口と出口を分けて、流れをつくる」は物流倉庫の基本だが、それを工場全体で実現したのである。

もう一つの解決法が、講演で説明したK社の工場レイアウトだ。K社は我々が数年前に見学した、川口市にある歯車メーカーである。従業員数約200名、年商数十億 の中堅企業だ。K社の工場は3階建てだが、製品種別にしたがってフロアを分けている。大型歯車は1階で、小型歯車は2階で、それぞれ全工程を完結できるようにしてある。したがって、2階にも重量のある機械を置いている。建築の素人であるわたしの目から見ても、床の耐荷重は大きめの構造になっていた。 建築費が上がることは承知の上 でのレイアウトである。

だが、一つの品種の製造の流れが、フロア内で見通せることのメリットの方が、建築費の節減よりも大きいという判断があったのだろう。大変立派な判断だと、わたしは思う。K社を見学に行ったのはたしかリーマンショックの直後だったと思うが、急激な受注減を受けても、ちゃんと持ちこたえて経営されていた。「製造は労賃の安い中国で」というのが常識のごとくメディアで宣伝され、「日本の中小製造業は、大企業の新製品開発サポート業務くらいしか生き残る道はない」と経済産業省が勝手に決めつけていた時代を、ちゃんと生き延びているのだ。

じつは、K社を良く知る知人の指摘によると、K社にはもう一つ首都圏に工場があり、そちらは何とN社と同じような、2階搬出口によるレイアウトになっているという。同社にはこの他にも、学ぶべき立派な事がいくつもあって、講演でもその一端を紹介した。まともな工場を作り、まともな方針で経営している企業は、サステイナブルに事業を継続できるのだと、強く印象づけられた工場見学だった。

それにしても、N社やK社などの創造的な中堅企業ではずっと前から実現できているレイアウトが、なぜ全国の大企業の工場ではできていないのだろうか。工場の規模が違いすぎるから? わたしはそうは思わない。というのは、現代日本ではどこの製造業も、多品種少量生産を否応なく迫られていて、個別の製品群で見ると、そんなに巨大大量生産の工場というのは無いからである。大企業には創造性の高い人材が少ないから? いや、中小企業の経営者たちは口を揃えて、優秀な学生は大企業にばかり入りたがる、というであろう。

わたしは、「部門の縦割り(サイロ化)の弊害が、非効率な工場設計を生んでいる」のではないかと疑っている。企業が大きくなればなるほど、組織構造は立派になり、分業が進み、それぞれの部門が明確な責任範囲を受け持つ体制が発達する。小さな企業では、一人がいろんな事を見なければならない。だが大きな組織では、守備範囲にしたがって、工場づくりなどの仕事も進められる。

そのような分業体制の中で、「各人がその持ち場で最善を尽くす」ことにより、企業全体として最良の結果を得る。——これが一般に信じられている原則だ。たとえば、工場設計においては、機械類は生産技術部門が、建物は総務部門が担当するケースが多い。機械は最高のパフォーマンスのものを導入し、建物は最も安価で堅牢なものをつくる。かくして素晴らしい工場ができあがる、はずである。

しかし、そうではないのだ。N社やK社の例を見ればわかるとおり、建設費の点ではむしろ、外周スロープや耐荷重などで余計なコストをかけている。とうてい最適解とはいえはない。しかし、ある部分ではあえて最適から外すことで、全体としては効率とフレキシビリティを兼ね備えた優れた工場(生産システム)に仕上がる。これが「システム」を設計する仕事の妙味である。なまじ分業化を進めると、こうした視点が消え失せてしまうのだ。

わたしの見た限りでは、日本のディスクリート型製造業における工場づくりは、典型的には次のような流れで進む。

(1) まず、生産技術部門の機械エンジニアが、製造工程の中核となる製造機械装置の基本設計を行う
(2) 続いて、生産技術部門が機械メーカーを選定し、そのメーカーとともに詳細設計を進める
(3) さらに、生産技術部門は資材部門の協力の下、汎用機など補助製造設備の選定を行う

ところで上述の通り多くの企業では、「建物は総務部門の管轄」という決まりになっている。そこで、

(4) 上の流れに並行して、総務部門は設計事務所をよんで、建屋の建築レイアウトをすすめる
(5) ついでゼネコンが入ってきて、建築の実施設計にむけた作業を続ける

ただし工場は建屋と製造機械だけでは成り立たない。保管用の倉庫や搬送装置など、物流搬送設備が必要だし、あるいは電力・水・圧縮空気などのユーティリティも必要だ。というわけで、

(6) 生産技術部門が、製造機械の設計を追う形で、物流搬送設備等の基本設計をすすめる
(7) ついで、生産技術部門が物流メーカーを選定し、そのメーカーとともに詳細設計を進める

で、その結果どうなるか。技術を良く知らない総務部門の事務屋さんが設計事務所に命じて描かせた、ガランドウの建屋プランの中に、生産技術のメインとサブのグループが、エンジニアの視点でそれぞれ選んできた機械設備を配置しようとする。答えはご想像の通りだ。きれいに収まる訳がない。しかたなく、それぞれ基本設計に戻ってやり直しとなる。かくて目に見えぬ無駄な時間が浪費されていく。
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こうした再調整のリワークを避けるたければ、あらかじめ、機械 – 建築 – 設備の間の取り合い(インタフェース)に、かなり余裕を見ておくしかない。インタフェースとはすなわち、耐荷重、電力容量、貫通孔などなどである。だが、当然これはコストアップを意味する。よほど余裕のある工場でなければ(あるいは総括原価方式などで顧客にコスト転嫁可能な企業でなければ)できる相談ではない。

しかし、それよりも問題なのは、「建築コスト最小」と「機械パフォーマンス最高」の足し算の方程式を無理やり解いた結果、全体の流れが錯綜した空間構造、レイアウト変更が容易でない空間構造になってしまう点である。これが、操業後の見えない非効率の温床になる。分業と「すり合わせ型」意志決定が、全体の設計思想なき工場を生んでしまうのだ。

おわかりだろうか。A. 大きな問題を、複数の小さなサブ問題に分解する。→ B. そして、それぞれのサブ問題に対して、最適解を求める。→ C. それらを組み合わせて、全体に対する最良の解を得る・・というのは、いつでも成立する訳ではないのだ。このアプローチは有用だが、元の問題が「足し算の論理」で評価できる場合にしか、成り立たない。そして、わたしの言う『生産システム』は、そうした足し算だけでは評価できない典型なのだ。そこでは、もっと別のアプローチ、すなわちモデリングとシミュレーションを使ったシステムズ・アプローチが必要になる。有用性・冗長性・安定性など複数の評価尺度を考えながら、システムの構成員である人間のふるまいを予測し、導くような設計論が必要なのだ。

そして、だからこそ工場見学は面白いのである。そこには相矛盾する複数の問題に対する、知恵が込められている。込められている、はずである。少なくとも、現場近くで実際の仕事を見ているエンジニア達は感じているはずなのだ。ただ部門単位での局所最適を足したって、全体として良い仕組みは生まれないのだ、と。


<関連エントリ>
 →「工場レイアウト設計の典型的問題と、そのエレガントな解決法」 (2016-06-16)
# by Tomoichi_Sato | 2016-07-25 22:37 | 工場計画論 | Trackback | Comments(0)

工場レイアウト設計の典型的問題と、そのエレガントな解決法

工場見学ほど面白いものはない。なぜなら、工場はそれ自体が大きくて複雑なシステムそのものであり、そのシステム作りに各社独自の工夫も盲点も現れてくるからだ。——そういう意味のことを、これまで何度も書いてきた。また、すでにお知らせしたとおり、来る7月20日(水)に「生産革新フォーラム」(通称「MIF研」)で『上手な工場見学の見方・歩き方 〜エンジニアリング会社の視点から〜』というタイトルでお話ししたいのも、その点だ。だが、もう少し具体的に、わたしがよその工場を訪問したら、最初にどこを見るかについて書いてみたい。

ものづくりの方式やプロセスにはいろいろバリエーションがあるが、機械組立加工系を例にとると、だいたい次のような工順(工程順序)をふんでいる:

 材料受入 → 部品加工 → 組立 → 検査 → 梱包出荷

この途中に通常、「在庫保管」も入るが、どこに入るかは工場の方針次第のため、ここでは省略しておく。

効率的で作業しやすい工場設計・レイアウトを考える場合、上記の5つの作業を行うワークセンターを、どこにどう配置するべきかが問われる。普通、工場は建屋の中に入っているから、建築面における空間設計と、生産技術面での機械配置の折り合いが必要になる訳だ。これは日本国内の既存の工場の場合も、海外に新工場を作る場合も同じである。

とくに土地代の高い日本や、一部のアジア都市近郊部では、敷地面積が限られるため、どうしても工場は2階建て以上の多層階構造になる。すると、どの階にどの工程を配置するかで、頭を悩ませることになる。

このレイアウトを考える際、制約条件が一つある。あまり重い機械・装置は、上の階に乗せたくない、という制約だ。建築には、床の「耐荷重」という概念があり、m2あたり500kgとか1 tonとかいった数字で表す。これが大きくなればなるほど、当然ながら構造に剛性を持たせなければならない。柱や梁は太くなり、床・スラブは厚くなり、斜めにブレース補強なども必要になるだろう(慣れた人になると、柱・梁の太さや配置を見ただけで、耐荷重がどれくらいの値か見当をつけることができる)。つまり、「耐荷重=建設コスト」なのである。だから、あまり重たいモノは、2階以上には配置したくない。

ところで多くの場合、「部品加工」の段階はかなり加工機械・装置を使うことになる。プレスマシンだとかマシニングセンターだとかFMSだとかいった大型の機械装置である。そして重い。他方、組立作業とか検査作業は人間の手作業が中心だ。だからそれほど大がかりな機械はいらない(せいぜい搬送用コンベヤ程度だ)。

こう考えると、自然、部品加工のワークセンターは1階に置き、組立・検査工程は2階以上に配置しよう、という方針が出てくる。実際、わたしが見た日本の多くの機械系工場は、こういう発想でレイアウトされている。

ところが、ここに問題が一つ生じるのだ。それは「モノの流れ=動線」の問題だ。

いうまでもないが、外部から購入した原材料・部品は、トラックで運んでくる訳だから、当然1階に受入口を持つことになる。また自社で生産した製品も、トラックに載せて搬出する訳だから1階に出口がいる。いきおい、出荷梱包のスペースも1階におくことになる。かくて、モノは1階から入って、加工され、途中で2階以上に持ち上げられて組立・検査を受け、また1階におろされる。縦方向の物流動線が、最低でも往復2パス必要になる。

それだけではない。上ではワザと省略したが、「在庫」の位置の問題がある。倉庫という設備も、かなり重たい代物だ。だから、上層階に大きな倉庫を置くと、金がかかる。いきおい、原材料倉庫も、中間品倉庫も、製品倉庫も、1階におくことになる。じゃあ、工程間に生じる仕掛かり在庫は? 物量にもよるだろうが、多ければやはり1階になる。

かくて、複数の上下動線が必要になる。エレベーターを使うにせよ、ダムウェイターや垂直コンベヤを使うにせよ、上下階を貫通する位置が建築上必要になる。いきおい、各階のレイアウトが制約される。そして物流動線が複雑化する。

それだけではないのだ。もっと深刻な問題は、モノの流れが見えにくくなって、どこで何が滞留し、どの工程で問題が生じているのかが分かりにくくなってしまうことだ。ちょっと想像してみてほしい。あなたの家の台所が、上下2階に別れているとする。1階には流しや冷蔵庫が、2階にはコンロや電子レンジや盛りつけ場がある。かりにその間はオシャレな螺旋階段か何かで結ばれているとしても、いかに非効率かわかるはずだ。この非効率を、工場規模で実演しているのが、日本の多くの工場なのだ。まあ、そうした非効率に気づかずにいる“シアワセな人”が工場長の場合も、よく見かけるが。

こういう問題が生じる遠因は、企業内の縦割り組織にもある。多くの会社では、製造機械は生産技術部門の所管だが、建物それ自体の発注は、総務部門の事務屋さんたちの管轄になっている。かくて、機械は機械、建物は建物で計画されて、全体を「システム」の効率の問題としてとらえる視点が欠けているのだ。

では、どう解決するべきか。よほどお金のある工場、あるいはクリーン度が必要とされて人手の作業を嫌う半導体や医薬品工場などは、「立体自動倉庫」を導入して、複数階からの出し入れ可能にするかもしれない。スタッカー式クレーンをもつ立体自動倉庫は、縦搬送と保管の両面の機能を持つすぐれた仕組みである。だが、高価だ。その上、これが故障すると(あるいは定期メンテに入ると)工場全体の機能が止まってしまう。だからバックアップの搬送の仕掛けが必要になる。さらに建築設計面から言うと、レイアウト上の大きな制約事項になる。「在庫が見なくなる」という理由で、これを嫌うJITコンサルも多い。

工場内の物流動線は、「流れをつくる」が基本である。モノの流れをつくり、滞留が見えるようにする。これが「見える化」の本流だ。なのに土地が狭く多層階の工場では、その実現が難しい。どうしようか。こういう点が、エンジニアの知恵や工夫の発揮すべき場所である。

この問題に対して、エレガントな回答を与えた例を一つ紹介しよう。東京近郊にある、N社の工場である。この工場では、セオリー通り、1階に重量の大きな加工機械設備を置き、1階に組立・検査エリアをおいた。工夫したのは、あえて2階に製品搬出口をもうけたことだ(念のために書くが、平地に建っている工場である)。これを可能にするために、建物の側面に長いスロープを周回させ、搬出用トラックが2階にアプローチできるようにした。原材料の搬入口は1階にした。原材料倉庫も1階だ。

ところで、この工場は多品種少量の受注生産形態だ。ただし部品はGT(グループテクノロジー)を応用し、NCでロット加工をする。だから、組立工程との間に、必ず中間部品の在庫が発生する。そこで、1階と2階を貫通する形で、小規模な立体自動倉庫を置き、ここを中間部品倉庫・兼・上方向搬送路とした。かくして、1Fの受入から2Fの搬出まで、流れができた訳だ。モノの見通しは、抜群に良くなった。
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お分かりだろうか。これが工場の「システム・デザイン」なのだ。サプライチェーン上の要求と、機能要素(各工程)の関係と、空間配置の制約とを同時に解いて、人間が判断しやすく働きやすい仕組みをつくる。こういう設計思想の明確な工場を見ると、勉強になった、見て得したな、という気持ちになる。

ついでにいうと、この工場は、機械工場であるにもかかわらず、全館空調である。鉄骨スレートでは断熱性が悪いので、鉄筋コンクリート構造だ。そして空調のために、煙の出やすい切削油を全て水性にかえたという。当然、切削条件がかわってしまい熟練工のノウハウが生かせなくなる訳だが、快適な労働環境のためには当然という判断だった。こうした点が認められ、この工場は日本建築学会賞をとったときいている。

え? そんな素晴らしい工場なら、ぜひ見学してみたい? 残念ながら、もはや不可能だ。なぜなら、この事例は45年前のものだからだ。同じ敷地はまだ残っているが、業容拡大に伴って建物自体はかなりの増改築があり、元の姿は残っていない。ただ、世の中にはいまだ鉄骨スレートぶき、外気とツーツーで寒暖激しい労働環境の機械工場がゴマンとある。たとえ空調はあっても、動線は複雑、可視性は最低、そして欠品と納期遅れで右往左往、という工場だらけだ。もっとずっと前に、こうした先進事例の発想に学んでおけば、自社の改善にも役立っただろうに。

なぜ他の工場に学ばないのか? 先賢に学ぶことこそ、我々が成長する最大の近道ではないか。たしかに同業ライバルの見学はお断りという会社は多い。だが少しでもものごとを抽象化してとらえる能力さえあれば、別の業界の工場からも、学べる点はたくさんあるのだ。そして、(少しだけ宣伝めいたことを言わせてもらえば)多数の工場づくりにかかわってきた工場づくりのプロ=エンジニアリング会社の価値だって、そこにあるのである。

20日の研究会では、こうした点をお話ししようと思う。ちなみに、上に述べたN社の例は、解決法のひとつに過ぎない。機械組立加工系でも、別の解決法もあるのだ。それがK社の事例である。K社はどのようにこの問題を解決したのか? 興味を持たれた方は、ぜひ会場にお越しいただきたい。もしかしたら満席になるかもしれないので、ぜひ駆け足で(笑)。


<関連エントリ>
 →「工場見学ほど面白い物はない」 (2007-06-15)・・・この記事を書いてから、もう10年近く過ぎましたが、はたして予言が当たりましたかどうか。
# by Tomoichi_Sato | 2016-07-16 21:32 | 工場計画論 | Trackback | Comments(0)

講演のお知らせ:『プロに学ぶ、上手な工場見学の見方・歩き方』

例によって直前のお知らせで恐縮ですが、研究会で講演します。
来る7月20日(水)18時30分より、わたしが幹事の一員をつとめる中小企業診断士協会「生産革新フォーラム」で、

プロに学ぶ、上手な工場見学の見方・歩き方

と題する講演を行います(場所は日本橋堀留町公民館の予定です)。

わたしは工場づくりのプロ集団であるエンジニアリング会社に長年勤めておりますが、同時に工場見学も大好きで、機会があれば国内外のいろいろな工場を見学してきました。

製造業は業種や製品によってバラエティが大きく、たとえば日本では「工場」と「プラント」を別物のように考えています。が、英語ではどちらもPlantで、工場長はPlant Managerです。実際、見た目は両者でかなり違いますが、共通点も多く、また悩みや課題、そして解決の方向性も共通しています。

多くの工場(とくに消費財メーカー)は、顧客や地域社会との良好な関係づくりのために、工場見学の標準メニューや見学コースも用意しています。そういうコースを歩いて、「見た気分」になるのは簡単ですが、本当に大事なのは、その工場がどのようなレベルにあるのか、どのような設計思想でつくられているのか、どこに仕組み(システム)上の工夫があるのか、そしてどこに非効率やカイゼンのタネが潜んでいるのかを、見抜く力です。

このサイトでも以前、「超入門:上手な工場見学の見方・歩き方」と題するエントリを書きましたが、今回の講演ではこの内容をバージョンアップし、工場を「生産システム」ととらえることで、目に見えにくい仕組みを見抜くとともに、工場の未来の姿についても考えます。本研究会は診断士でなくても自由に参加できますので、工場作りに関心のある大勢の方のご来聴をお待ちしております。


佐藤知一@日揮(株)
# by Tomoichi_Sato | 2016-07-12 12:31 | 工場計画論 | Trackback | Comments(2)

トラブルには技術的原因と、マネジメント的原因がある

トラブルの原因分析について、このところ2回にわたって考えてきた(「熱気球の浮上、または原因分析のシステムズ・アプローチについて」・「経験から学びすぎることの危険 ~ゆらぎある事象の原因分析について」 )。原因分析の手法にこだわっているのは、それが「学び」と「成長」の鍵だからである。自らの能力を向上させ、成長するためには、仕事の結果(成果)から学ぶべきだと、わたしは信じている。個人も、組織集団も、である。

仕事の結果としてトラブルが生じたら、そこから素直に学ぶ。成功からも学べるが、失敗から学ぶ方が、記憶に強く残るからだ。そして(当然ながら)すべてに成功できる人なんていない。あの本田宗一郎だって、「自分は失敗ばかりしていた」と言っているくらいだ。他人から見たら成功でも、自分ではそこに足りない点を見る、というのがこの経営者の卓越した点だったのだろう。

さて、繰り返すが、『根本原因』Root Causeとは、トラブル事象を因果関係で最上流までさかのぼって、「わたし達がコントロールし改善できる要因とみなせる事柄」を言う。自分が改善できない範囲の要因を、根本原因ととらえてはいけない。たとえば「不況のせいだから」とか「経営者がアホだから」というのは、根本原因にはならない(居酒屋談義ではよくきく説明だが)。

わたし達の意志の及ばない範囲のことは、ふつう「環境」とよぶ。市場環境とか自然環境とか職場(内部)環境といった言葉である。環境はわたし達の行動に影響を及ぼして、仕事の結果(成果)をけっこう左右する。「行動」と「環境」が成果を決める二大因子なのだ。

成果 = 行動 + 環境

そして、わたし達の行動は、実際には、わたし達が持つ「能力」と、「道具」と、わたし達の「意志」(決断)によって決まる。

行動 = 能力 + 道具 + 意志(決断)

能力とは潜在的なもので、多くの場合は結果を達成した確率から間接的に測られる。野球の打率のようなものだ。確率になるのは、環境がそのたびごとに変動する(相手の投手だとか体調だとか球場だとか)からである。以前の記事で、「チャレンジ行動」と「冒険的行動」を区別して書いたが、じつはどちらも確率的なものであって、単に失敗のリスク確率がリーズナブルか非常に大きいかの違いでしかない。リスク確率が高くて、無謀に思える冒険的行動をとるのは、「意志」(決断)でそう決めたからだ。もちろん、能力は使う道具にも依存する(良い道具を選んで使いこなすことは能力の一部である)。
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さて、トラブル事象の原因分析をしていくと、原因には大きく二種類あることに気がついてくる。第一は、直接の技術的原因(きっかけ)である。それは、

(1) 能力に関わるもの:単純ミス、担当者の能力の低さ
(2) 道具に関わるもの:道具の故障、不適切な道具の使用
(3) 人間の意志(判断)に関わるもの:問題行動、悪意
(4) 環境に関わるもの:危険な環境、無理な制約

といったことだ。いずれも、上の方程式にある項目と関連している。

ところが、大きなトラブル事象の場合、直接の技術的原因(きっかけ)以外に、「マネジメント的な原因」が存在するのが常である。マネジメント的原因とは何か。それは、技術的原因(きっかけ)で生じかけたトラブルが、そのまま仕事の成果に出ないような「仕組み」を作ることを怠った、あるいは仕組みが機能しないのに放置していた、ということである。

たとえば、上記(1)の単純ミスについて考えよう。人間はミスをおかす生き物である。ミスをしない人はいない。だから、ポカよけ・多重チェック・インターロックなどの仕組みを講じるべきなのだ。乾電池を逆向きに入れられない形に設計する、といった工夫がポカよけであり、外側の扉を閉めないと内側のドアが開かない暗室の入り口のような仕組みが、インターロックである。一般に、人間のミスや誤判断を防ぐ仕組みを総称して「フールプルーフ」とよぶ。

また、(2)道具や機械は必ず故障するものである。故障が生じたとき、それが重大事故や製品の欠陥に結びつかないようにする仕組みを「フェイルセーフ」とよぶ。本質的安全設計、多重化・冗長化、バックアップ、ニンベンのついた自働化、工程内検査(自工程完結)などがその例だ。

(3)の人間の問題行動については、たとえばルール・契約・教育研修などによって低減できる。「無知」というのは問題行動の大きな源泉だが、まさに過去のLessons Learnedから「学び」を共有することが、最大の対抗策である。

(4)の危険環境については、人間が危険な環境(作動中の機械なども含む)に直接触れないよう、防護柵を設置するなどの「セーフガード」が必要である。「作業環境」を清潔・快適に保つことが大事なことは、言うまでもない。また自然災害についても、発生を極力リアルタイムに検知・予測できるような仕組みをつくる、あるいは保険をかけて事後の回復を容易にする、などの手段がある。

トラブルや問題発生の可能性を予見して、フールプルーフ・フェイルセーフ・訓練・保険・セーフガードなどの対策を講じること。これを、一般に『リスクの事前対策』とよぶ。リスクの事前対策は、トラブル発生時の事後対応、そしてトラブル終結後の原因分析・学びとならんで、リスク・マネジメントの三本柱である。

大きなトラブル事象の原因分析をすると、たいていの場合、上に記したリスクへの事前対策が適切にとられていなかったこと、つまり「マネジメント的原因」が見つかる。逆にいうと、大きなトラブルは、直接の技術的原因(きっかけ)と、マネジメント的原因が同時に組み合わさったときに起きるのだ。もちろん、マネジメント的原因を見つけるためには、仕事の仕組み(システム)を見とおす能力がいる。

トラブルに学んで成長するためには、まず、起きた事実を、利害や好き嫌いなどの感情を離れて、できるだけ客観的に見る必要がある。そして現実と、意図した結果(約束や目標)からの乖離を見る訳である。ここが曖昧だと、原因分析のプロセスが起動しないため、何も学ぶことができなくなってしまう。また、かりに原因分析をしたとしても、マネジメント的原因の方を見過ごすと、一切の責任は、直接のきっかけを作った担当者にかぶさってしまう。あるいは不運な環境のせい、ということになってしまう。そして次のトラブルの根本原因は残ったままだ。だから担当者が変わっても、いつも似たようなトラブルの繰り返しということになる。いつも似たトラブルを繰り返すときは、「マネジメント的原因」の存在を疑うべきである。

今回の話は、ここで終わりにしてもいい。しかし(いつものくせで)もう一言だけつけくわえておこう。じつは、こうした「学びのサイクル」を阻害するものが、身近にあるのだ。思考習慣の上の問題、あるいは組織のOSのバグと言ってもいい。

それは、仕事の成果を、すべてリーダーの人格だけで説明する議論である。「あの仕事はうまくいった、それはリーダーのAさんが立派だったからだ。」「この仕事は失敗だ、なぜならリーダーのX氏がダメな奴だからだ。」・・こうした議論は、実質的に何も生まない。そもそも人の性格なんてすぐには変えられないのだから、結局、「リーダーを取り替える」しか、処方箋が出てこない。

こうした議論は、派閥や権力争いのある場所で生じやすい。そういった人間集団では、トラブル事象は、つねに「敵を攻撃する材料」としてとらえられる。結果として、不都合な事実やトラブルは、しばしば隠されることになる。こうした状況を皆さんはご覧になったことはないだろうか? たしかに人間集団には、権力争いがつねにつきまとう。だが、こんな組織で学びや成長がありうるだろうか?

こうした不都合を防ぐために、『ガバナンス』の仕組みが生まれたのである。ガバナンスとは、マネージャーをマネジメントする仕組みである。あるいは、リーダーの勝手気ままを牽制する仕組みといってもいい。

ガバナンスの仕組みでは、ルールや目標を明文化し、リーダーの恣意的判断や結果への言い逃れを防ぐ。ルールによって、リーダーや組織全体の行動の予見可能性を高めるのである。また記録をとり、第三者によるチェックを可能にすることも重視される。無論、必要に応じてはリーダーその他のポジションを入れ替えることもある。株主総会と取締役会というのは、代表的なコーポレート・ガバナンスの仕組みだが、まさにこういう仕掛けになっている。

こうしたガバナンスを構築することは、たしかにめんどくさいし、余計な間接業務が増える。日本版J-SOX と内部監査とで、いらん仕事が増えたと感じている向きも多いだろう。現在のJ-SOXのあり方を、全面的に弁護するつもりなど、わたしにもない。また、あれだけ守っておけばガバナンスは十分だというつもりもない。上に縷々述べたとおり、ガバナンスの仕組みとは、組織が学んで成長するために必要な、後戻り防止装置なのである。

わたし達は、お殿様が何でも独り決めできた、昔の時代に生きている訳ではない。ガバナンスは、組織の現代化には必須の仕組みなのである。かつての時代、殿様が無能だと、組織は何も学べなかった。わたし達は違う。仕事の成果を客観的に見て、目標値と比べて評価し、問題があれば原因分析を行って、仕事のシステムを改善することのできる時代に生きている。こうした仕組みこそ、やれ戦略だとかなんだとかいう前に押さえるべき、基本中の基本なのである。

<関連エントリ>
 →「熱気球の浮上、または原因分析のシステムズ・アプローチについて」(2016-06-15)
 →「経験から学びすぎることの危険 ~ゆらぎある事象の原因分析について」(2016-06-23)
 →「ハイボールと、本質的安全設計の教え」(2014-01-19)
# by Tomoichi_Sato | 2016-07-09 15:48 | リスク・マネジメント | Trackback | Comments(0)

映画評:★★★ 「スティーブ・ジョブズ」

2016/06/07
機内TVにて。
監督:ダニー・ボイル、脚本:アーロン・ソーキン、編集:エリオット・グレアム、音楽:ダニエル・ペンバートン
出演:マイケル・ファスベンダー(スティーブ・ジョブズ)、ケイト・ウィンスレット(ジョアンナ・ホフマン)、セス・ローゲン(スティーブ・ウォズニアック)、ジェフ・ダニエルズ(ジョン・スカリー)、マイケル・スタールバーグ(アンディ・ハーツフェルド)、パーラ・ヘイニー=ジャーディン(19歳のリサ・ブレナン)、他
2015年アメリカ映画

スティーブ・ジョブズ (DVD)」 (Amazon.com)

近頃、これほど面白い、引きつける力の強い映画を観たことがない。機内TVの小さな画面で、ほんの試しに選んでみただけだったが、あっという間に引き込まれて一気に見てしまった。

映画の構成はシンプルである。ジョブズの生涯で最も重要な三つの製品発表であった、1984年のMacintosh、 1988年のNeXT、そして1998年のiMacの、プレゼンテーション開始直前のそれぞれ40分間を描く三部構成。登場人物たちもかなり重なっているので、時こそ飛躍はあるが、ほとんど古典演劇の三一致原則のような完成度を感じる。この単純なプロットで、スティーブ・ジョブズの公私にわたる複雑な物語と人格の成熟とを描き切った脚本・編集・そして演出の手腕は見事である。

ジョブズが傑出した人物だったことは多くの人が認めるだろう。だが個人的には自惚れが強く気まぐれで傲慢で独裁的で、しかも非常に傷つきやすい人間だった。自分のボスには到底仰ぎたくないタイプである。Macintoshプロジェクトの生みの親だったジェフ・ラスキンは、「現実歪曲フィールド」という、重力場をもじった造語で彼を形容している。それくらい強引なのだ。Macintoshは結局ジョブズが乗っ取って、マウスとGUIを前提としたコンピュータにしてしまう。

この映画では、シテ役のジョブズに対して、ツレ役のジョアンナ・ホフマンが連れ添って、彼と現実界のインタフェースを引き受ける。このケイト・ウィンスレットの演技はとても良い。ジョアンナは最初のApple時代に「ジョブズにもっと果敢に逆らった社員」賞を二度も受賞した人だ。広報マーケティング担当者として出てくるが、元はラスキンがMac開発チームに雇った人で、彼女がMacintosh User Interface Guidelineの最初のドラフトを書いたと、映画を見た後で知った。それはさておき彼女が、プレゼン前で極端に興奮するジョブズをなだめ、娘のリサと和解させようとしたり、次々とバックステージを訪れてくるウォズやスカリーらと話させる。この趣向が面白い。

もっとも、プレゼン前40分間という枠組みのため、とにかく皆を楽屋裏に呼び寄せなくてはならず、そこに無理があるとも言える。娘のリサが3回とも見に来ていた、などというのも明らかに脚色だろう。事実を元にした実名フィクションなのだから、その脚色の手腕をほめるべきだが、うっかりすると全て現実にあった話だと誤解する観客も出てくる。そこであえて廊下の壁に連想的な映像を映し出したりして、これはフィクションですと告げる。さすがである。

ビジネスマンとしてのジョブズのキャリアは、失敗続きだった。初期のApple II販売の成功を除くと(開発したのはウォズだ)、Lisaで失敗し、Apple IIIからも拒絶され、起死回生のMacintoshも高くて遅くて大赤字だった。プレゼン最初の音声デモは、アンディ・ハーツフェルドがメモリを512KBにこっそり増設して、やっと乗り切ったと映画は描いている。

結局彼は自分が呼んだスカリーに逆に追い出され、AppleをクビになってNeXT社を作る。だが肝心の製品Cubeは発表後1年経ってようやく売り出され(つまり未完成のままボストンであのプレゼンをやったのだ)、これも大赤字。しかしNEXTSTEP OSをAppleが買収する形で、古巣に舞い戻る。そこでも赤字のため首切りリストラを実行し、3度目の起死回生としてiMacを開発する。

iMacの成功によってジョブズは再び時の人となり、その後の快進撃は誰もが知っている。だから映画はその後は描かない。この映画の優れているところは、ジョブズ生涯の最後の成功を、彼の人間としての成熟に結びつけて暗示している点だ。その象徴として、娘のリサが三度にわたり登場する。いったんは親子の認知を拒否し、そのくせ新型コンピュータにはLisaの名前をつけ、しかし母子が経済的に困窮してもたいして面倒を見るわけでもない。

こうした彼の矛盾と弱さは、シリア人男性とアメリカ人女性の間の私生児として生まれ、里子として「返品された」という彼の出生時のトラウマに、そのまま直結している。その「返品」劇は、Appleの臨時役員会で彼が解任される時に、もう一度再演されるのだ。

大人になってから彼が経験する二度目の拒絶=Apple追放は、しかし赤ん坊の時と違って、本人が呼び寄せたものだ。彼があまりにも他人の感情を理解せず、無視したことから生じている。現実歪曲場の中心には、自分の感情だけしか存在しなかったのである。仕事の成果のみが彼の存在証明で、そのくせ、仕事では他人に働いてもらうことが必要だった。

じっさいジョブズほど、シリコンバレーで珍しい経歴の持ち主はいない。彼はエンジニアでも天才プログラマでもなく、MBAあがりのプロの経営者でもない。そうした仕事は彼の仲間だったウォズや、アンディ・ハーツフェルドや、スカリーが受け持ち、また逆の意味で旧敵ビル・ゲイツなどが果たしていたのだ。

では、スティーブ・ジョブズとは何者だったのか。大学も出ておらず、モノも製作できず、審美眼はあるかもしれないが、自分で絵を描いたりデザインをするわけでもなく、大企業の勤務経験もなく、技術も素人だ。こんなキャリアで成功できた人間が、シリコンバレーで他にいただろうか?

ジョブズにできたこと、ジョブズが持っていたこと、そして他の人間に足りないものが、一つだけあった。それは「一貫性」への強い執念である。あらゆる細部にわたって、彼は自分の思想と趣向にこだわった。ハードと、OSと、ソフトと、デザインがすべて首尾一貫していることを、彼は求めた。それがジョブズの製品と、大勢の亜流たちとの決定的な違いだった。そのことは、三回のプレゼンの準備過程にとてもよく現れている。思想の一貫性こそ、ジョブズがいつまでも現役でいられた秘密である。彼に比べるとウォズもスカリーも、いやビル・ゲイツでさえもはや過去の人だ、という印象をわたし達はぬぐえない。

ただし最初のMacも、二度目のNeXTも、一貫性の魅力はあったが、バランスに欠けていた。それが製品としての弱さだった。

iMacこそ、彼の製品がバランスを備えはじめた最初の例だ。それは彼の精神が、試練を経て、中庸を得始めたことの表れであると、描かれている。その証拠に、三度目のプレゼンに望む主演マイケル・ファスベンダーの顔は、実際の映像に残っているまだ中年のジョブズではなく、病気で痩せて哲人の風貌を帯びはじめた晩年のジョブズの顔をしているからだ。これこそ、演出上の最大のトリックであろう。それまで一切、他人の感情に歩み寄ることがなかった彼が、ようやく娘リサへの愛情に動かされて、和解に向けて足を踏み出してゆく。

だからその後、実際にiMacがヒットしたかどうかは、ストーリーとしては本当はどうでもいいことなのだ。彼が他者に愛情を与えることを通して、自分が必要とされていることを確信するところで、映画は終わる。そのことこそ、誰にも共通な、真の成功に向けた一歩だったからである。
# by Tomoichi_Sato | 2016-07-04 22:36 | 映画評・音楽評 | Trackback | Comments(0)